夢じゃなかったんだ。
あの出来事は、夢なんかじゃなかった。
あの時、意外に広くて暖かな腕に抱かれて眠ったのは、夢じゃなかったんだ。
いや、もしかしたら。
また今も同じ夢見ているだけなのかもしれないけれど。
もしそうだとしても、あの時の続きを、答えを、此処で私は見付けられるの?
ねえ、貴方。
あの人に何があったか教えて欲しいの。
続きを、答えを。
ただそれだけを求めているのに、どうして何も教えてくれないの?
それに、この心をざわつかせてしょうがない靄。
ねえ。
この正体、貴方なら分かるの?
それとも、あの人にしか分からないの?
ねえ、苦しいよ。
助けて。
誰か教えてよ。
この覚側ない、不可思議な想いを。
OLD MAID
003/デリカッセン
「なーんか、懐かしい。
全然変わってないんだね」
「まあ、そうだろうな」
昼間だというのに辺りは仄暗く、それでも人は絶える事無く、存外賑やかな繁華街。
ざわざわと騒めく喧騒に、鼻を擽る様々な芳ばしい香り。
一度見た事がある様な、そうでもない様な。
そんな顔ぶれが、目まぐるしく飛鳥の目の前を移り行く。
「あ、いい匂い。
たこ焼きかな」
「お好み焼きじゃねえの」
いたずらに届いてくる、香ばしい香り。
それに操られながら、飛鳥とジャックは五年前と同じように連れ立って、店が立ち並ぶ路地を歩いていた。
それも先程、飛鳥がジャックの前で派手に腹の虫を鳴らしたせいだ。
縋り付く姿勢のまま、二人の沈黙を終わらせたのは、飛鳥の色気の無い腹の音だった。
それに、青年は「仕様がねえな、ついて来いよ」と飛鳥の手を引き、此処まで来たのだ。
どうやら、死しても尚、人間の欲求は健在しているらしい。
青年に連れられながら、飛鳥は人知れず思った。
勿論、その腹の虫のせいで深刻なムードが一蹴されたのは、言うまでも無い。
「そういや、此処って私の夢の中じゃなかったんだね」
「らしいな。
悪かったよ。
知らなかったとはいえ、前は嘘なんか吐いて」
飛鳥は惣菜屋の前で立ち止まり、ポテトサラダを見つめながらジャックに問うた。
それに、青年もさらりと答えながら足を止めた。
しかし、青年は表面上こそあっさりとしているものの、存外すまなかったと思っているようだった。
その証拠に、昔から動揺した時によくしていた癖を、今もひっそりとしてしまっている。
おそらく本人は気が付いていないだろうが、飛鳥は知っていた。
何か不安な事があったり、落ち着かない時に決まって行っていた、左肩をきつく固く右手で抑える行動。
これが、彼の自覚の無い癖だった。
「別に、怒ってなんかないよ」
その青年の癖を、見て見ぬ振り、気付かぬ振りをしようと思った飛鳥は、視線を色鮮やかな食料から離さないままに努めて興味なさげに答えた。
それは、ただ青年を気遣ってからだけではなかった。
実際、空腹ゆえ、必要以上に魅力的な様々な匂いに誘われて仕方がなかったせいも、大いにあった。
中でも飛鳥を一番引き止めたのが、しっかりとマヨネーズと胡椒を纏い、大きく乱切りされたジャガ芋料理だった。
ポテトサラダだ。
それを目にした途端、口内にじわりと唾が滲み出た。
きゅう、と再び腹の虫も鳴いた。
「ああ、分かってる」
料理に夢中になっている飛鳥に、青年は言った。
「ただ、謝っとかなきゃいけない気がしただけだ」
青年も、後はそう簡単な詫びを入れただけで、きつく握り締めていた肩から手を離した。
この話は、もうこれで終わりだ。
この青年とて、五年前、好きで嘘を吐いていた訳ではない。
むしろ、この彼自身も、そのように嘘を吐かれていたのだから。
けれど、律儀な彼の事だ。
これも、彼なりのけじめなのかもしれない。
飛鳥自身、嘘を吐かれていた事など全く気にしていなかったし、忘れていた程だが、この青年はそうではなかったのだろう。
ほんの一瞬だけ張り詰めてしまった空気が、辺りの雑踏に掻き消された。
ぴんとピアノ線でも張っていた様な二人の距離が、騒音でごちゃまぜにされていく。
それに安心した飛鳥は、このままの流れで気になる事を聞いてしまおうと、口火を切る事にした。
「そういえば私って、またスペードのエースの、いわゆるマスターなの?」
「ああ。
一度向こうに帰っても、運良くまたこっちに来れた時は前と同じランクになるらしいぜ」
「へえ」
「まあ、たまたまそのランクが空いてればの話だけど。
だから、お前は本当に稀なパターンだろうな」
そう言って、青年は飛鳥の真横に立った。
先程まで少しだけ前を歩いていた彼がすぐ近くに来れば、身長差がありありと感じられた。
五年前までは見下ろしていた後頭部が、今は遥か先だ。
飛鳥の目線からは、ほとんど見えない。
いつの間にか、追い抜かされていた。
抱きしめれば包む事も出来ていた筈の身体も、今では逆に包まれてしまうだろう。
「此処の世界に長い事居れば、初対面でも相手のランクやスートが分かるようになる。
なんていうか、そういう直感みたいなもんが働くようになるんだ」
「私は、この前の時も結構長期間居たと思うけど。
それでも、最後まで分かった事なんて無かったよ」
「お前の脳みそじゃ理解しきれないくらい、此処の世界には色々あるんだよ」
いつもの調子で毒を吐き、青年は少しだけ腰を屈めた。
さらさらと流れる様な真紅の髪の毛が揺れる。
触ると気持ちがいいのだろう。
とくり、と飛鳥の心臓が鳴った。
知らぬ間に大人になってしまっていた青年に、胸が変に高鳴る。
勿論、これは恋ではないと思う。
けれど、平常では居られないのも事実だった。
「お前、辛いもの余り好きじゃなかったよな」
飛鳥の心境など気付く風もなく、青年はポテトサラダの横に置かれていた、油がてかった春雨を二つ手に取った。
そして、その皿を両手に乗せ、どちらが多いか見比べだす。
その横顔は凛としていて、けれどやはり何処か所帯染みていて。
この子のこういうところは何一つ変わっていないのだなあ、と飛鳥は一人物思いに更けた。
以前から何処か子供らしくないところがあった。
自分が楽しくて一人はしゃいでいても、やれ後片付けが大変だとか、晩御飯が食べれなくなるだとか、母親のような事ばかり言う性質だった。
きっと、幼い時から苦労してきたのだろうと思う。
それが年相応に似合う年頃になった今、何処か寂しい感覚に陥ってしまう。
まるで、自分が知らない誰かに彼が成り下がってしまったような気がして。
懐かしい筈が相反して、胸がちくりと痛む。
「うん、甘いものにして」
複雑な懐旧と疎外感を感じながら、飛鳥はぼんやりと青年を見詰めた。
「飯に甘いもくそもあるか」
また、軽く馬鹿にされてしまった。
しかし、文句を言う気にはなれなかった。
先程交わされた会話に隠された事実を、自分なりに整理してみる。
何も考えられないように頭はぼやけているのに、何故かぷかりぷかりと想いが溢れては消える。
いつまでたっても胸の中は一杯にならなくて、上から上から新しい感情が全てを塗り潰していく。
そんな、不思議な感覚があった。
目の前の青年が、昔の彼と重なった。
けれど、そう思った瞬間に、何か違うものにも見えてくる。
そのまま「嗚呼、これは違う人だ」と納得してしまうと、次に頭を占めるのは、この世界の事だった。
この世界は、好きな時に来たくとも、定員というものがある。
勿論、運も必要だと思う。
死自体に運も何もあったものではないが、否応無しにあの世に送りつけられるよりは幾許かマシなのかもしれない。
今自分が此処に居るという事は、誰かと自分がこの世界に行き違いになったという事だ。
ランクの空きがないと、この世界に移住・配属はされないのだ。
もしかしたらその人は、以前の飛鳥のように無事に現世に戻れたのかもしれない。
或いは禁忌を犯し、死刑執行人に罰を処されたのかもしれない。
そうだ。
あの死神の鎌を自在に振りかざす、銀髪の男に。
人の命など簡単に狩ってしまうだろう、あの男に。
そう思うと、何だか悲しみにも怒りにも似た感情が胸に込み上げてきた。
そして、またその男に想いが行き着いてしまった自分を、情けなくも思った。
ジャックは、未だ真剣に料理を選んでいる。
それに、飛鳥は「本当にお母さんなんだよな、こいつ」と、また昔の彼を思い出した。
感情の輪廻は、堂々巡りだった。
「じゃあさ、今度はジャックも私が消える時に殺しに来るの?
マスターになりたいって思うの?」
飛鳥は、その輪廻から抜け出すように、一歩踏み込んだ質問をした。
けれど、そのえげつない内容を深刻に捉えられたくなくて、わざと茶化す様に問うてみる。
冗談だと思って欲しかった。
「さあな」
思いのほか、青年はさらりと応えた。
「その時にならないと分からねえんじゃねえか」
想定外の返事に、どきりとする。
この知己も、己の命を狙ってくるつもりなのだろうか。
あの下克上の時が来たら、今までの仲など関係なく、人を殺めようとするのだろうか。
動揺して、その後の言葉が続かなかった。
嫌だ、と思った。
殺されるのは嫌だ。
だが、それ以上に、この青年が誰かを殺めようと考えるその事実が嫌だった。
「あ、それ取ってくれ。
その金平」
悶々としていると、ジャックは俄然食材から目を放さぬまま、そう言った。
まるで、この下克上の話も、これ以上してくれるなと言っているようだった。
或いは、飛鳥の話など最初から真剣に聞いていなかったのかもしれない。
軽口のつもりで零しただけなのかもしれない。
飛鳥は、「ん」とだけ応えて、ジャックに指示された金平を手に取って寄越した。
赤の唐辛子が所々にちりばめられた、牛蒡(ごぼう)の炒め料理だ。
それは、交わる事がないように、互いの存在を赤と茶で主張している。
その料理と同じ様に、二人の行動と会話の内容も、全くそぐわなかった。
飛鳥は、五年前の「世話好きなジャック」が、己の中で静かに崩れていくのを感じた。
この子は、人殺しなんてする子じゃない。
そう思っていた。
勝手な先入観だが、信じていた。
それだけではない。
年が離れてはいるものの、互いにはそれなりの友情とか、愛情とか。
そういったものがあると思っていたのに、やはり価値観の違うこの世界では、それも通用しないのだろうか。
「何処でも例外はないのだ」と、飛鳥はひどくゆっくりと確信した。
此処は「人類皆平等」「平和主義」などといった温い事を謳える場所ではないのかもしれない。
それは、前回の帰還の際にも、重々承知しているつもりだった。
それなのに、この赤髪の青年だけは違うのだと、そう思っていた。
「どうするかな。
今晩は一々作るの面倒臭いしな」
飛鳥が胸をひっそりと痛めている間も、青年はおかずをどちらにしようか迷っていた。
金平は手にしたまま、未だ二つの春雨と睨めっこをしている。
暫くしてやっと決心がついたらしい青年は、春雨を諦めた。
代わりに、金平を持ったまま、今度はマカロニサラダに手をかけた。
「まあ、でも…」
サラダを手に持ち、青年は飛鳥に漸く聞こえる程度の声で呟いた。
「今度こそこの世界の事、必要最低限は言っとかなきゃな」
相手が何を言ったのかうまく聞き取れなかった飛鳥は、「え?」と聞き返す。
「さっきの話の続きだよ。
ま、今度は以前と同じようにはいかないだろうし」
「どういう事?」
「とりあえず、食いたい物を適当に決めたら、うちに来いよ。
おかずさえ買ったら、家で白飯炊いてあるし。
会わせたい奴らも居るしな」
「ちょっと、話逸らさないでよ…って、ジャックの家?」
さらりと話を交わされた事に僅かながら憤りを感じたが、それ以上に青年の発した単語に引っ掛かりを覚えた。
青年の家といえば、必然的に会える筈の、あの銀髪の男。
表面上は、先程言われた「会わない方がいい」という台詞を気にしないようにしたが、やはり会ってみたいのは確かだ。
頭から離れない、あの男。
考えないようにしようとしても、気になって仕方のない存在。
青年の言葉に、つい表情を綻ばせていたらしい。
その飛鳥の表情を見て、ジャックは慌てて訂正してきた。
「ああ、いや、悪い。
違うんだ」
「え?」
「言ってなかったけど、引っ越したんだ、俺。
お前が居なくなってから、すぐくらいに。
で、今は違う奴と住んでるんだ」
その言葉に、一瞬でも期待してしまった何かが、がらりと崩れ落ちていく。
一体自分は、何を期待したというのだろうか。
何を望んでいたのだろうか。
分からないけれど、でも確かに、気落ちした。
「そう。
そっか。
引っ越したんだ、ジャック」
「ああ」
「そりゃ、そっか。
あれから何年経ったんだか、ねえ。
そりゃ引越しもするわ、はは」
「…まあな」
申し訳無さそうに応える青年に、飛鳥の心は再びきりきり痛みだした。
その心は、痛みに対する答えを未だ持っていない。
けれど、心ではなく身体が、その内の方が「何かが足りない」と。
「早く答えを持って来い」と叫んでいる様な気がして、飛鳥はひっそりと胸を掻き毟った。
TO BE CONTINUED.
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