愛や恋なんて要らない。
抱かせてくれれば、それでいい。

それなのに、いつしか俺は、
そんな不確かな物を求める弱い生き物に成り下がっていた。

会いたい。
会いたい。
会いたい。

願いなど叶えられぬまま、意識が遠ざかっていく。
真っ暗な空間が、どんどん淡く霞み掛かっていく。

終いには、赤髪の彼の姿も見えなくなる。

遥か遥か、遠い記憶。
俺は、溺れる様な恋をしていた。

OLD MAID
014/「初めまして」

「早速で悪いけどな、ちょっと話さなきゃいけない事があるんだ」

赤髪の青年ジャックが言う。

「う、うん、何かしら」
「ああ、でも時間は大丈夫か?
夜も更けたけど」

緑髪の少女が、小さくはにかむ気配がする。
恐らく、大丈夫だと応えたのだろう。

柱に隠れている飛鳥の手は、じっとりと汗が滲み出てきていた。
何故だか、いけないものを見ている気がした。

目の前に居る人は、よく見知っているようでいて、実は全く知らない顔を持つ赤髪の青年だった。
彼は、飛鳥に対する時とは全く異なる態度で、緑髪の少女に接していた。

飛鳥は、甘いトーンで喋る赤髪の彼を知らない。
誰かを心配する優しい言葉を遣う事も知らない。
いつもは、無愛想な表情で、ぶっきら棒な台詞しか吐かない。

これではまるで。
いや、確実に二人は、特別な関係なのではないだろうか。

緑髪の少女を見つめる赤髪の青年の眼差しが、ひどく優しい。
飛鳥に対して吐く暴言など、同じ口から出てきていることが想像出来ない程だ。
少女の髪に触れる手も、さも愛しい物に触るかのように穏やかだ。

飛鳥の心の臓が、どくどくと騒ぐ。
嬉しい時の高鳴りとは違っていた。
嫌な胸騒ぎが、静かに襲ってくる。

呼吸器も、詰まってしまったのだろうか。
うまく息を継ごうとしない。

その時、また新しい声がした。

「アララ。
talonの前で態々抱き合わなくても、中に入ってしちゃえばイイのに」

その声に、ずくんと一際大きく飛鳥の胸が鳴った。
得体の知れない物に、思い切り強く締め付けられる感覚さえあった。
先程の赤髪の青年と緑髪の少女を見た時など比べ物にならない程に、大きな衝撃だ。

聞いた事がある。
聞いた事があるだけではない。

聞きたかった。
ずっと、聞きたかったのだ。

その声を、心の奥底が求めていた。

数年前、己の耳元で愛を囁いていた、少し低めのテノールのトーン。
やや英語交じりの癖のある調子。

それが、赤髪の青年と緑髪の少女の向こう、タロンから聞こえてきた。

飛鳥がずっと気にかけていた、銀髪の男だ。
彼が、五年ぶりに姿を見せた。

興奮の余り、唾が口内に染み出てきた。
柱に添えていた手が震えた。
頭が瞬時に真っ白になって、足元が果たしてきちんと地の上に付いているのかすら分からなくなりそうだった。

「てめえには関係ねえだろ」

赤髪の青年は、新たに表れた人物にぶっきら棒に返した。
心なしか怒気が込められているようだった。

「ハハ、人が折角良かれと思って言ってんのに。
相変わらず礼儀のなってない坊やダネ」

赤髪の青年の胸に寄り掛かっていた緑髪の少女は、彼の背にさっと隠れた。
青年自身も、敵から庇うように彼女の前に立った。

銀の髪の男も、赤髪の青年も、飛鳥は昔から知っていた。
しかし、その二人の相互関係は、数年前と全く変わってしまったようだった。

以前であれば、二人はとても仲が良かった。
五年前、飄々とした男と小生意気な少年は、まるで兄弟のようでもあった。

ただ、飛鳥は二人の変化の理由をうまく考える余裕などなかった。
自分の事で手一杯だ。

柱に触れている手に、力が入ってしまう。
汗が後から後から滲み出てくる。

会いたくて会いたくて仕方がなかった男が、目の前に居る。
今、すぐ、目の前に、だ。

何故そこまでして会いたかったのか、己がどういう感情を銀髪の男に抱いているのか、そんなものは分からなかったが、けれども確かに求めていた男だ。

隠れている飛鳥が動揺している事など知らず、赤髪の青年が言った。

「煩えよ、関係ねえっつってんだろ」

赤髪の青年は、眼前の男を威嚇するように睨み付けた。
背に隠れているだろう少女を相手から見えなくなるよう、片手で後ろに追いやりながら。

「何?
喧嘩でも売っちゃってる訳、アンタ」

銀髪の男は、鼻で笑った。
そして、赤髪の青年が子犬宜しく吼えている様を茶化した。

その様子に、飛鳥の心の中で何かがふつりと切れた。
彼の男の、口調こそ多少刺々しさがあるものの、以前と同じ調子に、見えない枷がぼろりと崩れた。

だから、

「ジョーカー!」

飛鳥は震える声帯を抑えて、今自分が出せる最大限の大きさで声を上げた。

柱の影から、勢いよく身体を出す。
名を呼ばれた男と、同じ場所に居たそれ以外の青年と少女も、同時に飛鳥を振り返った。

丁度建物の逆行になっているせいか、当の銀の男の表情はうまく確認出来なかった。
ただ、赤髪の青年がひどく驚いて目を見開き、緑髪の少女も何が起きたのか理解出来ていない様子だった。

「んなっ。
マスター、てめえ」

赤髪の青年が何かを言い掛ける。
その驚愕した表情を無視して、飛鳥は一歩前に足を踏み出す。

「ジョーカー、あんた何勝手に居なくなってんだよ」

言いながら、この五年間の不可思議な想いが、後から後から湧いて出た。

何故あの時何も言わずに姿を消したのか、とか。
処刑は、怪我は大丈夫だったのか、とか。
どうしてその後会いに来てくれなかったのか、とか。

それら全ての想いの原因を、飛鳥はやはり分かっていなかった。
だが、溢れる感情は際限無かった。

想う事全てを舌に乗せて言葉にするのは、難しい。
もどかしい歯がゆい憤りだけが残りそうになる。

しかし、銀髪の男は飛鳥の姿を見て、特段変化は見られなかった。
それどころか、「ハ?」を、一言返すだけだった。

飛鳥の言っている言葉の意味が分からないのだろうか。
或いは、しらを切っているのだろうか。

銀髪の男との距離を詰めていくと、それを遮るように、赤髪の青年が駆けてきた。

「おい、お前は帰れ。
なに勝手に家を出て来てんだよ」
「何言ってんの。
ジャック、あんたが変に隠したりするからいけないんでしょ」
「いいから帰れ。
俺が後でちゃんと話してやるから」
「もういいよ。
ジャックに聞いたところで、埒が明かない」

どん、と赤髪の青年を押し避ける。
そして、銀髪の男の胸倉を掴む勢いで言った。

「ちょっとジョーカー、聞いてんの?
私、あんたに聞きたい事が一杯あるんだよ。
しかも、私が居ない間にまたタロンなんか行ってたの?
あんた、何考えてんの?」

赤髪の青年が阻止するように再度寄って来たが、飛鳥はそれすらも振り切って続けた。
たとえ男性の力で捻じ伏せられようとも、それ以上に大きなものが飛鳥にあった。
身体の内からふつふつと込み上げていくものの方が、青年の力より強かった。

その感情に加担して、じりじりと胸を焦がす醜い感情も再び姿を現し始めた。
飛鳥が赤髪の青年と緑髪の少女を隠れ見た時に感じた感情と、何処か似ている。

銀髪の男は、つい今しがた、濫りがわしいタロンから出て来たのだ。
この数年間、飛鳥に会いに来る事なく、再び他の女を抱いていたのだろう。

それが酷く癪に障る。
腹立たしい。
苛々する。

何故こんなにもムシャクシャするのか分からないが、不愉快なことは確かだ。

飛鳥は、銀髪の男の白くて長いコートの襟首を掴んだ。
見かけこそ女らしくなったが、根にあるものは男に近い飛鳥ゆえの行動だ。
特に喧嘩をしかけようと思った訳ではないが、得体の知れないこの感情に苛まれて、体が勝手に動いた。

銀髪の男は、片眉をつんと吊り上げた。

「何言ってんの、アンタ」

銀髪の男は、冷めた目をしていた。
掴んでいた手を、ぱんと薙ぎ払われた。

以前の男にしては、有り得ない反応だった。
少なくとも、飛鳥の知る限りの彼であれば、こんな仕打ちはしない筈だった。
邪険に扱う事も、一度だってなかった。

それなのに、さも汚い物にでも触られたかのように、彼の男は払い除けた。

「今回のmasterは、頭おかしくなっちゃってる訳?」

銀髪の男は、飛鳥を顎で指しながら、赤髪の青年を見遣った。

その態は、まるで道端に転がっている塵屑でも指すかの如く。
或いは、同じ人間である事も否定するかのようだった。

彼の扱いも言葉も、何もかもが理解出来ない。
飛鳥の思考は、ぴたりと止まった。

「は?」

辛うじて返した言葉は、随分と間抜けなものだった。
声を出した部分が、からりと乾いた。

瞬きも忘れてしまいそうだった。
唇がぽかんと開け放しになった。

何より、幻聴でも聞いてしまったのかと己の耳を疑った。
とても聞き慣れた声で、聞き慣れない単語が聞こえた。

つい先程。
この男は、自分の事を何と呼んだのだろうか?

「マア、よく分からないケド。
一応初めてだから挨拶しとくべきカナ。
初めまして、master.
俺はjoker」

困惑している飛鳥を余所に、銀髪の男は言った。
これが初対面だと言わんばかりに、挨拶をしてきた。

彼は随分、おかしな事を言う。
「初めまして」だなんて、間違えた言葉遣いをする。

飛鳥の耳は、狂った幻聴をどんどん拾ってきているようだ。
余りの事に、身体も安定をなくして、足がぐらついた。

「何、言ってるの。
あんたこそ、どうかしちゃった訳?」

なんとか足を踏ん張りながら、飛鳥は男に問うた。
しかし、一度ふらつきそうになった足裏は不安定で、重心が常のようにうまく取れなかった。

その立ち眩みにも似た感覚に、必死になって気張る。
折角会えたのだ。
こんなところで、倒れてたまるか。

しかし、水面に立っているように、足がぐらぐらとする。
骨が抜かれてしまったのだろうか。

気が付けば、足を掬われたように身が後ろに傾いた。
目の前の視界がぶれた。
足裏の踏ん張りが、いとも容易く落ちた。

「っ、おい」

赤髪の青年の慌てた声がした。
そのすぐ後、後頭部にこつんと何かが当たった。

赤髪の青年の胸板だった。
寸でのところで、彼が支えてくれたらしい。

「大丈夫かよ、お前」

青年が気遣った言葉を掛けてくれているのが分かる。
だが、うまく耳には入ってこなかった。

己の過剰な脈の音だけが異様に響いた。
全身を不安定な血液が巡っているようだった。

「ちょっと、本当にどうしちゃったって訳?」

震える声で、再度問う。

「ジョ…、じゃなくて、クラウン。
ね、クラウン。
分かるでしょ、私」

「私だよ」と言いながら、胃が噎せ返りそうだった。
涙が出てきそうだった。

たかがこれくらいの事で衝撃を受ける自分もどうかと思うが、目眩のせいか、強烈な吐き気がした。
余りに予測不可能な事態に己の心が全てを受け止めきれない。
理解出来ない。
性懲りも無くそう、同じ言葉で問うてみる事しか出来ない。

覚えていない、とはどういう事なのだろうか。
そんな他人行儀な挨拶、性質の悪い悪戯でもあるまいし。

一体、何がどうなっているというのだ。

「アンタ、何で俺の事model nameで呼ぶの?」

銀髪の男は、剣呑に眼を細めた。

「気持ち悪い」

そう言い放った彼は、心底嫌そうに吐き捨てた。
まるで、悪意しか込められていないかのような言いぶりだった。

飛鳥が自分の事を「ジョーカー」ではなく、モデルネーム「クラウン」と呼んだことが、そんなに不快だったのだろうか。
眉間には、深い皺が刻まれている。

だが、「クラウン」と呼べと何度もしつこく強請ってきていたのは、この銀髪の男、張本人ではないか。
五年前に、何度も何度も言っていたではないか。

訳が分からなかった。
本当に、今何が起きているのか、理解の枠を超えていた。

「なん、で?」

自然とこぼれて来た疑問符は、誰に向けたものか分からなかった。

この数年の間に、何があったのだろうか。
どうして、こうなっているのだろうか。
何が起きているのだろうか。

銀髪の男は、自分の事を忘れてしまったのだろうか。

仲の良かった赤髪の青年とも、今では疎遠、むしろ険悪な関係になってしまっている。
あんなに銀の髪に懐いて仕方がなかった、赤髪の少年。
それが、今では全てが偽物だったかのように崩壊してしまっている。

何があったのだろうか。
この五年の間に、飛鳥の知らぬ間に。
全てが壊れてしまう程の、何があったのだろうか。

飛鳥の目の前が、じわじわと暗くなった。
実際に夜も更けつつあったが、その闇はそれだけではない気がした。

漆黒で、全てを覆う黒が、辺りにどんどん広がっていく。
黒い背景だけが、強く浮かび上がる。

何処か遠くで、映画のワンシーンでも見ているようだった。
自分一人だけ遠く離れた地から眺めているのかもしれない。
むしろ、そうであって欲しいと思った。

「もしかしてサ」

目の前に居る男が、思案げに顎に手を遣る。
そして、にやりと笑った。

「アンタって、俺の事好きなの?」
「は、あ?」

言われた言葉が理解できず、頓狂に返す。

「ダカラ、そんなにもキチガイな事言うの?
talonに居た事まで批難しちゃってサ。
アンタ、俺の何なの?」

言いながら、銀髪の男は顔を近づけて来た。

彼が纏った香りだけは、酷く覚えがあった。
鼻に付く、甘ったるい匂い。
タロン特有のお香だ。

それだけではなかった。
一瞬だけだったが、とても懐かしい香りもした。
彼の男が愛用していた香水の香りだ。

柑橘でもない、甘過ぎる訳でもない。
飛鳥が意外に気に入っていた、彼の男の香りだだった。

「何、言ってんのさ」

声が震えた。
色んな感情が入り混じって、返事を返すのがやっとだった。

「悪いけど俺、アンタにそういった感情は持ち合わせてないケド。
ましてや初めで会う訳だしネ」

また、初対面だという嘘など吐かれた。

どういう事なのだろうか。
下手な冗談なら、程々にして欲しい。

銀髪の男は、飛鳥を支えている赤髪の青年に視線を移した。

「チョット、jack」
「何だよ」
「コレ、アンタの知り合いならコレどうにかしなヨ。
こういうの、ウザイんだケド」

立て続けに男から吐かれる辛辣な台詞が刺さる。
聞いた事もない卑語が耳に響く。

もう、返す気力は無かった。
ただ、赤髪の青年が「マスターを悪く言うんじゃねえよ」と、代わりに応えてくれたのは分かった。

だが、そんな事は今の飛鳥にはどうでも良かった。
緑髪の少女も、この険悪な雰囲気にどうしていいものかとおろおろしていたが、それすらも大した事では無かった。

銀髪の男が言った。

「悪く言うもなにも、本当の事を言っただけデショ?」
「本気で言ってんのか、てめえ」
「怖い、怖い。
何でこう喧嘩っ早いんだか、spadeの奴らは」

銀髪の男が、人を小馬鹿にしたような科白ばかりを紡ぐ。
それに、赤髪の青年が噛み付いていく。

一人余裕面の銀髪の男が、距離を突然詰めて来た。
ぐい、と肩を掴まれる。
そうかと思った瞬間、無理矢理口付けられた。

「んっ」

矢庭なことで、受け身など取れなかった。

彼の匂いが、強くなる。
薄くて柔かい、覚えのある感触が触れる。

濃厚なものではなかった。
しかし、至極覚えのあるそれが飛鳥の唇を確実に撫でて、離れた。

「な、何っ」
「ご馳走様。
マ、一応masterなんだから、お近付きの印にネ」

急な口付けに、心臓が大きく跳ねた。
けれど、ぼろりと何かが落ちた。

嬉しいのか悲しいのか、或いは腹立たしいのか分からない。
数多の感情が、一瞬にして飛鳥の中で複合され、奇妙なものになって全身を駆け巡った。

不完全な感情に、身体が震える。
唇を抑え、きっと男を睨み付けた。

急な口付けはの手口は、五年前の出会いの時とさして変わらなかった。
感触も体温も、近くに寄った時に香る香りさえも変わらなかった。

それなのに、まるで別人に口付けられたかのように感じてしまった。

たかが相手が自分を覚えていないというだけで。
少し自分に対する態度が変わっただけで。

確かに目の前に居る男は、飛鳥がずっと不思議な想いを抱えていた男であるというのに。
目に見える限りは、ほとんど記憶の中と変わっていない筈なのに。

ただ、飛鳥に対する本質的な何かが変わってしまった、銀髪の男。

最後まで残っていた期待や、溢れる不可解な想いが、噛みあわない。
余りに、余りに、噛みあわない。

飛鳥は、たまらず駆けだした。

「マスター!
待て、何処行くんだ」

後ろで、赤髪の青年の呼び止める声がした。
けれど、立ち止まらなかった。

もうこの場に居る事は出来なかった。
耐え切れなかった。

知らない男に、知らない言葉を言われるのが、耐え切れなかった。

先程まで力が入っていなかった足が、不思議な程に動き出す。
その足に全てを任せて、何処に向かっているのか分からないまま、とにかく走った。

まだ心なしか感触の残る唇を、何度も手の甲で拭った。
何度も、何度も、拭った。





TO BE CONTINUED.

2006.02.10


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