長い間貴女を待っていた。
いつかまた会えると。
ただ、それだけを信じて。

堕ちて行こう。
此の侭ずっと、僕の中の貴女と共に。

もう僕等は、夢の中でしか会う事が出来ないのだから。
だから、何処までも堕ちて行こう。
それが、幻と言えど、貴女に会う為だというのならば。

嗚呼、けれど現実の愛しき君よ。
「さようなら」
そんな言葉は、やはり言える筈もなく。
もう二度と会える事など、無いとしても。

OLD MAID
001/HELLO AND GOOD-BYE

「お見合い、ねえ」

宮前飛鳥は、目の前に差し出された写真をひょいと右手で掲げて見つめながら、あからさまに大きな溜息を吐いた。

季節は冬、十二月二十四日。
世間ではクリスマスイブと騒がれている日だ。
外はちらちらと雪が舞っている。
風は然程強くないのか、木の枝が揺れているふうはなかった。

それでも、真っ白な景色が顕著に表すのは、ひどい寒冷だった。
家の中まで冷気は入ってこないものの、この極度に利いた暖房器具がなければ、すぐにでも凍えてしまうだろう。

「いい人よ」
「ふーん」

適当に相槌をうった飛鳥は、見合い写真を面倒臭そうに閉じた。
そして、それを軽く放るように、炬燵の上に乗せる。

飛鳥と一回り年が離れた姉は、嗜めるような、けれど怪訝そうな顔をした。
それも、常の事。
いつもの光景だった。

宮前飛鳥は、二十二歳になった。
少し華奢ゆえ、ふくよかな胸などは持ち合わせていないが、黒髪が映えるそこそこの美人になった。
それなのに、色香を纏う事なく育ってきた彼女は、やはり何才になっても女らしい事など覚えなかった。

いつまでたっても浮いた話一つない妹を心配して、お節介の姉は、毎日のように己の夫の後輩の写真を持って来る。
そして、大して聞く気もない妹に、無理矢理その写真の男の特長を聞かせていく。

それが、気が付けば二人の日課になっていた。

「そう言われてもねえー」

飛鳥は素っ気無く返事をし、視線を賑やかなテレビに向けた。
写真など最初から興味がなかったので、最早目を遣る気にもなれなかった。
代わりに、炬燵の上に積まれている蜜柑に手を伸ばした。

その手は、ここ数日で柑橘系を摂取し過ぎたせいか、ひどく黄色に染まってしまっている。
けれど、本人はそれも気にならないのか、今日もすでに何個目になるのか分からないビタミンの元を頬張った。

その様子を、姉は冷めた目で見詰めた。
「自分の妹ながら、情けない」とでも言いたそうだった。

「貴女ね、もう二十二にもなって。
周りの子も、もう皆、学校を出た後の結婚の話だってしてるでしょ。
貴女だけよ。
学校も行かず、こんなにだらだらしているのは」
「もお、煩いなあ。
何もしてない様に言うのやめてよね。
大学ってのはねえ、四年生にもなればほとんど行かなくていいんです。
卒論も提出したら、残るは休みだけなんです」

もぐもぐと頬と顎を動かせて、飛鳥は言い返した。

全くもって、このお節介の姉といったら。
人妻という立場になって少しはマシになるかと思いきや、年々酷くなっている気がする。
これでは、自分の本当の意味での自由はいつになったら手に入れられるのやら。

飛鳥の部屋は、未だ姉の趣味で飾られている。
ピンクのレースだとか、ヌイグルミだとか、鼻をつく芳香剤だとか。
二十二歳にもなって姉に世話を焼かれる此方の気も考えて欲しいものだ。

飛鳥は、説教をし始めた姉を不機嫌そうに睨み見た。
姉も、さも困ったように大袈裟に肩を落とし、溜息をつく。

姉の様相は、年相応どころかそれ以上に思わせた。
苦労が人を老けさせるというのは、本当らしい。
果たしてその苦労は、飛鳥が与えているのか、旦那が与えているのか、分からないけれど。

そんな冷めた事を考えている飛鳥を他所に、姉の表情は益々険しいものになっていった。

「ねえ、飛鳥」
「何」
「私、ずっと聞きたかったんだけど。
貴女、好きな人でも居るの?」
「はあ?
何でまた」
「だって貴女、いつまでたっても彼氏とか作らないし」

ふーん。
彼氏、ねえ。

急な姉の問いに、飛鳥はそう小さな声で呟き、最後の蜜柑の粒を口内で潰した。
甘くて、けれど若干酸っぱい香りが口の中に充満する。
冬の芳しい匂いだった。

炬燵布団の端を使い、汁で濡れてしまった手を拭った。
その時、彼女の頭を過ったのは一人の男だった。
今はもう傍に居ない、銀の髪で妖艶に美しく笑う、自分を溺愛してくれていた滑稽な男だ。

しかし、物思いに耽っている飛鳥を、姉は嗜めた。

「あっ、貴女。
何してるの」

要は、蜜柑の汁を炬燵布団で拭いた事が気に入らないらしい。

こんな小さな事を一々目ざとく見つける姉にも、うんざりだ。
やれあれをしろ、これはするなと、飛鳥のする事なす事に文句ばかりを付ける。
そんな小言は、自分の旦那にでも言えばいいのに、どうして己の世話ばかりを焼きたがるのか。

飛鳥は、あからさまにげんなりして見せた。
姉は姉で、眉の端を吊り上げて此方を見ている。
今にも角を出しそうな勢いだ。

こうなってしまえば仕様がない。
これ以上この鬼の機嫌を悪くしては面倒なだけなので、いっそこの場を離れた方がいい。

「お汁粉買ってくる」

飛鳥はそれだけ言って、立ち上がった。

外は恐らく、寒いだろう。
それなりの防寒をしなければ。

外との温暖差を考えれば足取りが重くなったが、ソファの上に掛けていたマフラーとコートを手に取った。
そういえば、衣服をハンガーにかけず、こうやってソファの上に放り投げる癖も先日怒られたばかりだ。

見合い話が頻繁に出てくる様になってから、こうやって逃げるのも板に付いてしまった。
いつも姉の小言を避け、怒鳴る声を振り切り、玄関を後にしている。
今日も例外ではない。

近所に出掛ける用の少し薄汚れたスニーカーを穿いて外に出てみると、思っていた以上に寒さが厳しかった。
吹いていなかった筈の風はびゅうびゅう言っているし、冷気も半端ではない。
それに少しでも抗うように、飛鳥は真っ赤なマフラーで顔を半分以上覆って、肩を竦めて近所の自動販売機まで歩を進めた。

「寒いな」

誰に言うでもなく、零す。
冷気は眼球を刺し、乾いた眼に無理矢理瞬きを促してくれる。
車通りが多いせいか、車が横切る風圧までもが体を凍えさせるようだ。

その風に塗れて消えてしまう程度の声で、飛鳥はまた独り言を呟いた。

「彼氏、かあ」

姉の科白をきっかけに。
否、本当はずっと忘れられなかった存在。
ただ、其処に蓋をしていただけだった、かの人。

それが、枷が外れたかのように、飛鳥の脳内をじわりと甘く痛く侵食していく。
こんな寒い時期に、まるで脳内だけ焼け尽きる様に暑くて焦げる気がする。

「彼氏、ねえ」

飛鳥はもう一度同じ言葉を吐いた。
そして、その単語の意味を、自分の頭に刻まれている辞書でゆっくりと考えてみた。

そもそも飛鳥が想っている男は、「彼氏」と言う単語が当てはまる様な輩ではなかった。
二人が心から愛情を持って想い合っていた訳でもなかった。
どちらかと言うと、男の一方的な感情だった。

確かに、飛鳥も気に入ってはいた。
「好きかもしれない」と思った。

だけど、それだけだ。
世の恋人達が謳う「愛」とは、また違う気がする。

けれど、何故なのだろう。
先程から何かに取り憑かれたかの如く、頭の片隅からその男の存在が離れない。
愛してなどいなかったのに、何故こうも「彼氏」という言葉に己が反応するのか。
また、かの男をすぐに連想して止まないのかが、全く分からない。

姉の科白を切っ掛けに、内から溢れてくる、その何か。
まるで、封印していた札がべろりと音をたてて剥がれ、悪霊が湧き出るかのようだ。
このままいくと、その男に、「彼氏」という単語が当てはまる席にどっかりと居座られているかもしれない。
もう、何処に消えてしまったのか分からないあの男に、だ。

複雑な想いに悩みながら、飛鳥は大きく息を吐いた。
どんなに突き詰めて考えても、先は暗くて見えるかどうかが分からない。

何より、この憤りが理解出来なかった。
下手をすると、このまま足踏みするだけの感情なのかもしれない。

好きかもしれないし、好きではないかもしれない。
恋人かもしれないし、恋人ではないかもしれない。
そもそも、本当にあれが夢ではなかったと、どうすれば言い切れるのだろうか。

何せ今、己の側にはその答えを出してくれるかもしれない張本人が居ないのだから。

「何だってんだよ」

飛鳥は吐き捨てた。
段々根本的な悩みが分からなくなってきた。

果てのない苦悶を断ち切るかのように、自分の足元近くに転がっていた紅茶の空き缶を蹴ってみる。
少し固めのスチール缶だった。
からから、からん、という乾いた音が耳に響く。

それが、妙に心地良かった。
今の己のはっきりしない心境とは逆に、こざっぱりとしているのがとてもいい。
冷気と波長が合っていて、変に趣を持たせている。
しかし、その音源は然程長くは鳴らず、前方の歩道橋にこつんとぶつかって、止まってしまった。

その時だった。

「危ない!」

缶の音が鳴り止んだのとほぼ同時、飛鳥の少し上方から悲鳴と叫び声が聞こえてきた。

何だろう、と顔をあげる。
すると、何やら人間の形をしたものが、歩道橋の上から自分を目がけて落ちてきているのが目に映った。

瞬間、ふわりと体が浮くように時が止まる。

「え?」

そう言葉を発せたかどうか、飛鳥自身にも分からなかった。
視界が急にブラックアウトしたのだ。

頭の片隅には、未だはっきりとしない想いを抱えたまま。





TO BE CONTINUED.

2004.08.15


[Back]