「もし、いつの日にか。
この俺が、あの人以外の女を愛する愚かな日が来てしまったなら、この心臓を一突きに刺して殺してくれ。
二度とあの人以外が映らないように、目を抉り取って。
二度とあの人以外に愛を紡がないように、口を裂いて。
二度とあの人以外を抱かないように、腕を切り落として。
そして、この性器は跡形も無く切り裂いて、犬の餌にしておくれ」
そう言って、俺の知っているあいつは嗚咽を漏らした。
「このままいくと、俺はどうにかなってしまう。
あの人の事しか考えられなくて、けれどどうしようもなくて、狂ってしまう」
頬から落ちたのは、赤い涙なのか、色の無い血液なのか。
「嗚呼。
欲しいものは何かだなんて、そんな愚問を。
それでもくれるというのなら、欲しいものはあの人。
あの人を下さい。
俺の命が、果てる前に」
それだけ言い終えたかと思うと、俺の知っているあいつは事切れた。
支えが無ければ、堕ちるしかない。
だから、あいつは自ら堕ちていったのだ。
OLD MAID
009/betrayal
試すって、どういう事?
どうやって人の好意なんて量る事が出来るの?
芹は、男の言った言葉に困惑した。
直接口に出すことはしなかったが、顔には疑問に思ったことがしっかりと出ていたようだった。
その崩れた顔に、男は口の端だけでくすりと笑う。
そして、芹の手を引っぱって、何処かへ向かって歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ、ジョーカーさん」
掴まれた腕に、特に力が込められていた訳ではない。
けれど、急に引っぱるその力に、芹は振り払う事が出来なかった。
それをいい事に、男は人込みの中を掻き分け、有無を言わさず進んでいく。
彼の白いロングコートが、滑らかな線を描いて翻った。
「マ、付いてオイデ」
騒がしい商店街を、長身の銀の髪をした美青年と、まだ幼き少女が手を繋いで進んでいく。
ぐんぐん人の波を縫っていったが、振り返る人間は居なかった。
辺りは、ただ「人込み」という名の障害物と背景になっているだけだ。
芹は、男を止める術がなかった。
人と人の間を擦り抜けて、時折、誰かとぶつかって。
その時に立ち止まってしまえば良かったものの、このままはぐれてしまえば、見ず知らずの場所に取り残されてしまうような気がして。
芹は、引き摺られるような姿勢になりながらも、この界隈に詳しそうな目の前の男に付いていくしかなかった。
事実、今現在、顔見知りはこの銀の髪の男、一人だけだ。
頼れる人間など、他には居ない。
自分自身の事さえ、よく分からないというのに。
あれよあれよと言う間に、男と芹は人混みから離れた脇道に出た。
困惑したまま此処まで来て、「何処に行くのか」と問う暇も無かった。
やっと男が足を止めたのは、ぽつんと一件寂しく建っている屋敷の前だった。
橙色のライトの下、古びた赤茶色の外観に、そこだけ異空間かと思わせるような桃色の扉。
壁には、目を覆いたくなるような淫猥な張り紙が多々貼られている。
締め切っている筈の窓からは、甘酸っぱい匂いが滲み出ている。
ただの荒家かと思いきや、建物を形作る全てがやけに独特な空気を纏っている。
芹は其処を何と称するのか、どういう場所かなんて事は知らなかった。
けれど其処は、この世界に長年住まう者なら誰でも知っている場所。
情交が唯一許されている「タロン」だった。
「何処、此処?
此処が何かあるの?」
「マ、入ってみれば分かるヨ」
訳が分からないといった芹を余所に、男はにこりと笑う。
繋いでいた手が解かれたかと思うと、今度は腰に手を回された。
そして、軽く引き寄せられ、中に入るようにと促される。
此処までほとんど駆け足で来たせいで、息が切れていた。
だが、男は悔しいくらいに平然としている。
ただ、心なしか先程より更に機嫌が良くなったようには見えた。
芹は、嫌な予感がした。
確証がある訳ではないが、その場から動きたいと思えなかった。
別に、化け物が出そうな様相の物件だという訳ではない。
人殺しが住んでいそうな屋敷という訳でもない。
けれど、何故かは分からないが、直感的に「この中に入りたい」と思えなかった。
勿論、壁に所狭しと貼られている如何わしい張り紙が足を止める原因の一つになったのかもしれない。
だからといって、それが決定的なものになった訳ではなかった。
入ってしまってはいけない。
入ってしまっては、抜け出せなくなってしまう。
これといって理由など無い筈なのに、何故だかそう思ってしまった。
「ごめんなさい、ジョーカーさん。
私、何か此処は好きになれないかも」
「何で?」
「何で、って。
それは分からない、けど」
急に渋りだした芹に、男は不思議そうに問い返した。
けれど、芹は明確な答えを持ち合わせていなかったので、中途半端に口籠った。
芹自身、自分でも何故こんなにも此処に入るのが嫌なのか分からない。
中に入ろうと言われて、拒否する理由など無い筈だった。
ただ、何となく嫌な気がするだけだ。
それだけなのだ。
言うなれば、スピリチュアルなものだった。
ああだこうだと論じる事が出来るものではない。
けれども、やはり嫌なのだ。
「マ、入ってみてもイイんじゃない?
行ってみれば、案外、気に入るかもヨ」
男は急かすように、腰に回していた手に力を入れた。
その少し強引な後押しに、芹の心は僅かに揺れる。
本能がたとえ危険だと察していたとしても、証左がないのだから仕様がない。
それに、ここで断ったとしたら、この世界で唯一の知人に見捨てられるかもしれない。
自分自身の事さえ分からなくなっている今、親切にしてくれている人の言う事を自ら無碍にしていいものだろうか。
「安全な場所、だよね?」
不安を少しでも小さくしたくて、確認してみる。
「大丈夫、大丈夫」
男は、笑って応えた。
「何もないって、約束してくれる?」
其処が本当にどんな所か、何をする場所かなんて分からない。
けれど、口から勝手に出て来た約束を請う言葉に、男はまたもやにっこりと笑ってくれる。
「何もナイし、シナイ、シナイ」
その返事に心底安心出来た訳ではなかったが、芹の頑なに拒んでいた本能の枷は僅かに崩れた。
もつれるように足が前に進んだので、そのまま身を男の誘導に預けた。
心細い小娘と男が中に入ると、甘くて、けれど鼻につくような香りが強くなった。
まるで脳が痺れるようだ。
芹は、思わず顔を顰めた。
お香だろうか、或いはもっと別のものだろうか。
ただ嗅いだだけだというのに、瞬時にして身体の奥の方が何か得体の知れない高鳴りを訴える。
けれども、男は匂いが全く気にならないのか、慣れた様子で番台に座っている老婆に挨拶をしていた。
男から目を離して、辺りをさっと見渡してみる。
古臭い土壁。
切れかけの電球が、天井に一つ。
決して広いとは言えない家屋だけれども、その電球だけでは到底光源は足りず、辺りはとても仄暗い。
先程まで居た外の方が明るいくらいだ。
もし誰かと行き違っても、その顔をうまく見分ける事さえ出来ないかもしれない。
四方八方からは、何とも言えない軋み音が聞こえていた。
一枚で隔てられたその壁の向うに何があるかなんて、芹は皆目検討もつかない。
それでも、一際大きな音がする度、緊張感で背筋が強張った。
不意に、男が芹の頭を小突いた。
手には、老婆に渡されたらしい木の札を持っていた。
「ジョーカー、さん」
名前を読んでみたが、その続きが出て来なかった。
やはり、この建物の中は恐ろしいのではないだろうか。
きついお香の匂いも、仄暗い電球も、軋む物音も、何もかもが怪しい。
正体の分からない何かに、気味が悪くなる。
芹が続きの言葉を探していると、男は再び芹の手を握り、背を向けてしまった。
そして、その手を引き、更に奥へと進んでいく。
男の表情は見えなかったが、強引な力に付いていくしかなかった。
古ぼけた木の階段を上れば、段は一つ足を踏み入れる度に、ぎしりぎしりと軋む音を上げた。
いつ階段に穴が空いてしまっても不思議ではない程の悲鳴のあげ方だが、男は気にしていないようだ。
階段を上がり、男が足を止めたのは、障子が取り付けられた部屋の前だった。
障子は、一枚の安そうな紛い物の和紙で作られている。
しかも、何やら得体の知れない染みが沢山付いている。
和紙の周りに縁取られた古く黒ずんだ木も、きちんと部屋の形に合わせて作られていないらしい。
部屋の中の光が、外に零れている。
何だか汚らしいところだなあ、と芹は思った。
建物の中にある物は全てが奇妙で、不快だった。
だが、男は相変わらず何も気にしていないようで、芹を振り返る事なく、勢いよく障子を開けた。
その途端、ただでさえきついと思っていたお香の香りが、正面からぶつかってきた。
妖しい香りを充満させて扉の向こうに広がっていたのは、簡素な一室だった。
中央には、一組の布団がぽつんと敷かれている。
黄色い菊の花の刺繍がされた、掛け布団。
枕は、二つ用意されていた。
その布団の近くには、真っ赤なお盆と、急須、湯のみ。
そして、この匂いの元凶と考えられる丸いお香が置いてあった。
「な、何これ」
芹は、予想もしなかった情景に気の抜けた声を上げた。
男は、ふっと口元だけで笑う。
そして、掴んでいた腕を更に強く引っぱり、部屋の中に無理矢理身体を押し込めた。
その力が余りに強かったので、芹は倒れこむように部屋の中に入ってしまった。
しこたま強く布団に投げ出され、腰を打った。
畳で頬を擦った。
けれど、男は倒れ込んだ芹を無表情で見下ろすだけだった。
「い、いったい。
何するの、ジョーカーさん」
「ン、何って?」
背でぱたりと障子を閉め、男は言う。
芹は痛む腰に手をあて、抗議した。
障子を閉められたせいだけでなく、自分自身がお香の傍にいるせいで、異臭が鼻に直接届いた。
近くなった匂いは、平衡感覚が麻痺するのではないかと疑いたくなる程、強烈だった。
心なしか、理性や痛覚をも奪っていくようだ。
男は、能面のような顔を少しだけ崩して。
けれども、全く何も悪びれた風もなく、少し首を傾げた。
男が、芹の倒れ込んでいる布団の方へと、一歩、歩を進めた。
少し近寄られただけで、芹の心の臓がばくんと鳴る。
何故だか、また異常に恐ろしくなった。
激しく香るお香も、敷かれた布団も、この異質な建物全てが。
そして、先程まで唯一の頼りと思っていた、この目の前の男さえも。
男は静かに距離を詰めてくる。
芹の中で、危険信号が激しく瞬く。
普通の、少なくとも自分とは全く異なる異様な人間が迫って来ている気がした。
そして、「もしかしたら此処に付いてきてしまった事自体が間違いだったのかもしれない」とも思った。
「な、ジョーカーさん。
どうしたの」
「ドウシタって、何が?」
男はにこにことしていたが、その笑顔は冷ややかだった。
腰を屈めた男が、芹の視線まで顔を合わせる。
そうかと思えば、そのまま両手を床につき、上半身を近づけてきた。
「ちょ、ちょっと待って」
「ん?」
「何々、何なの?」
芹は寸でのところで男の顔に両手を持っていき、それ以上互いが近付かないように制止をかけた。
男は、怪訝そうに眉を顰める。
「何で止めるの?」
「何で止めるも何もないって。
さっき、何もしないって約束したじゃない!」
そう叫び、芹は思いきり男を突き放そうとした。
いくら鈍い女でも、この状況ではこの後どうなるかくらい、容易に想像がつく。
いけない。
これは、押し倒されているのだ。
けれど、男は飄々と言った。
「約束をしない、って言っただけダヨ」
その思ってもみない言葉に、芹は言い返す言葉を見付けられなかった。
信じられない。
先程の約束は、互いに食い違っていたというのか。
いや、そんな訳はない。
最初からこうなる事が分かっていて、男は当たり障りのない返事をしただけなのだ。
この銀髪の男は、確信犯なのだ。
そう芹が理解した時には、すでに男の顔はすぐ近くにあった。
頑なに拒んでいた両手も、難なく捕えられていた。
二人の距離が、今までにない程に短くなる。
男の赤黒い瞳はまるで獣で、芹は避けられなかった。
押し付けるように唇を奪われた。
貪るように口内を犯された。
芹は逃げる事も出来ず、ただ鼻から出来る限りの呼吸をするしかなかった。
男は、歯列を割って入った先にある逃げ惑う舌を絡めとり、玩具のように弄ぶ。
顔も背けられないようにと、空いた手で固定された。
芹は、その拘禁に耐えた。
何もかもを凌駕していく彼の舌に、呼吸すら奪われる。
軽い酸欠を強要され、満足に抵抗が出来なくなる。
頭が、呆っとする。
強制的に、思考回路が閉ざされていく。
極端に酸素を奪われたせいで、何も考えられなくなった。
ただ只管、酔うようなお香に当てられる。
目からは涙が滲んできて、全身がじわりと熱くなった。
まるで、芹自身が、ただ受け入れるだけの器に強制的に塗り替えられていくようだった。
「んんっ」
芹は、震える手で男の襟蔵を掴んだ。
それが、僅かに残っている力だった。
一応身体を引き離そうとはしたが、果たしてそのか弱い力では引き離しているのか、或いは引き寄せているのかも分からない程だった。
その間にも、どんどん彼の唾液が口内に侵入してくる。
何か猛毒の蜜でも啜らされたかのように、全身が痺れていく。
芹の全身の力を完全に奪ってから、男は唇を離してくれた。
余りに濃厚な口付けだったのか、唇からはつうと銀の糸が繋がっていた。
「ドウ?」
何かを伺うように、男が言う。
気が付けば、芹はもう完全に男に組み敷かれてしまっていた。
酸素を求めて息は絶え絶えで、目は虚ろだった。
頬の辺りはかっかと赤く染まっており、首から下に僅かに覗いているその肌も、ほんのり桃色になっていた。
男は、ごくりと喉を鳴らした。
芹はまだ幼い身体つきだが、逆にそれがまた背徳的な欲望を擡げていったのかもしれない。
「最後までコノママしちゃおっか?」
冗談めいた口ぶりだったが、男の言葉は到って本気だった。
抵抗出来る様子でもない芹に、男は益々上機嫌になる。
芹の首筋にちゅうっと軽く吸い付けば、汗ばんだ肌がしっとりと唇に馴染んだ。
そのまま彼女の首に巻かれていた黄色いリボンチョーカーを解く。
胸の合わせ目の釦も、爪で弾くように外していく。
小麦色をした、健康的な肌。
発展途上の胸。
ただ、胸の先端についている飾りだけは、薄く桃色に色付いている。
芹を象る全ては、まだ色気といった類のものなどほとんど無い。
それでも、気分を昂ぶらせる主因には十分だったのか、銀の髪の持ち主はうっすらと目を細めた。
TO BE CONTINUED.
2005.10.23
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