「届かない距離は、自分が近くに寄って行けばいいだけの事」
そう、あの人が言っていた。
けれど、どうすればいい?
近くに寄っていく術を、己は持っていないのに。
「言葉が無くても、証が無くても」
そう、あの人が言っていた。
そんな綺麗事、通る筈が無いのに。
それでも、己に暗示をかけるかのように、いつもあの人は言っていた。
自分には、至極信じられないものばかりだった。
けれど。
「大切な物は、時として足枷」
そう、あの人が言っていた。
今ならその言葉が分かる。
唯一の頼りも、誇りも、今ではただの邪魔な存在なのだから。
嗚呼、諸器官を飛び越えて、直接脳に響くのは、
いつだってあの時の名前なのだ。
だから、
このまま、何も知らないまま、
君はただ、流されていけばいい。
OLD MAID
007/「ご存じありません」
「おいっつってんだよ。
耳にガムでも詰めてんのか、この色呆け野郎」
大きな声で怒鳴られて、飛鳥は左耳に痛みを覚えた。
気が付けば、眼前には心配そうな両眼をした女性と、至極不機嫌そうな男が居た。
己の左耳は、その青年に思い切り引っ張られている。
「痛いって。
何、何引っ張ってんの」
「人の話は最後まで聞けよ、このど阿呆。
クイーンがまだ喋ってんだろうが」
そう言われて飛鳥がふと桃の女を見ると、その人は少し困った顔をして笑っていた。
そういえば、こんな顔は前にもさせてしまっていたな、と飛鳥は思い出した。
けれど、以前は飛鳥の不甲斐無さのせいではなかった。
桃の女性自身の有耶無耶な態度に、飛鳥が愛を強要したからだ。
思い返せば、随分と時も状況も変わってしまったものだ。
「あ。
ご、御免ね、クイーン」
「いえ、構いません。
マスターは彼が処刑されたと聞いて、気が動転されておられるのでしょう」
「そんな、事は…」
首を横に振るものの、最後まで上手く否定しきれなかった。
ジョーカーが、処刑された。
その言葉を聞いて、飛鳥の唇の動きは再び鈍くなった。
あの執着心の強い、淫靡な銀髪の男の事を、気にしていると言えば、気にしている。
気にならないと言えば、嘘になる。
この世界に来る前から、その男の事を考えていたのだから。
そもそも、誰かが「処刑された」という言葉を聞いて、普通は冷静ではいられないだろう。
況してや、よく見知った男だ。
体の関係だって持っていた。
現世での情事中、辛そうな顔をしていたのは分かったいたのに、どうして最中に気が付いてやれなかったのだろう。
止めてやれなかったのだろう。
そんな事は、後悔してもしきれない。
いや、あの時は、胸に引っ掛かっている靄が、飛鳥の思考を邪魔していたのかもしれない。
眼前にあった性の喜びに、ただ溺れるだけだった。
だから、何も知ろうともしなかった。
思い出せば思い出す程、過去の己に腹が立つ。
自分が気にしてあげていれば、あの男は処刑されずに済んだかもしれないのに。
そんな考えすらも、頭を過ぎる。
先程までの背筋を這う冷や汗は引いていた。
しかし、全身の熱が何処かに奪われたかのようだった。
ぐるぐると眩暈がして、足元などは浮いているような感覚があった。
今の自分が何処に居て、何をしているのかさえも分からなくなりそうだった。
実際、目の中にはきちんと二人の人間と一匹の畜生が映っているが、それが何かの映画みたいにくるくると回っていった。
まるで、己だけが此処には存在していないかのようだ。
動転しきっている飛鳥に、桃の女性が言った。
「隠さなくても構いません」
桃の女性は、形の良い眉を顰めていた。
「分かりますから、マスターが彼を気にしている事くらい。
ですから、そんな顔をされないで下さい」
どうやら、飛鳥は随分顔を歪めてしまっていたようだ。
けれど、今、眼前に居る桃のクイーンこそ、辛そうに表情を濁している。
彼女の数年前まで大きくて人を惹き付けるようだった眼は、今も尚健在だった。
それが、今は沈んだ色を帯びて、飛鳥に向けられている。
まるで悲しみの色に染まった、濁った眼だった。
それを見ると、飛鳥の心臓もぎゅうと小さくなった。
己は、こんなにもこの女性を傷付けてしまっていたのだろうか。
あれから随分時が経ったというのに、未だに自分はこの女性を苦しめているのかもしれない。
「何、それ」
下手な嘘だと分かっていても、否定せざるを得なかった。
「私、別にあんな奴の事好きだとか彼氏だとか思ったりなんかしてないし、それに…」
「あら。
マスターは、ジョーカーをお慕いされていたのですか?」
問われて、しまった、と思った。
墓穴を掘ってしまった。
慌てて更に否定の言葉を探す。
「いや、違うよ。
全然そんなのじゃない。
ただ、どうしてるのかなとか、あいつ元気にしてるかなとか、その…」
言ったところで、もう上手く言が出て来なかった。
「馬鹿じゃねーの」
赤髪の青年が、呆れて口を挟んで来る。
「相変わらず、頭の回転が悪い奴。
考えて喋れ、考えて」
「ブイ」
そこまで言われれば、桃の女性が「もうこの話は止めましょう」と席を立った。
そして、腹を空かせていた事を忘れているだろう飛鳥の前に、お茶を差し出してきた。
青と白の上品な和食器を並べているテーブルの上に馴染めていない、備前焼の湯飲みと急須だった。
そこから、ゆらりと白い湯気がたっている。
その和食器を見ているだけで、また銀髪の男を思い出してしまう。
そういえば、ジョーカーは和食が好きだったっけ、などと。
その後は、三人と一匹、久しぶりに和やかな時を過ごした。
実際は心中穏やかではなかったが、五年という歳月を埋めるように、極力飛鳥はジャックに絡み、クイーンに甘えるようにした。
そうしていれば、あの銀髪の男の事を、ほんの少しでも忘れる事が出来ると思ったからだ。
赤髪の青年は、飛鳥の戯言に仕方なく返しながら、もう一人の客人であろう桃の女性にもこまめに気を遣っていた。
勿論、膝の上からは、黒い生き物を下ろさなかった。
余程、可愛がっているらしい。
そして、桃の女性は、飛鳥に対しても、青年に対しても、常に柔かく応えていた。
時折、何かを考え込むように黙り込む事はあったが、その確信に迫る旨を口にする事はなかった。
和やかな食卓だった。
腹が減っていたので、飛鳥は買って来た惣菜をたらふく食した。
青年も、飛鳥ほどではないにせよ、箸を休めなかった。
ただ一人、何も食していないクイーンも、お茶を片手に付き合ってくれた。
とても心地良い空気だ、と思った。
しかし、やはり五年前とは決定的に違う空気でもあった。
かの銀の男の代わりに、美しい桃の女性が居る。
それは喜ばしい事で、何ら嘆く事ではないけれど。
むしろ、五年前の飛鳥が、切に望んでいた光景ではあるけれど。
それでも、何かが心の中を満たしていなかった。
何処か、大きな穴を空けられた気分だった。
食事が済んだ三人は、台所から畳を敷いてある居間へと移動した。
そこそこ広い和室の中央には、大きな樫の木で出来たテーブルがあった。
その上には、疎らに煎餅や饅頭といった和菓子が置かれていた。
台所に一番近い場所にジャックが座った。
膝の上には、相変わらずキングが陣取っていた。
青年の隣に向かい合うように、飛鳥とクイーンは座った。
下らない世間話は、尽きる事がなかった。
あのお店はどうなった、とか、新しく来た住人はどうだった、とか。
五年前の楽しかった話、馬鹿やった話、その他思い出話など、次から次へと溢れ出て来た。
時間が経てば、またお腹が空いた。
五年分のお喋りをするものだから、カロリーを消費しているのだろうか。
テーブル上の煎餅に、何度も手が伸びてしまう。
しかも、喋れば喋る程、喉も渇いた。
湯のみの中の茶は、すぐに空になる。
すると、気の利くクイーンが、頻りにお茶を注いでくれる。
小腹を満たすお菓子はあるし、お茶も出て来るし、長居するに何も不自由がなかった。
喋るネタに尽きる事もなかった。
その内、利尿作用があるお茶をガバガバ飲んだせいだろう。
飛鳥は、用を足したくなった。
「あの、ジャック」
ここの家主に声を掛ける。
「その…、トイレ、貸して欲しいんだけど」
やや言いにくそうに言えば、ジャックがあっけらかんと廊下の向こうを指差した。
「ああ。
そこを突き当たれ」
「サンキュ」と断って立ち上がり、そそくさと立ち上がる。
同じように菓子を食べ、茶を飲んでいた筈の青年と桃の女性には生理現象がないのだろうかと不思議に思った。
だが、ふと見てみると、菓子を人一倍食べ、茶を浴びる程飲んでいたのは、飛鳥だけだったようだ。
廊下に出た飛鳥は、自作の鼻歌を歌いながら便所に向かった。
赤髪の青年と桃の女性と話しているのは、本当に楽しい。
胸に未だ引っ掛かる想いはあるが、ぺちゃくちゃと雑談している間に、随分とご機嫌になってしまった。
銀髪の男の処刑の話を聞きたくて仕方が無いのは、事実だ。
だが、死んではない筈だ。
最初に、赤髪の青年が「居るには、居る」と言っていたのだから。
だから、今はたまたま此処に居ないだけで、何処かできちんと元気にしているのかもしれない、と思った。
赤髪の青年も、桃の女性も、二人共が言葉を濁して仔細を話してくれないのは気になるところだが、後でまた改めて聞けば教えてくれるかもしれない、とも思った。
楽しい時間を過ごしている間に、どうやら随分と楽観的に考えられるようになったらしい。
此処の世界に居れば、何処かにはあの男が居るのだから。
飛鳥がそう思い始めたその頃、飛鳥の鼻歌を聞いていたジャックは、黒豚を撫でながら、ふっと鼻で笑った。
久々の再会で感慨深い想いに浸っていたのは、飛鳥だけではなかったのだ。
青年は、五年の事を思い出した。
飛鳥の鼻歌を聞くのも、随分久しい。
飛鳥は、風呂やトイレなど、自分がさっぱりするような場所へ行く時は、鼻歌を歌う傾向があった。
五年経った今でも、未だ変わっていない癖だ。
青年が吹き出したのを見て、桃の女性は言った。
「あら、ジャック。
思い出し笑いですか?」
それに、ジャックは「何でもない」と笑いながら応える。
恐らくこの癖を知っているのは、赤髪の青年と、今は此処に居ない銀髪の青年だけだ。
この感覚を桃の女性と共感するには、あの銀髪の男にやや申し訳ない気がした。
青年は、クイーンに目を向けた。
そして、こほんと一つ咳払いをした。
至極真面目な透き通った紅いガラス玉で、桃の女性を見詰める。
その眼差しに、先程まで笑っていた桃の女性の笑みも、自然と消えた。
「どうかしましたか、ジャック」
「いや、ちょっと聞いておきたい事があってよ」
「何でしょう?」
桃の女性が小首を傾げる。
青年は続けた。
「本当は、分かってんだろ。
マスターがあいつの事好いている事くらい」
「あいつ?
それは、ジョーカーの事ですか?」
「前まではそんな事無かったけど、またこっちに来てからは、あいつの事ばかりだ。
きっとこの数年で心境の変化があったに違いねえよ。
或いは、あいつが普通の女としての感情を、やっと持つ事が出来るようになったか、だ」
「あら、そうでしょうか?」
美しい桃の女性は、やんわりと返した。
まるで、自分は何も知らない、とでも言いそうな雰囲気だ。
それに、少しばかり青年は眉を寄せた。
「いや、そうだろ。
きっと、前までは内面がガキ過ぎて気が付かなかったんだ。
自分の気持ちに。
けど、今はちゃんと女になって、年もとって…」
「ふふ、ジャック。
私は、マスターが誰を好きかだなんて、ご存知ありません。
察しすら付きません。
マスターは、皆のマスターですし」
それだけ言って、クイーンは肩に掛かっている髪の毛を左手で軽く後ろに流した。
彼女の身を纏っていた香水の匂いが、辺りに漂う。
それはとても甘くフルーティーで、大抵の男と蜜好きの蜂なら思わず擦り寄ってしまいそうな、魅力的な香りだった。
五年前の飛鳥も、この香を甚く気に入っていた。
けれど、その香りの誘惑も、ジャックには全く効果が無かった。
お互いにお互いを余りに昔から知りすぎていた。
それ以上に、桃の女性の科白が強烈でもあった。
「結構黒い人だったんだな、クイーン」
「あら、そんな。
心外ですね」
上品な笑みで、再度、彼女は綺麗に笑った。
それを、青年は複雑な表情で見るしかなかった。
時は人を変える。
けれど、彼女がいつこうなったのか、或いは元々このような性分だったのか。
青年は、皆目検討も付かなかった。
TO BE CONTINUED.
2005.07.24
[Back]