アオイトリ。

身近にありながら気付かない幸福や、幸福をもたらすもののたとえ。

青い鳥

「明日は七夕なのに、雨ですね」

欄干に腰掛け、節子は空を仰いで呟いた。
手には、先程蛙達が持って来てくれた和菓子がある。
蛇神も隣に座っている。

雨を懸念するような事を言ったものの、蛇神の社は今日も快晴だった。
天気が変わった事など、嘗て一度もない。
夜空が拡がった事もない。

しかし、節子が日頃生活している現世では雨が降り続いている。
それも、ここ数日ずっとだ。

蛇神は、和菓子に手を付ける素振りなど見せずに、節子の言に返してくれた。

「では、洗車雨(せんしゃう)かな」
「え?
何ですか、それ」
「七夕の前日に降る雨の事だよ。
彦星が、織姫に会う際に乗る牛車を洗っているらしい」
「へえ、ロマンチックですね」

節子は博識な蛇神に頬を染めて応えた。

長く生きているせいか、或いは神故か、蛇神は昔の習わしや行事にとても聡い。
クリスマスやらバレンタインといった外来イベントには疎いが、日本古来のものであれば全て知っている。
それどころか、節子が聞いた事もないものまで知悉している。
今日も、七夕の前日に降る雨の名前を教わってしまった。

蛙が用意してくれたものは、生菓子の蒸し饅頭だった。
短冊や星の形をしている。
蛙達もこの時期のイベントを意識しているのかもしれない。

口に頬張れば、餡の程好い甘さが拡がった。
美味い。
何処かの店で買って来たのか、蛙達の手作りかは分からないが、とても美味だ。

蛙達も、今頃は五匹で取り合っているだろうか。
黒狐も食しているかもしれない。

七夕の夜は、織姫と彦星の為にある。
少なくとも、節子はそう思っている。
子供時分に聞いた七夕の説話もよく覚えている。

雨が降ってしまっては、夫婦である二人は逢瀬出来ない筈だ。
それなのに、ここ最近の天候は悪くなるばかりだ。
梅雨のせいもあるのかもしれないが、愛し合っている空の恋仲同士には酷な天気だろう。

「明日も天気予報では雨でした」

節子が溜息と共に言う。
見ず知らずの恋仲同士の心配をする日といえば、一年の内でこのシーズンくらいなものだろう。

蛇神が扇で空を指した。

「七夕に降る雨は、催涙雨(さいるいう)というんだ」
「逢瀬が叶わなかった二人が泣いて流す涙が雨になるんですか?」
「さすが勤勉なセツだ、察しがいいね」

にこりと笑む蛇神に、思わず胸が高鳴る。
こうやって懇意に会うようになって暫く経つというのに、未だこの愛しい相手にときめいてしまうのは何故だろう。

節子は顔を俯かせた。

「二人は可哀想ですね。
一年に一度しか会えなくて」
「その分、色々と苦労も耐えないようだ」
「会った事あるんですか、蛇神様」
「彦星の方にね。
一度、浮気の疑惑を掛けられて大変だったそうだ。
年に一度の逢瀬では、互いに疑う感情を抱いても仕方ないのかもしれないけれど」

苦笑いを浮かべて、蛇神が言う。

彼は、さすが神ともいえよう。
まさか説話となっている星の主にまで会った事があるとは、思いもしなかった。
彦星や織姫も、神の一種なのだろうか。
そういえば、織姫の父は天帝という権威ある神だと聞いた事がある。

空をもう一度仰ぎ見る。
快晴の空では、星一つも見る事が出来ない。
あるのは青く拡がる壁と眩い太陽の日だけだ。

彦星の話を終わらせ、蛇神がぐいと肩を抱いてきた。

「その点、私達は問題ないね」
「え?」

縮まる距離に、また鼓動が騒ぐ。
彼の桜の香が強くなる。

「私達は会いたい時に会えるだろう。
そなたが会いに来てくれる限りはね」

こめかみに口付けられた。
可愛らしいリップノイズの音がすぐ耳元で聞こえた。

恥ずかしさを噛み殺して恐る恐る顔を上げると、蛇神が目を細めた。
その途端、彼の背後にある太陽がすとんと地に落ちてしまった。
空も一気に陰り始める。
気が付いた頃には、天は瞬く間に満点の星を飾った夜空となっていた。

「明日は星合い。
私の織姫は、今宵も一晩中付き合ってくれるのかな?」

更に蛇神にきつく抱き止められたので、節子は身を任せてみた。
こうすれば、ふんわりと温かい気持ちになれる。

蛇神の言う通り、今日はこの社に泊まるのもいいかもしれない。
天を見上げて、空に居る筈の夫婦に想いを馳せて過ごすのも、また一興だろう。

数多の星は、各々煌々と輝いていた。
雲一つ無い。
織姫や彦星、天の川はどれだろうか。
二人は今頃、明日の天気を懸念しているに違いない。

そう思い目を閉じると、蛇神の手が不穏な動きを見せた。
ただ抱くだけだった腕が、するすると胸の方へと伸びている。

「蛇神様、何処触っているんですか」
「愛しい娘の乳房だよ」

はっとしてその腕を止めるも、神の力に人間が叶う筈もない。
蛇神は節子の胸部へ手を遣り、やわやわと揉みしだき始めた。
ほんのそれだけで、節子の身体は熱くなる。
首筋がぞくりと粟立つ。

「さて、そなたにはまた違った涙でも流して貰おうかな」

今度は耳朶を軽く食まれた。
息を吹き掛けられれば、つい先程まで話していた星達の事もとんと脳内から消えてしまった。
ただ感じるのは、蛇神の存在だけだ。
それ以外の事など、何も考えられない。

織姫と彦星は、年に一度しか逢瀬出来ない。
その上、雨が降っても会えないという。
お陰で、何年も会わず仕舞いだという時も少なくないだろう。
互いが何処に居るのか分かっているのに会えないだなんて、なんて悲しいのだろう。

節子も蛇神の傍を一度離れてしまった事がある。
会いたくても会えなくなってしまった。
たった数日離れただけでも辛かった。
この世の終わりだと思う程に憔悴してしまった。

世の中には、容易に会えない恋仲の者達も居る。
織姫と彦星のように、遠距離で愛し合っている者も少なくない筈だ。

だが、今の己は好きな時に蛇神に会える。
常に傍に居る事も出来る。

節子は、これから先もっと、その恋仲の者達の分も、一回一回の逢瀬の時間を大事にしようと思った。
こうやって蛇神の身体の温もりを直に感じられるだなんて、なんて己は幸せ者なのだろう。
織姫と彦星にも申し訳ないくらいだ。

蛇神の手管に身を預ける。
全てを彼に任せ、目を閉じる。

空には、嫉妬した星達が瞬いていた。





END.

2009.07.09
引用:故事ことわざ辞典・学研


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