昔から、歩道橋が好きだった。
あの、いつもより背伸びして下を眺め見れるのが好きだった。
少しだけみんなより偉い人になったみたいで、それが凄く好きだった。
私は、その日もいつものように、部活帰りに歩道橋に上っていた。
そこは、ここ最近の私の一番のお気に入りの場所だった。
だけれども、その日は思わぬ注意不足だった。
向こうから歩いて来る人が私の憧れの先輩に似ていて、無条件に身を乗り出していたのだ。
だから私は、バランスを崩してしまったのだ。
そして気が付くと、私の身体は歩道橋から、
あっという間に、落ちていた。
OLD MAID
005/ようこそ、笹川芹。
「何だろ、ここ」
爽やかな風が頬を撫でる。
辺り一面に、緑の庭園。
遠くからは、水のさらさらと流れる音。
穏やかな気候に包まれた、温かな日差し。
「綺麗な所、だなあ」
そう呟いたのは、現在高校生の笹川芹だ。
彼女は、感嘆の溜息を落としながら、眼前に広がる美しい景色を眺め見た。
果てしなく長く続く薄緑の芝に、ぽかぽかと暖かい太陽の日。
まるで其処は、絵本で見た天国のようだった。
「けど、何処だろ?」
再び一人呟いて、辺りを見回してみる。
しかし、其処には人の気配など全くなかった。
自分の周りにはただ広い庭園が広がるばかりで、先程まで自分が居た筈のごみごみした街が無い。
賑やかな雑踏の音も聞こえない。
「んー、もしかしてこれってタイムスリップ?」
芹は、いつもの癖である右手の爪の先端を少しだけ前歯でかじりながら、そう語ちた。
昔から直らないその癖のせいで、何故か一本の爪だけ異様に短くなっている。
芹の指は、余り長くはなく、ふっくらとしている。
可愛らしい子供のような指だ。
決して肥満という訳ではないのだか、その手だけを見ると、赤子のようにふくふくとしている。
それが、芹のコンプレックスでもあった。
「うーん、もしかして、もしかしなくても。
困るとこなのかな、これは」
そう言ってみるも、どうも危機感が湧いてこない。
現状を上手く把握できていないせいかもしれないが、何故か焦る気がしない。
自分は紛れもなく見知らぬ場所に来ているというのに、焦燥感が芽生えない。
何となく、「困った方がいいのかな」と思う程度だ。
芹は、昔から何事に関してもポジティブで楽観的なきらいがあった。
どんな事があっても、深く考え込もうとしない。
それが彼女の長所でもあり、短所でもあった。
何か気になる事があっても、すぐに忘れる。
少なくとも、忘れようとする。
けれど、夢中になったもの…、勿論、それは楽しい事のみに限るのだが、そうなるととことんその対象を追い掛ける傾向もある。
その相手が、ここ最近は同じ部活の先輩だった。
容姿がそこそこの、背は少し低いけれども、独特の笑顔が似合う男だった。
その顔を思い浮かべるだけで、芹にも幸せな笑みが零れていた程だ。
けれど、それが原因で、今はこんな所に居る。
つい先程まで、歩道橋の上で街を眺めていた。
そこで、密かに恋焦がれていたその先輩に似た人を見付けてしまったのだ。
その想い人の姿を少しでも見ようとしたのがいけなかった。
歩道橋という不安定な場所に居る事も忘れて、身を乗り出し、あまつさえ地に落ちてしまったのだ。
けれど、本人はそんな事など知る由も無い。
何故、自分がこんな所に居るのか?
自分の身に何が起きたのか?
全くといっていい程、分かっていない事ばかりだ。
するとその時、何処からともなくテノールの声が耳に届いた。
「悪いケドー、其処どいてくれないカナー。
チョット邪魔なんだケド」
その声は、間延びした男性の声だった。
芹は、驚いて辺りを見回した。
しかし、何処にも誰も居なかった。
やはり、気配もない。
辺りは自然物以外に存在していないようだ。
けれど、声は確かに聞こえてきた。
芹は、軽くパニックになって、更に激しく辺りを見渡した。
その芹の様子を楽しむかのように、再度テノールの笑いを含んだ声が響いた。
「違う違う、上だヨ」
今度は、はっきりと声の聞こえてくる方向が分かった。
どうやら頭の上の方だ。
随分と自分の目線より高い所で、音源は鳴っていたらしい。
「誰?」
そう尋ねながら上方を見上げてみる。
瞬間、眩しい刺すような太陽の光と、やや高く聳え立つ木が目に入ってきた。
「うわ、眩し」
余りの急な刺激に頭が眩み、眉間には皺が寄った。
目も、自然と細まった。
「アー、どいてくれないなら、乗るかもしれないヨー」
声の主は、今度はそう言い放った。
そして、次の瞬間には、芹の眼前に大きな黒い影として木の上から降って現れた。
下りて来たのは、随分と長身の男だった。
しかし、逆行で顔が見えない。
「ひやっ」
その大きな影に驚き、どすっと鈍い音をさせながら、芹は派手に尻餅をついた。
「一応最初にどけろって言ったからネ、俺は」
悪びれる風もなく、男が言う。
芹は、尾てい骨を思い切り打った。
腰がじんじんと痛む。
脳も、些か揺れた感じがした。
「アレ?」
痛みに芹がうめいていると、再び男の声が聞こえた。
やはり、テノールで艶やかな声色だった。
随分と耳障りも良い。
「アア、アンタ。
さっき来たばっかみたいだネ。
rankはduceってとこかな?」
そう一人納得する男。
「はい?」
訳の分からない事を言う声の主に、素っ頓狂な声を上げ、芹はもう一度上方を見上げてみた。
刺すような光は、先程と見上げる角度が若干変わった為か、多少和らいでいた。
派手に転んでいる自分の横に、腰に手を当てて立っている長身の男が居る。
太陽の光が反射して、髪は銀色に光っていた。
けれど、逆行の為か、顔は相変わらずよく見えない。
「…だ、誰さ、君」
「初めまして、duce.
俺は此処の世界の治安を維持する役目を仰せ仕っている、joker.
以後、くれぐれもお見知りおきを」
そう言って、男は芹の目線に合わせるように、少し腰を屈めてくれた。
その瞬間、芹の目に映ったのは、眉目秀麗な成人男子だった。
綺麗な髪がさらさらと横に流れ、右目は黒く象ったペイントがなされている。
それがよく似合う切れ長の両目。
通った鼻筋。
薄く線を引かれた淡い色をした唇。
肌は、女である芹が恥ずかしくなるほど、綺麗な白をしていた。
彼は、火をイメージさせる赤と白のロングコートを颯爽と羽織っていた。
立てられた襟から覗く胸元は、艶やかに映えている。
年にして、大体二十代半ばから後半にさしかかる程だろうか。
芹にはない大人の雰囲気をふんだんに纏ったその男は、芹に怪しく笑いかけてくる。
芹は、ほうっと感嘆の溜息を吐いた。
「君、綺麗な顔だね」
「ハハ、それはドウモ」
目の前の怪しくも美しい異性から、目を放す事が出来ない。
そんな芹の様子に、男は口元だけで弧を描いていた。
その笑顔は、とても妖艶で美しかった。
けれども、それは上辺だけで、決して柔かさは見出せないものだった。
TO BE CONTINUED.
2005.03.28
[Back]