お久しぶりです。
お元気にされていましたか。

もう二度と会う事は出来ないと思っていましたが、まさかこんな形で再会出来るとは。
本当に、嬉しく思います。

けれど、少し変わられましたか?
中性的で妖しい魅力を醸し出していた貴女ですが、この度は本当に女性らしくなられて。
思わず見惚れてしまいました。

貴女がどんな姿になったとしても、私の想いは変わりません。
たとえ、誰に何と言われようとも、一生付き従っていきましょう。

ほら、見て下さい。
彼も、貴女を見る時の眼差しが違うでしょう?
きっと複雑なのですね。
貴女が余りに女性的な魅力に溢れているから。

OLD MAID
006/蛞蝓

飛鳥は、硬直してしまった。
青年に促されて上がった家の台所に着くなり、己の思わぬ光景…、正しくは、思わぬ「人物」を見てしまったからだ。
つい、幽霊でも見たかのように足を後退らせてしまった程だ。

それは、やや古い家の玄関から、趣のある廊下を歩く事、数秒。
青年が黒豚を抱えながら入っていった場所に、「おそらく台所だろう」「早速お昼ご飯だろうか」と、先程からぐうぐう鳴って止まない腹の虫を同行させながら、暖簾を潜った時だった。
其処に、驚愕の人が待っていたのだ。

椅子に座って寛いでいる、一人の女性。
ふわふわと柔かそうな桃色の髪を靡かせて、薄く色付いている唇を、やんわりと弓なりにさせている。
首からかけられた半透明なストールは、風も無いのに彼女の美しさに揺れており、それが余りに優雅だった。

その信じられない光景の中、眼前の美しい人は柔かい声で言ったのだ。
「あら、まあ。お久しぶりです、マスター。お元気にされていましたか」と。

クイーン?」
「ええ。
そうです、マスター。
ハートのクイーンです。
覚えていらっしゃいますか?」
「わ、忘れる訳ないじゃないか!」
「まあ、嬉しいです」
「それより、クイーン。
あんた、生きて…?」
「ええ。
この通り、お陰様で健やかです」

そう言って、クイーンは朗らかな笑みをますます柔和にさせた。
その柔かい目付きは、五年前と変わらず優しく美しいままだ。
まるで、今でも尚、飛鳥を慕っているようなものだった。

そんな美麗な雰囲気を崩さぬまま成長した彼女が、長い睫毛をぱさぱさと動かし、己の座っている横に飛鳥に座るよう促してきた。
飛鳥は、よろめくように座り込んだ。
喉の奥からは、込み上げる熱い何かと、全身を冷やすような複雑な感覚が、綯い交ぜになって溢れてきた。

「良か、った、クイーン」
「はい」
「その…、御免ね。
私、クイーンを結局裏切っちゃって。
あんた、死んじゃったかと思って…、それで、あのね」
「いえ、無理も無いです。
構いません。
今は、こうやって再び会えた事、本当に嬉しく思っています」

飛鳥はしどろもどろと唇を動かしながら、挙動不審な態を徐に、言い訳がましく謝った。
そして、透き通るように白くて温かそうな彼女の手に触れ、今までの想いを打ち明けようとした。

溢れてくるのは、途方も無い罪悪感だった。
そして、再び襲い来る、かの時の慕情。

そうだ、あの時。
現世に帰り、銀の髪の男だけが己の前に姿を現した時。
その際、クイーンの事を頭の中から薄れさせてしまったのだ。

クイーンのその後が気にはなってはいたものの、二つに裂かれたカードを目前にした瞬間、己にはもう何も出来ないように感じた。
否、銀の髪にそれすら強制的に忘れさせられたのかもしれない。

だからといって、決してどうでも良かった訳ではない。
かの男が消えて一人でゆっくりと考える事が出来た時に、飛鳥は人知れず後悔したのだ。

おそらく、二つに裂かれたカードが意味するものは彼女の死、消滅だ。

己は、こんな事になると全く想像出来なかった訳ではなかったのではないだろうか。
銀髪の男の執着具合を見ていたのに、何て浅はかな事をしてしまったのだろう。
何故、あの時、自分は彼女の手を取ったのだろう。
そのせいで、彼女は命を取られる事になってしまったのではないか、と。
そう思うと、長い事流していなかった涙も出てきた。
また姿を消した銀の髪の男の行方も気になったが、桃の柔らかな笑みを持った少女との別れも、十分過ぎる程に嘆いたのだ。

それからだ。
数日、数週間、数ヶ月と日は経ち、桃の髪の少女の事を想う機会が少なくなったのは。
きっと、諦めにも似た感情だった。

それと相反するように、脳内には銀色がちらつくようになった。
だが、その想いにも、飛鳥はいつしか蓋をするようになった。

今現在、目の前に居ない人の事を考えてどうするのだ。
仮にも、己は彼に対して恋愛感情など抱いていなかったのだから、と。

だが、桃色の髪の少女は生きていた。
彼女は、今もこうやって生きていたのだ。

「御免ね」

謝ったとしても、簡単に許される事ではないと思った。
しかし、謝る以外に何も出来なかった。

このクイーンはもう亡き者として自己完結し、忘れ去ろうとしていた。
その事が、罪悪感として肩に圧し掛かってくる。

どうしてこんなにも自分は薄情な奴だったのだろうと、嫌気がさした。
けれどその憤りをどうにも出来ず、ただ涙が頬を伝った。

「何泣いてんだよ」

はらはらと涙を零す飛鳥に、赤髪の青年ジャックが呆れたような溜息を零した。

「う、だって。
私、クイーンが、私が…」
「そう仰らないで下さい。
マスターはお優しい方です」
「うええ、クイーン。
御免ね。
本当、御免ね。
私、あんたの事が好きでしょうがなかったのに、あの時ね」
「ふふ、マスター。
もう何も仰らなくても構わないですから。
終わった事です」
「でも、でも」
「それより、お鼻が出ていらっしゃいます。
ティッシュをお持ちしましょう」

気が付くと、飛鳥はスビスビと鼻水を出しながら、クイーンに縋り付くような姿勢になっていた。

「阿呆くさ」

感傷に浸っている飛鳥に、ジャックがまた言葉を吐き捨てる。
そして、「鼻水が付くだろ」と言って、クイーンの腕から飛鳥を乱暴に剥いだ。

「鼻水?」
「お前のその鼻水だよ。
クイーンに付くだろうが」
「付かないよ」
「付いてんだよ、実際。
汚えだろうが」

その飛鳥とジャックの遣り取りを、クイーンは黙って微笑みながら見ていた。
しかし、暫くして少しばかり体勢を整え、飛鳥と向き合う姿勢になった。

飛鳥も、下を向いていた顔を上げ、その女性を見遣る。

「御免、どうかした?」
「あ、すみません。
急に改まってしまって」
「いや、いいよ。
何?」
「はい。
丁度良いですから、今お話しておこうと思う事があって」
「うん」
「実は、ですね。
あの時、マスターのご推察通り、私は確かに彼に斬られました。
ですが、それは然程深くはなかったのです」

少し申し訳なさそうに綺麗な眉を若干下に下げ、桃の女性は言った。
飛鳥は、ジャックに押し付けられるように渡されたティッシュで顔中流れている水分をふき取り、相手を見詰めた。
その後ろに控えていた赤髪の青年と黒い豚も、黙って話し手に耳を傾けている。

「どういう事?
私、真っ二つに斬られたトランプを見たよ。
だから、てっきりあんたは死んじゃったのかと思ってた。
けど、あんたはちゃんと生きてて…」
「ええ。
勿論、それは私を表しているトランプでしょう。
実際、私は彼に斬り付けられたのですから。
でも、掠り傷程度で済んだのです」
「鎌なのに?」
「マスターは、現世に戻る時が近付いていたせいで、意識も虚ろだったようですし、分からなかったかもしれませんが。
ですが、あの時、彼の後ろには、世間では『オセロ』と言われているジョーカーらが居りました」
「モノクロが?」

そう飛鳥が返すと「モノクロですか?」とクイーンは不思議そうな顔をした。
それに、飛鳥は「ああ、いや、何でもない」と、首を横に振る。

「モノクロ」とは、かの男が言っていたオセロの別の呼称に過ぎない。
クイーンがその呼び方を知らないのは、当たり前なのだ。

それにしても、こんな些細なところまで、銀の髪の影響が及んでいる。
今は眼前の桃色の女性に意識を集中したいのに、ちょっとした事であの男の事を思い出してしまう。

今は、そんな事に一々耽っている場合ではないというのに。
つい先刻、もう余り深く考えないようにしようと思ったばかりなのに。

話を折らないようにしなければと、飛鳥は続きを促した。
それに応えるかのように、クイーンも特に気にしていない様子で言を紡いだ。

「そのオセロのジョーカーらが居たので、私は一命を取り留めたのです」

そこまで言った頃には、クイーンの顔付きは深刻なものになっていた。
柔かそうな唇が、ずんと重みを持ったようだった。
その鉛を震わせ、更に続ける。

「先程も言いましたように、私は、確かにジョーカーに鎌を振り上げられました」
「うん」
「そして、斬られました」
「うん」
「ですが、それを完全に深く振り下ろす前に、オセロらが彼を止めたのです」
「うん」
「そして、日を改めて、オセロらは彼を処刑したのです」
「しょ、処刑?」

その単語を聞くなり、飛鳥はがたんと大きな音をたて、椅子から立ち上がった。
その大きな音に、いつの間にやら黒豚を抱えながら惣菜を皿に移す作業をしていた赤髪の青年も、その腕に抱かれていた黒い生物も、驚いて二人を見遣った。

けれど、クイーンは一人、表情を変えない。

「はい。
オセロらがどれだけの数いたのか、分かりません。
私も、オセロのジョーカーという存在こそ知れど、初めて彼らを見たので、驚くばかりで数を数えられるほど余裕はありませんでしたので。
けれど、彼らのお陰で、刃は私に深く食い込む事無く、掠り傷程度で済みました」
「そ、そう」

飛鳥の声は、動揺して裏返っていた。

処刑?
あの男が、処刑だって?

頭の中で反芻する。
どういう事だろう。
処刑された?
あの男が?
それならば、もうあの男は…、死んでしまったという事だろうか?

纏らない頭で考えても、答えは出ない。
そういえば、赤髪の青年も、やけにあの銀髪の男ジョーカーの事を話したがらなかった。
それには、こういう訳があったというのだろうか。

「そう、なんだ」

脳内はパニックを起こしそうだったが、何とかそう返事した。

「クイーンが無事なら、それで良かったよ」

そう言ってみるものの、それは自分の意志で言っているのか、或いは勝手に口が動いているのか、自分でも分からなかった。

今思えば、現世まで追い掛けて来た男は、決して背を見せようとしなかった。
衣類も、飛鳥のものを剥ぐ事はしても、己のものには手をつけようとしなかった。

それでも、抑えきれなかっただろう赤い雫が、ぽたぽたと汗と一緒に落ちてきていた。
それに気を止める事も出来ない程に、何も考える隙など与えないように、銀の髪は激しく飛鳥を揺さぶった。
何もなかったかのように、男は情事を続けたのだ。

自分の危険な状態も、これから起こる己の運命も、全く悟らせないように。
最後の別れを、悔いが残らないように、惜しむかの如く。

飛鳥の中で、ジョーカーに対する胸騒ぎはじわじわと酷くなった。
先程の靄々したものではなく、背筋を冷たい蛞蝓が這いまわるような…、そんな不気味で得体の知れないものに変わりつつあった。





TO BE CONTINUED.

2005.06.05


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