「愛してる」とアンタが言うから、
「俺もアンタを愛してる」と。
「もう飽きてしまったわ」とアンタが言うなら、
「俺も、もう抱きたくないヨ」と。

欲しいものは、欲しいと思っている時にだけ現れるものじゃないから。
だから、少しでも相手の負担を減らすように、俺は嘘ばかり繰り返していた。

繰り返していた。

OLD MAID
008/決壊

「ねえ、ジョーカーさん」
「ン?」
「こんな事を君に聞くのもどうかしてると思うんだけど、何で私ってこんな変な格好してるんだと思う?
私、さっきまで学校から帰ってたと思うんだけど。
って、あれ?
そもそも私、学校なんて行ってたっけ?」

芹は、真横を歩いている男に問うた。

その質問に、男は気の良さそうな笑みを浮かべて「サア?」と応える。
そして、ゆったりと首を捻って、芹の低い視線に合わせた。

「面白いネ、アンタ。
今自分がしてる服装が気になるの?」
「うーん、まあ」

そうっていうか、何ていうか。

何かに納得出来ないように、芹は唸る。
それに、男も少しだけ困ったような笑顔になった。

「マ、最初はそんなものカナ。
此処に居る人達は結構色々な姿格好してるし、気にしなくてもイイんじゃない?」

そう言われれば、そうなのかな、とも思う。

男と話していると、そもそも己の姿が「変わっている格好」なのかどうかも分からないような気がしてきた。
何故だろう。
数秒毎に記憶の端々が薄らいでいくようで、おかしな錯覚すら覚える。

二人は、先程まで居た庭園から少し離れた商店街にまで来ていた。
明るい日差しが刺していた庭園とは打って変わって、ぼんやりと薄暗い町並みは、色とりどりな街灯やネオンが辺りを照らしている。
到る所で、多種多様な目を引く食物や玩具、その他諸々の品が溢れかえっている。

けれど、そんな不思議な空間より、芹は自分の存在自体がふわふわぼやけていく気がして、どうも周りに集中出来なかった。

「あのね、ジョーカーさん」
「何?」
「私、自分の格好が変かどうか、そういう事が聞きたいんじゃなくてね」

まあ、この格好も気になるけれど。

そう思った瞬間、「いや」と、正反対の考えが頭を掠める。

己は、本当は気にしていなかったのだろうか?
それならば、何を考えていたのだろうか?

自分の脳内の事だというのに、分からなくなる。
記憶が曖昧になり、分からない事が増え、詰まらない疑問符ばかりが浮かんでくる。

芹は、勢い良く頭を振った。

纏らない。
思考が上手く纏らない。
そもそも自分が何を考えていたのか、何を考えなければならないのかも分からなくなってきた。

どうしたというのだろう。
この、不可思議な記憶喪失は。

悶々としていると、隣の銀髪の男がくすりと笑った。
そして、そのしなやかに伸びた大きな手が、子供をあやすように芹の頭を撫で始めた。

「分かってるヨ。
アンタが言いたい事」
「へ?」
「全てが意味不明で、訳分かんなくなっちゃってるんデショ?
ケド、考えるだけ無駄なんだヨ」

男は、とても短い芹の橙色の髪の毛に、指を絡ませた。
くるくると癖のあるそれは、いとも簡単に男に巻き付いている。
まるでそれが彼女の性格をも表しているようで、男は更に目元だけで人知れず笑った。

芹は、随分と飼い慣らされた、けれど世間など何も知らない、人懐こい猫のようだ。
男の保護欲を過度に刺激する。
しかし、それと同時に、ふつふつと加虐心も煽られる。

故に、男はたっぷりと間を置いて、けれどしっかりとその言葉が芹の耳に入るように言った。

「だって」
「だって?」
「アンタ、死んだんだカラ」
「死んだ?」

勿論、芹は男の言った言葉が理解出来なかった。

死んだ?
死んだとは、どういう意味だろうか?

誰が、何故?
いつ死んだというのだろうか?

「どういう意味?」

芹は、ずいと顔を男に近付けて、その真意を汲み取ろうと瞳の中を覗き込む。
男の赤いガラス玉に映るのは、間抜けな顔をした芹の姿だけだ。
その顔は、事態をまるで捉えきれていない。
ただただ腑抜けた顔をして、頭の上に大きな疑問詞を掲げている。

その間抜けな自分の瞳の中に、また随分と妖艶な男が映っていた。
整った顔をした、妖しく笑う銀の男だ。

それを見付けた瞬間、芹は急に恥ずかしくなった。
こんなにも情けない顔をした自分が、こんなにも綺麗な男の視界の中に居るだなんて。
傍に居るだなんて。

まるで「月とスッポン」ではないか。
「身の程知らず」というやつではないか。

ふつふつと劣等感が目を覚ます。
腹の底から湧いて出る。
こんな感情は、今まで感じた事がなかった。

いや、それも気のせいなのだろうか?
昔から、こんなコンプレックスを抱きがちな性格をしていただろうか?

分からない。
もう、何もかもが分からなくなった。

ただ、銀髪の男の瞳の中に映る自分の姿は、何故だか酷く見っとも無く見えた。
自分の価値の無さを、ありありと感じてしまった。

疑問ばかりが膨らんでいった。
不安だけが押し寄せてきた。

自分が自分であるのさえ、怖くなりそうだった。

「…どうして?」

訳の分からないまま問うてみる。
何に対して「どうして」と聞いたのか自分でも不確かだったが、それ以外の言葉が出て来なかった。

芹は、目の前の相手が、人ではないような気がしてきた。
少なくとも、自分と同じタイプの生物ではない、と思った。

そして、彼が話している言葉も、異質なのではないだろうかと思った。
それ以前に、自分が喋っている言葉も、きちんと意味を為しているものになっているのか疑問だ。
「生物ではない」のは、彼ではなく、己自身の方かもしれない。

酷く頭が混乱しているせいで、何処から何処までが現実で、何処から何処までが夢かも分からない。
いや、そもそもこの世界が夢そのものなのではないだろうか?
そうだとしたら、どうすればいいのだろうか?

不安定な心が、何処かで現実逃避をしたがっている。

ただ、男の台詞だけが、確実に頭の中に響いている。
耳に、そして、諸器官を通して、脳に届いている。

それなのに、何故だろう。
全てに現実味がないのは。

抜けていく記憶と共に、不安だけが広がるのは。

「マ、正しくは『死んだ』というか、『死と生との間に居る』と言った方が正しいんだケド。
此処はその丁度狭間の所で、此処で完全に死ぬか生き返るか決まるんだよネ」

お茶らけるように、男が説明する。
芹は、ますます分からなくなっていった。

「私が、死んだ、って事?」
「多分、自覚はナイだろうネ。
急だったろうカラ」
「…私が?」
「マ、そう細かく考えずに楽しくやれば?
此処の世界の事なら困らない程度に一通り教えてあげるヨ。
丁度いい事に、今、暇だしネ」
「私、が?」

芹は、壊れたスピーカーのように同じ言葉を紡ぐ事しか出来なかった。

やはり、分からない。
何がどうなっているのか、何一つさえ分からないのだ。

この目の前の銀髪の青年は、冗談を言っているのだろうか。
道化師のようなペイントを施したその顔は、「私は嘘を吐いています」と言っているようにも見えてくる。

そういえば、先程までの己は、一体何を考え込んでいたのだろうか。
また、分からなくなった。
また、記憶が一つ消えた。

その思考回路を断ち止めるように、男は芹の唇に人差し指を当てた。
そして、その指でぽってりとした輪郭をなぞり始めた。

それが余りに扇情的で、芹は言いたい言葉も不可解な憤りも、何もかもを飲み込んでしまった。
辛うじて出てくるのは、生気を抜き取られた様な溜息のみ。
まるで、瞬時に心を抜き去られたようだった。

「あの」

とりあえず言を発したものの、二の句が継げない。

「あ、ありがとう、ございます」

訳の分からぬまま、お礼を言ってしまった。
けれど、男もそれにご機嫌で返してくれた。

「you're welcome」

その返答の仕方や、所々の日本語の発音がおかしいところから、彼は自分とは同じ国籍を持たない人なのだろうという事は分かった。
一体、何処の国の外国人なのだろうか?

芹は、一度ゆっくりと瞬きをしてから、再度目の前の美人を見上げた。
しかし、その次の瞬間に頭に浮かんだのは、また新しい疑問だった。

この男が英語が達者なのは分かった。
しかし、そもそも自分は日本人だったのだろうか?
日本語を喋っているのだろうか?

己は、どうしてこの男を「日本以外の外国人」だと決め付けたのだろうか?
自分が、日本人かどうかも分からないというのに。

そこまで考えた瞬間、芹の頭の中は今度こそ沸騰してパンクしそうになった。

このちょっとした時間の間に、随分と多くの事を忘れてしまった気がする。
覚えていた筈なのに、知っていた筈なのに、全てを忘れてしまった。

その代わりに、疑問ばかりが目まぐるしく生まれてくる。

自分が何者なのか。
何を今までしていたのか。
どうしてこんな事になっているのか。

とても酷い記憶喪失になってしまった。
それも、時間と共に激しくなっている。

ただ、男は先程「昔の記憶など役に立たない」と言った。
「アンタはduce」と言った。

そう言われれば成る程、自分がそのような名前だった気がしてきた。
デュースという名前で生活していたのかもしれない。

彼の言うように、今までの過去など無価値に等しいような気も起きてくる。

「またまた。
ナーニ考えてんの?」

男に顎を掴まれ、上を向かせられた。
くいと目線を合わせられれば、本当にこの男は美人だなあと思う。

「う、うーん。
何というか」
「俺の事考えてくれてたの?」
「んー、君の事というか、何というか」

見入ってしまいそうな魅惑的な瞳に見詰められて、芹はあやふやに答える事しか出来ない。
それを知ってか知らずか、男はそのまま腰を屈めた。

ゆっくりと男が近付いて来る。
間近で見る程に美しいそれが段々と距離を縮めて、吐息までも掛かりそうな至近距離に接近する。

また、彼の瞳に自分の姿が見えた。
それはやはり、彼に比べて酷くみすぼらしかった。

服が特別に貧相であるとか、薄汚れた格好をしているとか、そんな訳ではないのに。
それなのに、彼と比べて自分の存在が余りに過小な気がして、恥ずかしくなった。

その瞬間、鼻先に柔かいものが当たった。
ちゅっと小気味いい音がした。

「へ?」

頓狂な声を上げて目を丸くする。
そこには、意地悪な笑みを浮かべた男が居た。

恐らく、彼の唇が己の鼻先に触れたのだろう。

「フフ、アンタ反応が可愛いネ。
このまま食べちゃおうカナ」

冗談なのか、本気なのか。
全く分からないトーンで彼が言う。

芹は、真っ赤な顔になって、己の鼻を抑えた。

「な、に、何、何、何っ」
「duce、見て御覧。
あの骨董屋に並べてある鏡に、アンタの赤飯みたいになった顔が沢山」

どもって上手く言葉を発せない芹を余所に、男は愉快な風に笑う。
パニックに陥った芹は、指差された方向を素直に向いてしまう。

「ホラ、これだけ沢山の鏡があれば、アンタが何百人にも増える」
「そ、それって…」
「ウン。
これだけの沢山のアンタに囲まれるってのも、悪くない。
もしかして俺、アンタの事、本気で気に入っちゃったのかもネ?」

そう言って、男は骨董屋に並べられている鏡の中の芹をまじまじと見詰めた。

其処に映るのは、橙色をした髪に、健康的な肌色の、しがない少女だった。
顔色は本当に赤飯のようだった。
その容姿だって、十人並みだ。
これと言って取り柄などない。

突然鼻先に触れられた事が恥ずかしくて、しかしそれ以上に醜い姿を晒している自分が嘆かわしくて、矢庭に高鳴りだした鼓動と劣等感が、ごちゃ混ぜになる。
熱くて仕方がない身体に、靄々したものが渦巻いていく。

己の平凡な顔を、手の届かない場所に居そうな綺麗な人が、さも面白そうに眺めている。
嬉しいやら、悲しいやら、惨めなのやら、もう何が何やら分からない。

「君、さ」

もう自分の感情の行き先が分からないまま、やっとの事で口を開く。
言葉が震えそうだ。

「もしかして、美的感覚、おかしい?」
「イーヤ。
これでも、イイ物をイイと言える自信は有るけどネ」

自信有りといった風に男は言うけれど、そんなものが信じられる訳もなく。
己の内に姿を現したのは、何とも言いがたい、自分自身に対する哀れみの心だ。

今までこれ程まで自分を卑下してしまった事はあっただろうか。
記憶が定かではないので分からないけれど、今の己は「自分なんて」といった思いが確かに根強く、それもとうの昔から存在していたように煮え立っている。

何故だろう。

思い返せば、今まで自分の欲しいと思った物が手に入った事なんて、無かった気がする。
確実な記憶は無いというのに、それでもこんなに綺麗な物が自分に寄って来た事も、無かったような。

いつも、自分は追いかけるだけの存在で。
誰も、自分を見てくれてなどいなかった。

そんな、気がする。

「やっぱり、君の美的感覚おかしいよ。
そうじゃなきゃ、ただの悪ふざけだ」

不穏な思いに押し潰されそうになりながら、聞こえない程度に芹は答えた。

この男と一緒に居れば居る程、自分がおかしくなっていく。
まるでこの世に存在してもしなくてもいいような、そんなちっぽけながらくたに成り下がってしまった気がする。
大事な大事な、それこそ今まで築き上げていた何もかもが崩れ去っていくような。

けれど、そんな消え入りそうな辛辣な言葉も上手に拾った男は、くるりと芹に向き直ってにこりと笑った。

「じゃあ、試してみる?
俺がアンタを本当に気に入っているかどうかをさ」





TO BE CONTINUED.

2005.09.10


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