動き出した身体は止まらない。
走り出した心も止まらない。
貴方への想いも、願いも、全て気付かない振りをしていたけれど、

それでも、私、本当は。

OLD MAID
012/道標

夜が更ける時間が迫っていた。
飛鳥がこの異世界に来てからどれだけの時間が経ったのか曖昧だったが、窓の外を見れば概ね予想がついた。

この世界に来た時は、ほぼ真上に来ていた太陽の日。
それが、今では斜めに傾いている。
雲がほとんど無く真っ青だった空は、段々と橙が強くなってきている。

方向感覚に長けていない飛鳥には、傾いている日が東なのか西なのか、今一分からなかった。
だが、夕焼けがすぐそこで待っている事は分かった。
もし此処の時間枠も方向も飛鳥が居た日本と同じなのだとしたら、日の沈んでいる方向は西になるのだろうが、常識とは懸け離れたこの世界では、その基準が当てはまるのかどうかも怪しいものだ。

そんな不可思議な世界で、飛鳥ははたとこれからの事を考える。

「どうしよう、かな」

飛鳥には、今夜の寝場所が無かった。
今こそジャックの古風な家に居るものの、此処はあくまで彼の住まいであって、以前のように同居の許しがある訳ではない。
このまま長時間、居座る訳にもいかないだろう。

今の飛鳥は、ただ赤髪の青年宅に邪魔しに来ている客の一人だ。
以前は主であろう銀の髪の男と、その男と同じ名を持った白黒の集団に許可を得て同居していたが、今回は状況が違う。
居住場所も違えば、主も、その同居者も異なる。

そもそも、今回は以前と同じようにいかない事くらい、どんなに鈍い飛鳥でも分かっていた。
「傍に居てくれ」と言う人間も、狂おしい程に好意を寄せてくれた人間も、もう居ない。
だから、それらの感情に付け入る事も、もちろん出来ない。

心優しきクイーンに「女同士のお願いだ、泊めてくれ」と言おうかと思ったが、後ろめたい想いが勝って言い出す事も出来なかった。
もしかしたら、未だ彼女は自分の事を想ってくれているかもしれないのだ。
そんな浅はかな希望が、あるにはある。
けれど、そんな卑しい内なる所望よりも、疾しさの方がはるかに大きい。

桃の女性には何も言い出せぬまま、時間だけが無駄に過ぎていった。
結局、桃の彼女はジャックお手製の夕食を一緒にした後、一人帰宅してしまった。

彼女が帰宅してから「やはり何も言わなくて良かったのかもしれない」と飛鳥は思った。
もし桃の女性が今でも己の事を慕ってくれていると確実に分かったとしても、自分はその想いに再び応えられていたかどうか分からない。
無駄に傷付けることになるだけかもしれない。

確かに今でも、桃の女性には変わらぬ愛しさがある。
むしろ、五年前より格段に美しくなっているその容姿に、更なる慕情が募る。

けれど、五年前の裏切りの後ろめたさと、得体の知れない彼の男への想いがあるせいだろうか。
全身で彼女の想いを受け止められるかどうか、不安もある。

飛鳥は小さく息を吐いた。
そして、また考えた。

これから先、果たして自分はどうやって此処で暮らしていけばいいのだろうか。

先程まで、桃色の女性と家主である青年に、この世界の仕組みやマナーを説明された。
その話によると、どうやらこの世も俗世と同じように金品がないと何も出来ず、衣食住も好きに出来ないとの事だ。

どうにかなるようになるだろうと高を括り、むしろそんな事などほとんど考えていなかった飛鳥にとって、その事実は衝撃だった。
この家に来る前、商店街で惣菜を買う際に赤髪の青年がお金を払っていたが、その時は金品の事など深く考えていなかった。
金銭は、「何処かで手に入るのだろう」「ただ、困った事に今の己は持ち合わせていないけれど」と、その程度の認識だったのだ。

生活をして行くには、お金が要る。
たとえ此処が、現世とあの世との狭間だという不安定な空間だとしても、必要不可欠なのだ。

ならばその生活に不可欠な金品を得る為には、どうすればいいのだろうか。
単純に考えて、この世界で働けばいいのかもしれないが、当の飛鳥には稼ぐ術が無い。

だからだろうか。
先程、青年と美しい桃色の女性が、「返さなくてもいい」「これを少しでもいいので何かの足しにして下さい」と言って、飛鳥に僅かの金品を持たせてくれたのは。

勿論、流石の飛鳥も遠慮した。
自分より年下の二人にお金を恵んで貰うだなんて、罪悪感が生まれない筈がない。
たとえ事態が事態だとしても、これは少し通常とは異なると思った。

だから、飛鳥はお金を突っ返した。
その上で、今の自分でも稼ぐ事が出来るものがないか、二人に尋ねた。

それなのに、彼らは「いつかその内、何か得意なものでも見付けて稼げばいい」と言った。
そして、「それまでは、このお金を受け取っておけ」と、結局ほぼ強引に現金を押し付けてきた。

他にも、言われた事がある。
たとえば、この世界の禁止事項と、許可される範囲の行動だ。

中でもまず一番に言われたのが「殺人はタブー」だという事だった。
それは、飛鳥も以前居た時にも聞いた事があったのだが、念を押されるように再度説明された。

そして、青年は続けた。

「殺人はタブー。
でも極たまに、それが許可される時がある。
それを、くれぐれも頭に入れておけ」

それが、下克上解禁の時間帯。
五年前、飛鳥が現実世界に帰る際に衝撃を受けた、あの時間帯だった。

銀の男が「飛鳥を守る為」だと言い、殺戮をいとも簡単に犯していた、あの時間。
大きくて鋭利な鎌を振り翳し、ばさりと巨体の人間を切り捨てていた、魔の時。

あの銀髪の男は確か、「自分はジョーカーだから」等という理由で、簡単に禁忌を犯していた。
「ランクに所属していない」という言い訳紛いの言葉も付けて、さも当たり前の顔をして。

基本的にこの世界の住人には、ランクが付いている。
それが、各自の身分を表している。

青年の話によれば、今現在最高ランクに居る飛鳥は、下身分の者を従える権力があるという。
仮に、飛鳥が「あれをして欲しい」「これをして欲しい」と望めば、大概は叶うというのだ。

最高ランクの者は、殺人以外の事なら、大抵は許される。
金品も、多少の融通が利く。

だからといって、飛鳥は別に、この世界の王になりたい訳ではない。
普通に生活して、不自由がなければそれでいいのだ。

けれど、自分が最高ランクに居るという事は、やはり命を狙われる可能性も一番高いという事だ。

もちろん、そんな事は百も承知だった。
五年前の時点で、きちんと理解しているつもりではある。
銀髪の男が居なければ、自分は誰か分からぬ者に命を奪われていたかもしれないのだから。

誰かに殺されるかもしれないという事実は、怖くない訳ではない。
考えただけでもぞっとする。

しかし、その時に守ってくれる人が、今はもう居ないという事。
その事実の方が、何故だか心許ない心地にさせる。

「どうしよう」

飛鳥がまた一人呟くと、青年が応える。

「何がだよ」

飛鳥の、この二回目の「どうしよう」には、一度目に以上に更なる想いが込められていた。
一度目は、「寝泊りする場所がない、どうしよう」だった。
だが、二回目は「もし命を狙われた時は、どうしよう」という思いがあった。

青年は、そんな事に気が付いている風はない。
青年の横では、いつの間にか黒い物体が肉厚座布団の上で気持ち良さそうに眠っている。

飛鳥はとりあえず一つ目の不安要素を述べた。

「家の事だよ。
私、泊まる所を探さないと」

飛鳥とは反し、黒い物体は幸せそうな顔をしていた。
果たしてそれが本当に幸せな表情なのかどうかは分からないが、見た限り安らかな顔をして夢の世界に居るようだ。

よく見てみると、大きな鼻もすんすんと動いている。
もしかしたら、数時間前まで居た桃色の女性が残した甘やかな残り香でも嗅いでいるのだろうか。
或いは、青年から香る石鹸の香りだろうか。
いずれにしても、その呑気な様が妙に腹立たしい。

「何言ってんだよ」

黒豚を睨み付けていると、赤髪の青年が意外だとでも言いたげに声を上げた。

「お前、今から家を探す気か?」

切れ長でやや吊り目がちの赤い瞳が、僅かに見開かれている。

「いや、何って。
言葉のまんまなんだけど」
「別に新しい家なんて探さなくても、此処に住めばいいだろ。
キングもその件に関しては文句もなさそうだし」
「は?」

さも当たり前だろうという口ぶりの彼に、今度は飛鳥が目を丸くする番だった。

此処に住む?
自分は、赤髪の青年ジャックの家で同居するという事だろうか?
五年前のあの時とは違い、随分と大人っぽくなった彼と、この家で?

飛鳥はきょとんとしたきり、すぐに二の句が次げなかった。
そんな飛鳥を尻目に、青年は机の上に置かれたままだった湯のみを片付け始めた。

「あの、ジャック」
「何だよ」
「えーと、その、そうなの?
私、此処に一緒に住んでいいって事?」
「別に構わねえよ、どうせ行く所もねえんだろうし」
「う、それは、まあ」
「来たばかりなんだし、仕様がねえよ。
それに、前も一緒だったんだし、今更気にするような事じゃねえだろ」

呆けてしまっている飛鳥を余所に、青年は台所で茶器を洗い始めた。
そのごく自然に家事を行う様は、飛鳥の知っている昔の彼とは、やはり少しだけ異なっていた。

和様相な家ではあるが、カウンター式の台所に伸びた背で立つ彼は、黙っていれば見目の良い好青年だ。
猫のようにきゅっと上がった目じりは以前と何ら変わらないが、過去とは比べ物にならない程に成長した骨ばった身体つきは、何処からどう見ても大人の男性だ。

そんな彼が「再び同居すればいい」と言った。
「共に住めばいい」と言った。

その言葉に、変な胸の高鳴りを覚えてしまう。
そういえば、この世界に来たばかりの時に居た庭園でも、このような高揚感がった。
惣菜を買った商店街でもあった。

別に、疾しい事をしようと言われている訳ではないのに、胸が煩く音をたてる。
顔にかっかと熱が点る。

これは、何と返事すればいいのだろうか?

飛鳥がまごついている間にも、青年は手際よく皿洗いを終え、再び居間へと戻って来た。
無造作にタオルで手を拭き、器用に布巾を片付けて。
その何でもない所作ですら、一度意識してしまうと妙に緊張してしまう。
ほんの少し距離が縮まっただけで、血の巡りが二倍にも三倍にもなりそうだ。

一人動転している飛鳥には目もくれず、青年は居間に立てかけてあったハンガーから肌掛けを取り、さっと自身に羽織った。
何処かに出掛けるのだろうか。

「え、ちょっと」

呼び止めて、飛鳥も立ち上がる。

「何処か行くの?」
「ああ、ちょっとな」
「ちょっと?」
「その間、キングを頼む」
「この黒豚を?
それより、私も一緒に行きたい」
「駄目だ、お前は留守番。
キングと一緒にな」

まだ熱が引いていなかったせいで、飛鳥が発した言葉は若干上擦っていた。
だが、青年は飛鳥に目もくれず、さっさと玄関に向かっている。

その態度に、些かむっとした。
唇を尖らせ、抗議する。

「何でよ。
何で私がついていったら駄目なの」
「ちょっと人と会うんだよ」
「誰と?」

問い詰めれば、青年が眉を寄せる。

「誰?」

飛鳥はもう一度尋ねた。

「ねえ、誰?」

しつこく問う。
すると、「てめえには関係ねえよ」と、ぴしゃりと打ち切られてしまった。

その言い方が、妙に怪しい。
誰と会うのか、故意に隠しているように見える。

隠されれば、余計に気になる。
気にならない訳がない。

更に問い詰めようと飛鳥が口を開くと、青年がその上に言葉を被せてきた。

「とにかく、お前は留守番だ」
「え、何で」
「いいから、此処に居ろ。
俺が帰って来るまで外に出るんじゃねえぞ」

最後に「いいな?」と念を押し、彼は出て行ってしまった。
引き戸が、勢いよく閉められる。
飛鳥に返す暇も与えてくれなかった。

赤髪の青年ジャックは、明らかに何かを隠している素振りだった。
飛鳥には言えない、何かを。
どういうつもりで言えないのかは分からないけれど、確かに、何かを隠している。

彼の豹変ぶりに気押しされた飛鳥は、もやもやしたものを抱えながらも、もう青年を追いかけなかった。
頬の熱は、勝手に退いていた。
そっけない彼に、しらけてしまった。
今は、ただ消化しきれない疑いだけが残っている。

「何さ、人を邪魔者みたいに」

悔し紛れに、悪態をつく。

もしや、彼女でも居るのだろうか。
これから、その彼女に会いに行くのだろうか。
だから、ひた隠しにしているのだろうか。

青年が居なくなった居間で、納得いかず独り言を零す。
この屋敷内で、「人間」という個体生物は、己以外居なくなってしまった。
会話が出来る相手など居ない。
居るとすれば、ブイブイ煩い黒豚一匹のみだ。

先程まで入っていた炬燵の方を見遣ってみる。
黒い塊はどうやら目が覚めたらしく、此方をじっと見ていた。

「ねえ、あんたは知ってんの?
ジャックが何を隠しているのかを」

黒い小さな眼差しに、問いかけてみる。
もしかしたら、何かしらの反応はあるかもしれない、と期待して。

しかし、その塊が飛鳥の欲している答えを与えてくれる事はなかった。
むしろ「ブイ」の一言さえ返さずに、ただ飛鳥を見上げてくるだけだった。

腹立たしい態度だ。
見当違いな期待をした自分が悪いのかもしれないが、それでも何らかのアクションをしてくれるだろうと思っていた分、変に空しくもある。

何だか、馬鹿馬鹿しい。

飛鳥は、溜息を落とした。

この世界に戻って来て、まだそんなに時間は経っていないけれど、すでに嫌気がさしてきた。
赤髪の青年は、何もかもを隠そうとする。
仲間外れにする。
この黒豚さえも、飛鳥と一線を引いているようだ。

彼らが何を知られたくないのかは分からない。
それはほんの些細な事かもしれないし、とても大きな事かもしれない。
隠し事をしていると思っている事自体に誤解があるのかもしれないし、或いは自分だけが大変な秘密を知らされていないのかもしれない。

たとえば、あの銀髪の男。
もし隠し事をされているのだとしたら、あの男の事など、一番の重要機密にされているのではないだろうか。

一人にされたせいで、飛鳥はまたあの男の事を考えてしまう破目になった。
どうも何か事ある毎にあの男と結びついてしまう。
思い出してしまう。

それが何故なのか、飛鳥には分からなかった。
けれどこれは、あの赤髪の青年が彼の銀の男の事をひた隠しにしているせいだろうと思った。
果たしてそれだけで片付けてしまっていい想いなのかどうかは分からなかったけれど、今はそうとしか思えなかった。

その時、ふと考えが思い当たった。
赤髪の青年が会う約束をしている人というのは、もしかしたら銀の髪の男なのではないだろうか。
だから、飛鳥に来て欲しくなかったのではないだろうか。

あの青年は、彼女に会いに行くのか。
或いは、必死に隠そうとしている銀髪の男なのか。

それらは、いずれにせよ飛鳥にとって面白くない答えだった。
ただ、確かめてみる価値はありそうだった。

「ちょっとだけ、見に行こうかな」

飛鳥は呟いた。
黒豚に話しかけるでもなく、今度は意識して独り言を零した。

思い付いたが吉日だ。

飛鳥は腰を持ち上げた。
きょろきょろと辺りを見渡せば、黒の塊と視線がかち合った。

「罰は当たらないよね。
私だって此処の世界の住人だし、ジャックとは今日からまた同居人になった訳だし。
知る権利くらい、ある筈だよ」

同意を求めるように言ってみたが、その塊はぶんぶんと首を横に振った。
飛鳥の言った事が理解出来ているらしい。

全く、この豚は何処まで出来るというのだろうか。
姿形が豚で、言葉が喋られないだけで、残る頭脳は人と同じという事だろうか。

飛鳥は小さく毒づく。

「何だよ、キング。
何か文句あるの?」

名前を呼びながらも、「やはり可笑しい」「納得出来ない」などと考える。
「キング」だなんて立派な呼称を人間以外、ましてや豚に与えるだなんて。
この世界は、本当にどうなってしまっているのだろうか。

その小さな憤りに「存外、自分は堅苦しい人間だったんだなあ」なんて考えも、今更ながら湧いてくる。

「あんたも付いて来たいっての?」

そう問うてみれば、黒い物体は更に勢いよく否定した。
しかも「ブイブイブイ」と鳴き、後ろ足で豪快に地団太を踏み出した。

黒豚は、どうやら本当に此方の言葉が理解出来て、尚且つ意思表示もしっかり出来るようだ。
飛鳥の素足を前足の小さな蹄で踏んで、要するに「行くな」と足止めまでしている。

「悪いけどさ。
あんたなんかに止められる程、私は簡単にはいかないよ」
「ブキーッ」

黒豚が鼻を強く鳴らす。

黒い物体は赤髪の青年に言われたように、忠実に飛鳥と留守番しようとしているのだろう。
けれど飛鳥がひょいと足を持ち上げれば、その軽い蹄はすぐさま避ける事が出来た。
その反動は、小さい身体にはやや大き過ぎたらしい。
飛鳥は軽くしたつもりだったが、丸い身体はころころと床に転がってしまった。

酷い事をしたな、とは思わなかった。
贅肉というクッションがついた身体で床を転がされたところで、痛い筈もないだろうから。

何より、先を急ぐ今、邪魔者は居ないに越した事がない。
少々手荒になっても、今はとにかく赤髪の青年を追いかけるべきだ。

「じゃ、悪いけど、キング」

黒豚を床に転がしたまま、横開きの戸を開く。

「行ってきます」

重い戸を、ぱしんと締め切った。
恐らく、ミニ豚一匹の力ではどうにも出来ないような厚い扉だ。
飛鳥を追い掛けて止めることなど、もちろん出来ない筈だ。

飛鳥は、十数分程前に出て行った赤髪の青年の後を追うべく、走り出した。
どちらの方向に彼が進んだのかは分からない。
だが、飛鳥は本能で翔けた。
まるで何処かに道標があるかのように、直感がある方向に導いている気がした。





TO BE CONTINUED.

2006.02.04


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