この気持ちは、恋愛感情の類ではない。
ただ、数度体の関係を結んだ為に、自然と湧いてきた情だ。

気にはなるけど、どうしても会えないというのならば、別にそれでもいい。
構わない。

そう自分に言い聞かるように、何度も何度も呟いて。

ただ、この世界に来てから更に煩くなった胸騒ぎの正体だけは、全く掴めないまま。
治まるどころか、時間と共に大きくなる一方だ。
かの男との接点が強くなればなる程、ひどくなる一方だ。

ねえ、此処には居ない貴方。
貴方は、この気持ちの名前を知ってるの?

OLD MAID
004/不可思議なキング

「何、これ」
「何って、マスター。
キングだよ。
スペードのキング。
お前よりは階級下になるけど、俺らとスートは一緒だぜ」
「いやいや、キングって、ジャック。
これ…」
「だから、キングだっつってんだろ。
ちゃんと背中にスペードの印は入ってるし、スペードのスートだって事は間違いねえよ」
「いや、何で」
「何でって、何が」

そういった会話を交わす前、飛鳥とジャックは惣菜屋で随分と悩んだ末に、やっと数点の食料を選出した。

勿論、飛鳥はお金など持ち合わせてはいない。
欲しいものは決まっても、それを手に入れる術や道具を持ち合わせていなかった。

そもそもこの世界で飛鳥はお金を持った事がなかった。
以前この世界に来た時も、欲しい物は気が付けば勝手に手に入っていたのだ。

けれど、それらを手に入れるのに金品が必要な事は知っていた。
何処から発生してどのように皆が使用しているのか定かではないが、その存在がある事だけは分かっていた。

それも、銀の髪の男に一度何気なく聞いた事があるからだ。
けれど、その時に「アンタは別にお金なんて持たなくても」と、やんわり答えられた事をしっかり覚えている。

しかし、今はその男も居ない。
お金も持ち合わせていない。

それならば、この惣菜をどうやって手に入れるべきだろうか。

どうしようかと考えあぐねていると、ジャックが数枚の金貨をポケットから出し、店の奥に引っ込んでいた主に声を掛けた。
そして、「これと、これ」と言いながら、飛鳥の選んだ品の分も含んだだろう金額を払ってくれたのだ。

金と銀の硬貨が互いにぶつかって、ちゃりんと音を出す。
その様をただ呆けて眺めていただけの飛鳥を青年はちらりと横目で見て、「まあ、今回は奢ってやるよ」とだけ言った。
素っ気無い言い振りではあったが、優しさがあった。
飛鳥が金品を持ち合わせていない事を理解してくれていたようだ。

そんなちょっとした事にさえ、飛鳥は五年の歳月の彼の成長を思う。
否、彼は元々こういう些細な事でも気が付いてくれる世話焼きであったのかもしれない。

けれど、飛鳥は彼の変化を感じずには居られなかった。
複雑なようでいて、何処かくすぐったい。
その変化と成長が、嬉しいのか、悲しいのか、曖昧過ぎて見当もつかない。

その後、惣菜屋で数点の食料を購入し、案内されて辿り着いたのは、静かな住宅街内だった。
そこに、ジャックの住まいはあった。

簡易な作りではあるが、妙にずっしりとした存在感の、横に広い木造住宅だった。
一瞬、豪邸屋敷かと驚いたものだ。
けれど、よくよく見るとそれも年代もののようで、所々に傷んだ箇所が見受けられた。

純和風な木で作られた壁に、年期の入った瓦屋根。
まるで田舎のおばあちゃんちのような様相だ。

飛鳥は感心しながらも、玄関の引き戸に手をかけた。

「うわっ」

その次の瞬間だった。
飛鳥の視野に飛び込んできた、予想外の生物。
それを目にして、つい素っ頓狂な叫び声を上げてしまった。

「何だ、これ?」

そう呟かせた原因は、玄関にちょこんと座っていた、黒いミニ豚だった。

まるまると太った身体に、深い緑色のくりくりした眼。
不似合いなのか、似合っているのか、首には真っ赤なリボンまで付けている。

それに呆気にとられ、飛鳥の「何、これ」、青年ジャックの「何って、キングだよ」という冒頭の会話に遡るのだ。

「いや、豚なんだけど」
「馬鹿か、てめえは。
人間に見えんのかよ」
「いや、豚だけど。
でも」
「豚じゃ何か不都合が生じるのかよ。
な、キング」
「ブイ」

青年に話し掛けられ、豚が返事をする。
飛鳥はどうしたものかと「あの」と口を挟んでみるものの、果たしてどう言っていいものやらも分からない。

「ジャック。
ちょっと、おかしいよ」
「何がおかしいんだよ。
こいつが豚以外の他の何かに見えるなら、馬鹿というより一度人間を辞めた方がいいな、お前」

そう言えば、豚がまた「ブイ」と返事する。

呆然としている飛鳥を余所に、ジャックは「キング」と紹介したその黒豚を抱き抱えた。
そして、よしよしと頭を撫でる。

それに、豚も嬉しそうに鼻を鳴らした。
短くて役にたたないだろう尾も、千切れんばかりに振っている。

「そいつ、ブイブイ言ってんだけど」
「豚だからな」
「いや、だからさ」
「ブイ」

豚が飛鳥の言葉を遮る。
青年も、何か言い掛けた飛鳥を無視して、豚の首に巻いてあるリボンのずれを直していた。
それに、また豚が嬉しそうに鼻を鳴らす。

「何がどうなってるんだ?」と飛鳥は頭を抱えそうになった。
青年が愛おしそうに抱いているのは、真っ黒な燻製卵に爪楊枝を四本刺したような体型の、ただのミニ豚だ。
それが、この世界の住人だと言う。

飛鳥は、何が何だか分からずに、ふらふらと後ろの戸に凭れかかった。
急に腰から下の力が抜けたような気もする。

「人間以外でも、いいんだ」
「みたいだな」
「みたい、って。
ジャックは驚かないの?」
「別に。
それより、あがれよ」

「立ち話もなんだし」と、ジャックは早々にブーツを脱ぎ、さっさと家の奥へ入ってしまった。
豚は相変わらずブイブイと青年の腕の中で始終嬉しそうに鳴いている。

飛鳥は、大きな溜息をついて、「じゃあ、お邪魔します」とだけ言って、サンダルを脱いだ。
その足取りは、嫌な事があった訳でもないのに、不思議と重かった。

そもそも、人間以外のこの世界の住人とは。
それが特別におかしい訳ではないが、飛鳥は常識を覆された気がしてならなかった。

けれど、よく考えてみると、前回ここに来た際の飛鳥の体も、別の性となっていた。
もしかしたら、それと同じ原理なのだろうか。
「キング」という黒豚も、この世界に来る前は人間だったが、偶々こっちで豚になってしまっただけなのかもしれない。
そういう事も、勿論十分ありうるだろう。

そこまで考えが行き着いて、飛鳥は自分の身体を初めて確認した。

以前は、女として生まれた筈なのに、その身体から胸の膨らみはなくなっていた。
代わりに、下肢に異物がくっ付いていた。
男になっていた。

今回はどうだろう。

触ってみると、僅かといえ、きちんと胸がきちんと存在している。
下肢に異物もない。
ちゃんとした、女の身体だ。

この度の己は、自分が生まれてこの方ずっと付き合ってきた身体に、相違はなかった。
服装だって前回のような中性的なものではなく、それなりに女らしい格好になっている。

一人ああだこうだと考え、けれどどうにも埒が明かない疑問に、飛鳥はついに音をあげた。
そして、無理矢理一つの答えに結びつけた。

そもそも今回は女体のままこちらに来ているが、前回男だった自分の方が、何より不条理だったのかもしれない。
だから、住人に動物が居たところで、特段おかしくはないのかもしれない。

おそらく…、本当におそらくだが、あの豚紛いも、以前は列記とした人間だったのだ。
そうだ。
否、そう思いたかった。

勿論、どんな姿でこの世界に来る事になるのか、その基準は未だに不明である。
けれど、それも考えるだけ無駄な気さえした。

「ま、いっか」

一人行き場のない疑問を繰り返すばかりでは、埒が明かない。
飛鳥は、この世界に来てから…、否、来る少し前から、考える事が急に多くなった自覚はあった。
それをこれ以上増やしても煩わしいので、分からない事はもう考えないようにしようと思った。

実際、その疑問の内、きちんとした答えが出たものなど一つもない。
一番答えが欲しい、かの銀の男の事など、今も靄がかかってどうしようもないくらいだ。
ただむしゃくしゃする胸を掻きむしっては、考えるのが億劫になって、けれどまた何かのきっかけで想いがぶり返しての、繰り返し。
何処まで行ってもゴールの見えない迷路に迷い込んだようで、元より気が短い飛鳥は苛々しそうになっていた。

その時、それを終わらせるかのように、腹の虫がぐうと勢いよく鳴った。





TO BE CONTINUED.


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