今から五年前。
飛鳥は奇怪な夢を見た。

否、果たしてそれが夢だったのか、実体験だったのか。
本当の事は分からない。
非現実的な世界に行き、非現実的な出来事があった。
そして最後には、銀髪の男に抱かれた筈だった。

しかし、目を覚ますとその銀髪の男の姿は、何処にも見えなかった。
勿論その男の血痕も、自分が放り捨てたハートのトランプも、全てがなくなっていた。
あの廃品回収の男も、以前の中年男に戻っていた。

そう。
飛鳥が非現実的な体験をしたという証拠は、この世から何一つ残っていなかったのだ。

ただ、飛鳥の全身に残された、無数の紅い所有の証だけを除いては。

OLD MAID
002/REUNION

「…痛っ」
「痛えのはこっちだよ、相変わらず鈍臭え奴だな」

チチチチチと、遠くからは小鳥の囀り声。
そして、さらさらという清らかな水の流れる音。

頭には、鈍い痛み。
何処かでぶつけたのだろうか、ずきずきと脳の芯を突付くようだ。

「重てえんだよ、ったく。
お前、太ったんじゃねえの」

頬に当たる布の感触。
其処からは、温かい体温と規則的な心搏音。

そして、溜息と同時に返された低い声。

「え?」

その声に驚いて、飛鳥は顔を上げようとした。

そのちょっとした動作でも、妙に首の芯がぎちぎちと痛む。
それを我慢して、機械が軋む様な音をたてながら、声がした上方を見遣った。
痛みのせいか、僅かにぼやけた視界も、その首の動きに合わせて動いていた。

飛鳥の眼内に一番に飛び込んできたのは、鮮やかな赤の髪に、ルビー石の様な赤の二つの瞳だった。
青年だ。
その青年は、スペードをかたどったピアスをして、首元には龍のタトゥーが覗いている。
年の頃は、十七、八だろうか。

その後ろに広がっていたのは、黄緑一面の芝だった。
飛鳥は、その芝の上に転がっている青年の上に倒れこんでいたらしい。
どうやら今は、青年を組み敷いた姿勢になっているようだ。

「何て顔してんだよ。
馬鹿面が更に激しい事になってんぜ」

そう言って、青年は片目を細めて鼻で笑った。
芝の上に放り投げられていた手を持ち上げ、飛鳥の額に垂れている前髪に優しく触れてくる。

自分は、この青年と知り合いだっただろうか。

ぼやけた頭で考える。
自分に触れてきた一連の動作はとても綺麗で、微動だに出来ない。

太陽は丁度空の真ん中辺りに昇っているようだが、此処は木陰に居るのだろうか、全く眩しくない。
そよそよと涼しい風が、頬を撫でている。
その心地よい風に、飛鳥はやや瞳を細くしながら、流麗な青年を再度見つめた。

何処かで会った事があるだろうか。
燃える炎のような目の色をした、この青年に。

見る程に綺麗な景色と心地良い自然に相まって、とろんと瞼が落ちてきた。
まるで何かに酔っているようだ。

心成しか、石鹸のにおいがする。
この青年から香ってくるのだろうか。
いいにおいだ。
このまま抱きついて、眠ってしまいたいくらいだ。

そう感じてしまった事に気が付いたのか、青年は飛鳥の前髪を梳いていた手を額に持っていき、そのままぐっと力一杯に突き放してきた。
前のめりになっていた飛鳥の体は反対に倒れ、不自然な形に首が回り、仰け反った。
痛い。
ぐえ、と色気のない声まで出た。
 
「てめえ、何年下に見惚れてんだよ。
そんなにも飢えてんのか、この淫乱年増ババア」
 
随分と口の悪い青年だ。
だが、そこまで罵られて、呆っとしていた脳内が初めてはっとした。

勢いよく突き飛ばされた体を起こす。
青年は此方を訝しげに睨みながら、僅かに肌蹴ていた服の乱れを直している。
赤の瞳は細くなり、眉間に濃い皺も刻まれていた。

その深紅の瞳に、同じ色彩の鮮やかな髪。
それに合わせ、特徴的な不機嫌な表情。

やはり、いつか何処かで見た事がある人だ。

飛鳥は無性に既視感を覚え、目を大きく見開いた。

「あんた、もしかして、あの…ジャック?」
「だったら何だってんだよ。
分からねえのかよ。
普通、見て直ぐに」

すらりと伸びた四肢に、声変わり期特有の甘く低い声で、青年は答える。
少しまだ幼さを残す瞳を持ち合わせてはいるが、五年前の事を思うと随分と大人びた容姿で、けれどあの時と何も変わらぬ様な態度で。

心臓が止まるかと思った。
驚きとか、喜びとか、寂しさとか、色んなものが綯い交ぜになって、強く胸を締め付けた。

「久しぶりだな、マスター」
「あ、その…」
「お前、また来たんだな。
変な縁がある奴だよ、全く」

そう言い、ジャックという名の青年は、刻まれた眉間の皺を和らげた。
そして、片手で体を起こし、唇の端を困ったように持ち上げて微笑んで見せた。

思いのほか、柔らかな笑みだ。
その一挙一動が、新鮮で、且つ懐かしい。
何故だろう、その面影は、誰か違う男を思い起こさせる。

五年前の、あの出来事。
あれは夢ではなかったのだ。
あの時の体験は幻ではなかったのだ。

或いは、今もまた夢を見ているのだろうか。
あの時の続きの夢を、今もまた。

いや。
こんなにもリアルで懐かしいこの情景が、本当に夢なのだろうか。

飛鳥は、口をぱくぱくさせながら微動だに出来ないままだった。

「ジャ、ジャック。
あんた、大きくなって」
「本当、何普通のババアみてえな事言ってんだよ。
お前この五年でどれだけ年くったんだよ」
「口の悪さも、相変わらずというか…。
何か、ひどくなってるよね」

飛鳥は、点になっていた目を戻し、苦笑いを浮かべた。
そして、やや体を離し、青年から距離を取った。

上から下まで、まじまじと相手の姿を眺めてみる。
見れば見る程に感心する。
この青年は、五年間で本当に随分と成長したらしい。

元々大人びたところがあった分、その姿は以前より妙にしっくりきている。
何より、もう彼は十二分に成人男性で、内に秘めたるは、隠しきれていない色気だ。

そう思った時、今度ははっきりと飛鳥の脳内に一人の男が過った。
思い出したと同時、急にその男の存在は沢山の色を帯びて来た。

銀の髪が特徴的な、妖艶な雰囲気を醸し出していた、中性的な男。
何処か子供で、憎みきれなかった。
いや、どちらかと言えば、好ましい部類に入っていた。

その男とは、体の関係も持っていた。
しかし、特にこれと言って執着してやまないほどの感情を抱いていた訳ではない。
それなのに、脳内を侵食して病まない、不可思議で矛盾した存在でもある。

あの男は、今はどうしているのだろうか。
この青年に尋ねたら分かるだろうか。
そうすれば、この胸の内に引っ掛かっている靄も軽くなるかもしれない。
ずっと疑問に思っていた答えが、はっきりと見えてくる筈だろうから。

「そういや、あの。
ジョーカー…は?」

おずおずとその名前を出してみる。
すると、青年はやや間を置いて、同じ言葉を繰り返した。

「ジョーカー?」
「あ、えっと、そんな男が居なかったっけ?
もしかしたら、私の気のせいだったのかなー、なんて。
ていうかさ、その…」
「いや、まあそりゃ普通に居るけどよ」

ジャックはそこまで言って、急に押し黙った。
そして、何か考え込むように、手で口元を押さえた。

その言いぶりは、やけに不自然だった。
何だろう。
何かあったのだろうか。

得体の知れない胸騒ぎがする。
心無しか、急に風が止んだようだ。

「な、何?
居るけど、何?」
「いや、別に」

そう言いながらも、青年の顔色は益々深刻になっていく。
飛鳥の心も、同調する様にざわざわと揺れた。

「何かあったの?
そういやあいつ、何も言わずに居なくなったんだよね。
私の事追いかけて来て、それでいて、その後…、あ、いや、背中に傷もあったのに、本当に急にさ」

青年が歯切れ悪いものだから、一人落ち着きなく喋ってしまう。
それなのに、青年は何も話してくれない。
話そうか話すまいか考えるような素振りをして、口を横に引き結んだままだ。

本当に、何があったのだろうか。
ただ、彼がどうなったのか純粋に尋ねたかっただけなのに。
この不可思議な想いの訳を明かしたかっただけなのに。
それなのに、どうしてこの青年は何も教えてくれないのだろうか。

青年の深刻な様子に更に不安になり、縋り付く様に腕を掴んだ。
その腕も、五年前より随分太く、逞しくなっていた。

飛鳥の全身に、嫌な焦りが襲ってきた。
指先の感覚が薄れてきて、汗がじっとりと滲み出る。
呼吸は不規則に乱れた。

おかしい。
特に気にもならない…否、特別な存在である筈のない男なのに、安否が分からないだけで。
たかがそれだけで、何故か得体の知れない不安が全身を襲う。

どうしてだろう。
どうして自分は、こんなにもあの男の事が気になり始めたのだろう。

そんな飛鳥を見て、青年はぽつりとだけ零した。
表情は、深刻なままだ。

「あの男には、お前はもう会わない方がいい。
それだけだ」
 
それだけ呟いて、再度押し黙る。

その声は、本当に小さなもので、飛鳥にも漸く聞こえる程度で。
しかし、靄がかかっていた飛鳥の心の霞みが一掃されるどころか、逆に激しく渦を巻いて騒ぎ立て始めるには、十分過ぎるものだった。





TO BE CONTINUED.


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