ラッカリュウスイノジョウ。
男女が慕い合う気持ちを言う言葉。
流れに散り落ちる花は水に浮かんで流れたいと思い、流れる水は散り落ちる花を浮かべて流れたいと思う心を持っているの意から。
落下流水の情
「バレンタインって知っていますか?」
そのように問い掛けたのは、つい一週間前の事。
「ばれんたいん?
それは新しい勉強科目かい?」
予想通り、現代のイベント事情に疎い日本古来の神、蛇神は、節子の問いに珍妙な返事をした。
勉強ばかりに精を出している節子の事だから、また新しい勉学でも始めたのかと思ったのだろう。
しかし、蛇神が知っていようがいなかろうが、二月十四日は来てしまった。
ご多分に漏れず、鞄の中に大中小三種のチョコレートを入れた節子は、今日も健気に蛇神の元へ足を運んでいる。
蛇神は日本特有のバレンタインイベントを知らなかったようだが、この日の日本の恋する女達は一斉に色めき立つ。
愛する誰かに想いを告げ、嬉しさに涙を流したり、悲しみに打ち落とされたり、新たな波乱を抱えたりと、多種多様だ。
女達による、女達の為の戦といっても過言ではない。
去年までの節子は、父親に一つ、女友達同士で友チョコなるものを幾つか交換する程度だった。
だが、今年は違う。
一応、本命と義理なるものをきちんと用意した。
それも、全て手作りだ。
昨晩は塾を早めに切り上げ、朝方近くまで頑張ったのである。
蛇神の住まう社に着いた節子は、階(きざはし)で掃き掃除をしている少年姿の茶蛙を見付けた。
同じく少年の姿をしている赤蛙は、雑巾を手にして欄干を拭いている。
下使いとしての奉仕活動を熱心にこなしているようだ。
二人に近付いた節子は、鞄の中に入れておいた包みを二つ取り出した。
その内、虹色のポップな包装紙に様々な色の蛙のシールを貼った、一番大きな包みの方を差し出す。
「あの、これを」
ずいと前に押し出せば、受け取った茶の少年は小首を傾げた。
包み自体は、旅行に行った際の手土産ほどもある大きさだ。
「何じゃ、これは」
「何じゃ」
「何じゃ」
赤の少年と、何処に居たのだろうか、緑の少年までも傍にやって来た。
各々不思議そうな顔をして、渡された包みを眺めている。
やはり、この社に住まう者達は、今日が何の日で、何を行うのかも知らないらしい。
節子は眉を下げて笑った。
「それは、トリュフ詰め合わせです。
皆で食べられる方がいいと思って」
「取り麩?」
また何処からともなく湧いてきた黄色の少年が、頓狂な声で聞いてきた。
蛙達はトリュフ自体も知らないらしい。
「チョコレートです」
「千代子と麗子?」
「誰じゃ、それは」
「誰じゃ」
青の少年もやって来た。
チョコレートという名すら聞き慣れない言葉だったのか、やんややんやと騒ぎ立て始めた。
しかし、貰える物は貰うつもりらしい。
節子に突き返す事はせず、蛙同士で互いに引っ張り合っている。
「お菓子です。
今日はバレンタインデーなので」
「ばれんたいんとは何ぞ」
「日頃の感謝の気持ちを表す日です」
何から何まで知らない蛙達にどう説明すればいいのか分からなくて、節子は曖昧に言った。
だが、蛙達はその言葉だけで十分だったようで、包みの中身が菓子だと聞いた瞬間、勢いよく包装紙を破ってしまった。
中には、色とりどりの沢山のトリュフが並んでいた。
アーモンドやナッツ、ホワイトチョコレートや抹茶など、全て節子の手作りだ。
菓子作りが特別得意といった訳ではなかっただが、見目はそれなりに上手く出来たと思う。
少年に扮した蛙達は、我先にとトリュフを口に放り込んだ。
そして、口の中に入れた菓子が溶けてしまう前に、もう次の物を掴もうとしている。
「おお、美味いの」
「美味いの、これは」
蛙の少年達は顔を綻ばせた。
節子の努力の成果は気に入って貰えたようで、数十個と用意したトリュフはどんどん姿を消していく。
仕舞いには、これだけでは足りないと思ったのか、節子が持っていたもう一つの包みにまで目を移してきた。
「そっちの手に持っとるのは何じゃ」
少年が指差したのは、真っ黒な包装紙で覆い、リボンと共に狐のシールを貼った小包だった。
黒狐宛てのものだ。
「これもチョコレートです」
正直に答えれば、少年達は目を輝かせた。
彼らにあげたトリュフは、もう一つも残っていない。
「わしらが食うてやる。
それも寄越せ」
「そうじゃ、寄越せ」
少年達は、節子が抱えている黒い包みに手を伸ばしてきた。
しかし、これは黒狐用に用意したものだ。
あげる訳にはいかない。
「これは駄目です」
「何でじゃ」
「これは、他の方のです。
蛙さん達は、それで我慢して下さい」
奪われそうになったチョコレートを高く掲げ、節子は後退りした。
少年達はやいやい言って賢明に腕を伸ばしてくる。
このままでは無理矢理取られかねない。
節子は逃げるようにその場を後にした。
少年達は、追い掛けてこそしなかったが、「ケチケチしおってからに」と文句を垂れていた。
折角贈り物をしたというのに、却って悪態を吐かれてしまった。
次からは、もっと食べきれない程の量を用意するべきだろう。
蛙の少年達から離れ、殿舎に入り、廊を歩いていると、すぐに琵琶の音が聞こえてきた。
音の鳴る方へ歩いて行けば、案の定そこに黒狐が居た。
常と変わらず無表情で、寡黙に音楽を奏でている。
今日の音楽は、調子の良いポップソングだった。
「あの、黒狐さん」
黒狐の傍まで行き、膝を付いて座る。
それから、蛙の少年達から死守した黒の包みを差し出した。
「これを貰って下さい」
黒狐は琵琶をかき鳴らすのを止め、節子が持っている包みに手を遣った。
そして、ちょっと考える振りをしてから、ゆっくりと頭を垂れてくれた。
彼なりに礼を言っているらしい。
もしかしたら、バレンタインという行事も知っているのだろうか。
そうだとしたら、話も早い。
「油揚げと迷ったんですけど、今日はこっちの方がいいかと思って」
おずおずと包みの中身の説明をする。
「チョコレートマフィンを作ってみたんですけど、食べられますか?」
顔色を伺うように聞けば、ジャカジャン、と琵琶で返事が返って来た。
黒狐はマフィンという食べ物も知っているらしい。
蛙達とは違い、現代の慣習にも通じているようだ。
黒狐はよく琵琶で現代風の曲を奏でる。
イベント事だけに限らず、彼は彼なりに流行に敏感なのだろう。
とりあえず喜んでくれているようなので、節子はほっとして立ち上がった。
黒狐は、もう一度頭を垂れて、今度は優しげなラブバラードを弾き始めた。
つい昨日報じられたヒットチャートで一位に選ばれたばかりの曲だ。
もしや黒狐は音楽のテレビ番組まで見ているのだろうか。
或いは、CDショップに足繁く通っているのかもしれない。
いずれにせよ、彼は人間外の生き物だが、人間以上に人間のあらゆる物に執着するきらいがあるらしい。
全くもって、この社に居る者達は一癖ある生き物ばかりである。
甘く切ないラブソングを聞きながら、節子は最後の目的人物を捜して社内を歩き回った。
ややもすれば、壁に凭れかかって一人風に当たっている美しい青年を見付ける事が出来た。
彼こそが節子の最後のチョコレートを渡す相手であり、本命の男でもある。
鞄の一番奥に眠っている包みをきゅっと握り締めた節子は、青年の近くへと駆け寄った。
「今日はまた随分と甘ったるい香りをさせているね」
節子の姿を目で捉えた青年こと蛇神は、優しげに目を細めた。
瑠璃色の髪が風に乗って、糸のように揺れている。
「蛇神様」
「その上、蛙や黒狐などに物を手渡していたようだ。
私には無いのかい」
意地悪げに口元を吊り上げ、蛇神は言う。
節子はぼっと頬を熱くさせた。
彼は何処かでずっと節子の事を見ていたらしい。
今更恥ずかしがる仲でもないくせに、彼に始終見られていたと思うだけで顔が赤くなる。
「あ、有ります」
かっかと頬を温めたまま、節子は鞄の中から最後の包みを取り出した。
真っ白の光沢ある包装紙に、金と銀の二重のリボン。
型こそ一番小さなものだが、実は一番力を入れている。
紛える事なく、これが本命だ。
「あの、これです」
相手の目を見る事が出来ず、下を向いたまま突き出した。
まるで告白をしているようなシチェーションだ。
蛇神が自分だけを特別扱いしてくれている事は知っているが、このような遣り取りはどうも恥ずかしい。
赤くなった顔は、耳まで熱を伝えていた。
その赤面ぶりがおかしかったのか、蛇神はくつくつと笑い始めた。
そして、節子が持っていた包みを受け取り、「すまないね」と礼も言った。
空になった手を引っ込め、節子は恐る恐る目を上に向けた。
蛇神は、まじまじと包みを眺めていた。
そうする事で中身を確認しているのかもしれない。
しかし、きっちりと包装しているので、一見しただけでは中が見える筈も無い。
勿論、彼は神故に、そのような類の透視も出来るのかもしれないが。
「これは、他の者に手渡した菓子と同じなのかい」
裏、表と外見を確認して、蛇神が問うてきた。
「いえ、ちょっと違います」
彼にトリュフやマフィンの違いを説明しても伝わるかどうか分からなかったので、簡潔に応えた。
それ以上に、一人一人に違う物を手渡した事をつぶさに申告するのも恥ずかしかった。
実は、全てのプレゼントに掛かった時間や手間暇は、各々微妙に異なるのだ。
トリュフは正味一時間、マフィンは二時間、そしてこの蛇神に手渡している物は、五時間半も掛かってしまった大作である。
どうしても蛇神に渡すものだけは特別にしたかったので、凝りに凝った結果、何度も作り直してしまった。
包装している紙やリボンとて、一番お金が掛かっている。
未だ色恋に照れがある節子は、その旨を正直に言う事も出来ない。
「お口に合うかどうか」
一応、父と母に味見をして貰い、一番の出来を持って来た。
不味くはない筈である。
だが、蛇神の嗜好に合うかどうかは別の話だ。
蛇神は一度節子に優しく微笑んでから、丁寧に包装紙を開けてくれた。
中から現れたのは、透明のケースに入れられた、数個の生チョコレートだった。
綺麗に見えるよう、金粉も振り撒いてある。
デパートで売っている高級チョコレートには劣るが、それなりには見える筈だ。
「これは?」
ケースを開け、中に並んでいたチョコレートを一つだけ摘んだ蛇神は、不思議そうに眉を持ち上げた。
やはり蛙同様、チョコレート自体を知らないらしい。
「生チョコレートというお菓子です。
ちょっとだけ洋酒を入れてみたんですけど」
上品な味になるよう、やや値の張るブランデーを入れてみた。
蛇神はよく日本酒を飲んでいる。
彼が洋酒を飲むかどうかは知らないが、お酒好きであれば恐らく気に入ってくれるだろうと思った。
数秒思案してから、蛇神はそのチョコレートを口に放り込んだ。
そのまま黙る事、数秒。
口内でしっかり味わってから、彼はまた次の欠片へと手を伸ばした。
チョコレートの感想は言わないままだ。
「どうですか」
不安になった節子は、緊張しながら問うた。
やはり彼の好みではなかったのだろうか。
不安が脳内を過ぎる。
聞かれた本人は肯定も否定もせず、ただにこりと笑った。
そして、傍においでと節子に手招きした。
靄がかった懸念を抱いたまま、節子は言われるまま傍に寄った。
彼は、空いた方の手で節子の腰を抱いてきた。
その体勢のまま、目元に口付けられた。
冷たい彼の唇から、甘ったるいチョコレートと淡いアルコールの香りがした。
「あの」
結局、美味しかったのだろうか。
不味かったのだろうか。
蛇神は優しく笑うだけで、味の是非を言わない。
そもそもこの青年は、節子にめっきり弱い。
仮に不味かったとしても、それを正直に言わない可能性も非常に高い。
「セツも食べてご覧」
蛇神は、持っているチョコレートを節子の顔の近くまで持って来た。
だが、節子は未成年だ。
ブランデー入りも好まない。
「私、お酒入りはちょっと」
「ああ。
酒は飲めないのかい?」
「はい」と返事をすれば、蛇神はケースを持っていた手を変え、また一つ新しい欠片を口の中に放り込んだ。
残るは後二つとなった。
美味いかどうかは分からぬままだが、数だけは順調に減っている。
蛇神は、舌の上で二・三度チョコレートを転がし、節子の顎を捕らえてきた。
「では、これでいいかな」
それだけ言ったかと思った瞬間、口付けられた。
抗う暇も、勿論なかった。
軽く唇を啄ばまれた。
そして、舌先で下唇を舐め上げられた。
どきりとして、つい口を開ける。
それを機に、更に深く唇が繋がる。
開いた口から、蛇神が食していたチョコレートが入って来た。
不思議な事に、お酒の味は一切しなかった。
彼お得意の神らしい術の一つだろうか。
甘く蕩けるチョコレートの味だけが口内一杯に拡がる。
それを追い、彼の舌まで絡み付いてきた。
歯列一つ一つを数えるように舐め上げられ、唾液も掬い取られる。
気が付いた頃には、節子も蛇神の胸元を掴み、その口付けを受け入れていた。
酸素が足りないと思う程に、熱く激しく唇を奪われた。
余りに長く濃厚だったので、足に力が入らなくなってしまった。
蛇神が腰を支えてくれていなければ、疾うに腰砕けになっていただろう。
頭もぼうっとしてくらくらする。
最後にまた数回啄ばまれてから、互いの唇が離れた。
今までとはまた違った趣向の口付けだった。
目が合った蛇神が、不敵に笑う。
「酒の味はなくなっていただろう?」
ブランデーの味が消えていたのは、やはり彼の仕業だったらしい。
節子の舌の上には、純粋に甘いチョコレートの味しか無かった。
「はい」
神妙に頷けば、蛇神が耳の端を食んだ。
「わざわざ私の為に、有り難う」
礼と共に柔く甘噛みされれば、胸が跳ねる。
「とても美味しかったよ。
毎日の摘みとして頂きたいくらいだ」
そのまま続けて耳元で囁かれ、息を吹き掛けられた。
ただチョコレートを渡すだけだったというのに、もう完全に彼のお決まりのペースだ。
蛇神はよく節子の身体を触る。
共に居れば、一秒でも勿体無いと言わんばかりに絡んでくる。
このままでは、今宵もなし崩しに組み敷かれてしまう。
それを裏付けるように、彼はまた意地悪な台詞を吐いた。
「しかし、私としてはセツの女体盛りで食したいところだね」
日本神らしい、セクシャルハラスメントな発言だ。
全裸になり、溶けたチョコレートを蛇神に舐め取られる姿を想像してしまった節子は、勢いよく首を横に振る。
「だっ、駄目です、駄目です!」
その反応すらも面白かったのか、蛇神はまたくすくすと声を上げて笑った。
そして、小さな節子の身体をひょいと抱き上げてしまった。
向かう先は、蛇神が日頃生活する私室だ。
「まあ、『ちよこれいと』とやらで楽しむ方法は、幾重もある」
彼が益々含みのある事を言うものだから、節子の全身は羞恥で真っ赤になってしまった。
蛇神は、神であるくせに異常に濫りがわしいところがある。
涼やかな顔をして、平気で節子の服を引ん剥いてしまう。
これから為されるだろう事を想像するも、抱き抱えられた節子に逃げ場は無い。
元より、今から約十年前、この神に見初められた時から節子に選択肢は無かったのかもしれない。
蛇の神が住まう豪奢な社の一室で、仲睦まじい男女の声が響き渡る。
それはきっと、今日も明日も明後日も明々後日も、行く先永久に続いていくのだろう。
END.
2009.02.15
引用:故事ことわざ辞典・学研
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