トミコウミ。
右を見たり、左を見たり、あちらこちらを見る事。
左見右見
ある日、学校からの帰り道、意外な人物を見てしまった。
私は友人の美鈴と共に、最近評判のクレープを食べているところだった。
移動車で路上販売をしているクレープ屋だ。
其処で一番人気の苺チョコを頬張っていると、一際目立つ長身の男性が目の前を通り過ぎたのだ。
彼は、浅黒い肌に、真っ白な髪でポニーテールをしていた。
そして、誰よりも目を惹く派手な着物と合羽。
手には弦楽器の琵琶。
見間違える筈も無い。
彼は黒狐さんだった。
「ねえ、あの人」
美鈴はすぐにその人物に狙いを定めた。
それも当然の事だった。
黒狐さんは目立つ。
辺りを行き交う人も皆、彼をじろじろと見詰めている。
何も気にしていないのは、黒狐さん本人だけだ。
私は友人にどう返すべきか頭を捻って、曖昧に頷いた。
彼が知り合いだと白状するにしても、どう説明すればいいのか分からなかったからだ。
「神の下で居候している狐」だと正直に話すべきか。
或いは、「自分の従兄弟」だと嘘でも言うべきか。
どちらにしても、妥当な返答では無かった。
何を言っても、美鈴は白い目を向けるに決まっている。
他人の振りをした方が賢明だろう。
幸い、黒狐さん自身も、私を見向きもしなかった。
そもそも気が付かなかったのかもしれない。
琵琶を片手に、ただ真っ直ぐに何処かに向かっている。
蛇神様の居る社の方角では無かった。
彼個人の私用で何処かを目指しているように見えた。
その時、ふと突飛な興味が鎌首を持ち上げた。
何かとミステリアスな彼の私用とは、一体何なのだろうか。
日頃、何を考えているのかも分からない寡黙な彼が、何処で何をしているのか、私は知らない。
想像しても、皆目見当が付かない。
だからこそ、その彼の生活が気になってしまう。
無粋とはいえ、一度生まれた関心は簡単に消す事が出来なかった。
私は、適当な理由を付けて友人と別れ、こっそり黒狐さんの後を追う事にした。
黒狐さんは脇目も振らず、ひたすら直進していた。
後ろを振り返る事もないので、後を付けている私の存在に気が付いている風もない。
彼が最初に向かったのは、江藤スーパーだった。
以前、私が彼に油揚げを買ってあげた店だ。
彼はその中に一人で入って行った。
私も中まで付いていこうと思ったが、狭いスーパー内では尾行している事も露見しそうな気がしたので、止めておいた。
そのまま待つこと暫し、黒狐さんは琵琶をかき鳴らしながらスーパーから出て来た。
彼の表情は常通り能面のままだが、琵琶の音色が何より彼の浮かれた内心を表している。
リズムの良い音を奏でる時、彼は大概、上機嫌だ。
今も随分と軽快な音色を刻んでいるので、それなりに機嫌が良いのだろう。
好物の油揚げでも買えたのかもしれない。
しかし、目を凝らしてみても、彼の手には琵琶しかなかった。
油揚げを持っている様子は無い。
彼がお金を払って油揚げを買ったとは思いにくい。
だからといって、万引きしたとも思いたくない。
だが、スーパー内で、油揚げを手に入れる以外に彼が機嫌良くなる事など、私は知らない。
短時間だったので、誰かに会った様子も無い。
そもそも彼に友人は居るのだろうか。
何故、彼は数分の間にこんなにも機嫌が良くなったのだろうか。
黒狐さんの事を調べるつもりが、また新たな疑問が増えてしまった。
やはり一緒にスーパー内まで付いて行けば良かった。
ほんの些細な興味で始めた尾行だというのに、尽きる事のない関心は一気に膨らんでしまった。
悶々と靄がかった疑問を抱えていると、黒狐さんはまた何処かに歩を進め始めた。
次に向かったのは、やや離れた所にあるCDショップだった。
今度こそ離れないよう、後ろをこそこそと追跡する。
彼は、真っ先に視聴スペースへと向かった。
黒いヘッドフォンを付け、黒狐さんは慣れた手つきで視聴機械を弄り始めた。
目当ての曲は決まっているらしい。
CDの紹介ポップを見ながら、幾つかのボタンをぽんぽんと押す。
そして、耳から聞こえ始めた音楽に合わせて、手にしている琵琶をかき鳴らした。
彼が奏でたのは、ハードなロック音楽だった。
しかも、洋楽だ。
そういえば、彼の手首には髑髏の腕輪がされていた。
琵琶を鳴らす撥にも、和テイストとは到底思えない赤い十字が刻まれている。
彼は古来の人だというのに、パンクやロックを好んでいるきらいがある。
羽織っている合羽も豹柄だ。
彼は、現代的なのか古風なのか分からない格好をしている。
それなのに、それらの奇抜な衣装を容易に着こなしている。
黒狐さんは一頻り音楽を奏でた後、何も買わずにその店を後にした。
そして次に向かったのは、最近出来たばかりの手打ちうどんのお店だった。
立ち食いで食べるという噂だ。
彼が暖簾を潜ると、中から「いらっしゃい、兄ちゃん」という威勢の良い声が聞こえてきた。
若いお兄さんのような声だ。
そのすぐ後に、「今日もきつねかい?」と付け足される。
どうやら彼は此処の常連らしい。
流石にこの中まで付いていっては気付かれると判断した私は、じっと店の外で彼が出て来るのを待つ事にした。
こじんまりとした店の中に入ってしまえば、どんなに鈍感な人であっても、私の存在を認識しない筈がない。
だが生憎、外で待つという方法は賢明ではないようだった。
窓から中を覗いてみても、小さく集合した人や棚やらが邪魔をして、上手く彼を捉える事が出来なかったのだ。
私は、またしても彼の行動を把握する事が出来なくなってしまった。
お金はどうしているのだろうか。
きちんと払っているのだろうか。
常連になるには、お金を払う事が大前提だ。
黒狐さんは、日本貨幣を持っているのだろうか。
考えていると、益々彼の事が分からなくなってきた。
一人でうんうん唸っていると、すぐに店から満足そうな顔をした黒狐さんが出て来た。
食事は無事に済んだらしい。
黒狐さんを追うように「有り難うございました」という声も聞こえてくる。
やはり彼は、自分で勘定を済ませたとしか思えない。
もしかしたら、木の葉を紙幣に化かして払っているのかもしれないが。
「人を騙して食事する」という嫌な予感を追い払い、私はまた彼の尾行を再開させる事にした。
考えてもきりがないからだ。
しかし、益々もって彼の不可思議な点は増えてしまった。
彼を知れば知る程、疑問符が大きくなっているような気さえする。
暫くすると、彼は人気の無い路地の方に入って行った。
この先には目ぼしい店らしいものは無い。
あるとすれば、やや寂しげな民家くらいだろうか。
最初は、ほんのちょっとしたイタズラ心で彼を付けてみようと思いついただけだった。
ミステリアスな彼を少しでも知りたかったのだ。
だが、追いかけた結果、疑問に思う事は更に大きくなってしまった。
彼は、人ならざる者として、理解不能なほどの広い行動範囲を持っている。
無口なくせに社交的だ。
蛇神様とは正反対だ。
蛇神様は、いつも社の中で生活している。
不思議と社の外の様子も知っているようだけれど、彼本人が外まで足を運んでいる様子は無い。
私以外の人間と関わっている風も無い。
それとは反して、黒狐さんは度々街中を徘徊しているようだった。
以前、偶然会ったのも、スーパーの中だった。
もしかしたら、私が今まで知らなかっただけで、彼は昔よりこうやって人間達の中に紛れ込んで生活していたのかもしれない。
だからこそ、ごく自然な素振りで今流行りの曲を琵琶で奏でたり、彪柄の合羽を着ていたりするのではないだろうか。
一人で考え、一人で納得していると、今度こそ完全に黒狐さんを見失ってしまった。
つい先程まで前を歩いていたというのに、ほんの数秒目を離した隙に消えてしまっている。
気配すらない。
私は思わず彼の名を呼んだ。
だが、やはり居なかった。
ただ静かな道の真ん中で、私だけが立っている。
人一人も歩いている様子が無い。
仕方なしに、私は元来た道を戻る事にした。
見失ってしまっては仕方ない。
これ以上の尾行は無理だ。
彼の生活のほんの一部を知る事が出来ただけでも良しとしよう。
蛇神様の社で居候をしている、謎の多い黒狐さん。
彼は、高級油揚げを売っている江藤スーパーに行っている。
流行の曲を覚える為かどうかは分からないが、CDショップにも足を運んでいる。
そして、うどん屋の常連でもある。
結局、ミステリアスな事に変わりはないけれど、少しでも彼をより知る事が出来て、以前より親しみが湧いた。
日頃何も喋らないから何を考えているのかは分からないけれど、その中身はとても愛嬌がある。
蛇神様や蛙さん達よりも、随分と人間らしい。
一度家に帰り、服を着替えてから蛇神様の居る社に行ってみると、黒狐さんはもう其処に帰っていた。
いつものように静かに欄干の上に腰掛け、手に持っている琵琶を掻き鳴らしている。
そのメロディーは、昨日の音楽チャートで三位になったばかりのアイドルユニットの曲だった。
「セツ、今日も来てくれたんだね」
私に気が付いた蛇神様がいち早く出迎えてくれた。
私は駆け寄って、柔く笑んだ。
「蛇神様に会いに来るのは日課ですから」
「しかし、少し遅かったようだけれど。
今日は塾とやらも休みだったろう?」
「休みな事は休みだったんですけど、ちょっと気になる人の後を付けていて。
それで遅くなってしまいました」
「気になる人?」
「はい、尾行をしちゃいました」
「そなたが私以外の者に興味を抱くだなんて、妬けてしまうね。
何処の罪な男かな?」
蛇神様が笑いながら応えてくれた。
口振りとは裏腹に、遅くなった訳を聞いても機嫌を損ねている様子はない。
もしかしたら、私が付けていた相手が黒狐さんだという事も知っているのかもしれない。
蛇神様ならあり得る。
「ほんのちょっとした興味だったんですけど、益々不思議に思う事が増えてしまいました」
「世の中には、不思議な事がある方が面白いからね」
「蛇神様でも不思議に思う事ってあるんですか?」
「私とて分からない事もあるよ、一つや二つはね」
「中で話を聞こう」と蛇神様に誘われて、舘内に入る事にした。
そのすぐ傍を、青蛙さんと黄蛙さんが転がりながら通り過ぎて行った。
追いかけっこでもしているのだろう。
舘の中では、また赤蛙さんが天井から吊るされていた。
背中に視線を感じ、ふと後ろを振り返る。
相変わらず欄干の上でメロディーを奏でている黒狐さん。
視線の主は、彼だった。
彼が私を見ていた。
ぶつかるように目が合う。
彼は、私が始終付けていた事を知っていたのだろうか。
そう考えが行き着いた途端、何だか急に申し訳ないやら恥ずかしいやらで、居た堪れなくなった。
慌てて軽く会釈をするが、うまく誤魔化す事も出来ない。
黙って後をつけるだなんて、やはり失礼だっただろうか。
相手が人ではないにせよ、彼にも人権がある。
知られたくないプライバシーだってあったかもしれない。
訳を説明して謝ろうと思って口を開こうとすれば、黒狐さんがはたと琵琶を鳴らす手を止めた。
そして、袂に手を突っ込み、ごそごそと中を漁り、何か小さな物を取り出した。
彼が出した物が何か確認する前に、彼はその得体の知れない物を私の方へと放り投げてきた。
私の手の中まで飛んで来たその物は、玩具の小さな虫眼鏡と付け髭が入った江藤スーパーの袋だった。
子供用とはいえ、付け髭はきちんとしたテープ式で、皮膚に直接貼り付けられるようになっている。
何故こんな物を渡されたのか分からなかった私は、首を傾げて応えた。
彼の様子から見るに、どうやらこれを私にくれるらしい。
しかし、こんな突飛なプレゼントを貰ったところで、どうすればいいのか分からない。
黒狐さんは、また何かを放り投げて来た。
今度は紙袋に入った、ずしりと重みのある四角いものだった。
中を開けてみる。
すると、キャスケットに髭、その片手に虫眼鏡を持った男の子の絵が描かれた本が姿を現した。
タイトルは『初めての探偵、入門編』。
小学生向けの本だ。
目次を捲ってみれば、探偵の心得や仕事内容、その簡単な説明などが書かれていた。
その中でも、何故だか「尾行の仕方」という所にだけ赤いアンダーラインが引かれている。
彼が事前にチェックを付けたのだろうか。
はっとして黒狐さんを見る。
彼は少し笑って、また機嫌よく琵琶を掻き鳴らし始めた。
END.
2009.09.03
引用:故事ことわざ辞典・学研
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