メイハテンニアリ。

人間の運命はすべて天の定めるところで、人間の力ではどうすることもできないということ。
「運は天にあり」とも言う。

かむ
040/命は天に在り

蛇神と節子の一部始終を、欄干の上で黙って見ている者が居た。
緑蛙だった。

緑蛙は、ここ暫くずっと不思議に思っている事があった。
蛇神とは長い付き合いだが、どうも納得出来ない事があるのだ。
その件を、今日こそ蛇神に聞いてみようと思っていた。

節子が完全に見えなくなった。
それを確認してから、緑蛙は欄干から飛び降り、蛇神の傍へと寄って行った。

「蛇神様、蛇神様」

名前を呼べば、蛇神は節子を見送っていた身体を向けてくれた。

「何だ、緑蛙」
「いいんですか、後十年もだなんて。
この十年も、随分と首を長くして待っていたんでしょうに」

蛙姿のままなので、大きな身長差がある。
目線を力一杯上げるのが億劫だったので、緑蛙は近くの手摺に攀じ登った。

蛇神が、つと笑う。

「今更だ。
私の時は長い。
たかが後十年、懸念する程でもない。
況してや今回は、セツに会えない訳でもない」

それがどうしたとでも言わんばかりに蛇神は言いのけた。

緑蛙は、確かにそうだ、と思った。
神は悠久の時を過ごす。
今までだって、何十年何百年と生きて来た。
後十年程の時も、然程苦ではないのだろう。

だが、緑蛙が真の問題としている所は、そこではなかった。

「それですがのう」

ここまできて、言っていいものやら悪いものやら不安になり、まごまごと口を動かした。
それがじれったいのか、蛇神は扇で軽く扇ぎながら片眉を吊り上げた。

「何だ、先程から言葉を濁してばかり」
「いやあ、ただ、いつまであの娘っ子に嘘を吐いたままでおられるのかと思って」
「嘘だと?
人聞きの悪い」
「それが、あの娘っ子、もう十六から年を食う事が出来ませんでしょうに」

そう返せば、蛇神はぴたりと口を噤んだ。

実は、緑蛙は知っているのだ。
蛇神が節子に内緒でしてきた、数え切れない数々の事を。

勿論、緑蛙だけではない。
他の蛙共とも、常に互いの情報を交換している。
時に黒狐に教えてやる事もあった。

事の真相を知らないのは、今、幸せそうな顔をして学校に向かっている節子だけなのである。

「蛇神様は、初めてあの娘っ子に会った時からずっと、その呪いを掛けとりましょう。
人間の女が婚姻を結ぶ事が出来る程になったら、その身体が一生年を取らんようにと」

蛇神が初めて節子に会ったのは、今から十年前の事。

未だ六歳だった節子は、蛇神に懇意に接した。
その優しさに胸を打たれた蛇神は、節子を嫁に貰うと決めた。
そこで、誰にも取られる事が無いようにと、さっさと唾を付けておいたのだ。

その当時の人間の女が婚姻を結ぶ事が出来るのは十六になってからだと、蛇神は知っていた。
だから、その年になるまでは待とうと決めたらしい。
その代わり、その約束の年になったら、二度と年を取る事が無いようにと、強い呪いを掛けておいた。

そうすれば、いつまでも変わらない節子を皆は不審がるようになるだろうし、節子自身も自分の不可思議な身体を心配するだろう。
周りの者は日々成長しているのに、自分だけが変わらない。
身長も、体重も、何一つ変わらない。
そこに何食わぬ顔で「神」という位を持った蛇神が現れれば、自分の身体の異変に気付き出した節子は、難なく手に入るだろうと。
蛇神は、そう考えていたのだ。

一度節子から離れた蛇神は、不老長寿の呪いを解くと言ったが、実はそれも行っていない。
節子は年を取らない身体のままだった。

「後十年もしたら、あの娘っ子は二十六。
それなのに容姿だけが十六のままだなんて、おかしゅうねえですか。
髪すらも伸びなくなるというのに、周りとの均衡も取れなくなるでしょうに」

緑蛙は恐れ多くもつらつらと述べた。

蛇神は、後十年という期間を節子に与えた。
だが、その十年もの間、節子は年を取る事が出来ないのだ。

年を取らなければ、いつかは周りに気味悪がられ、身の置き所がなくなってしまう。
そうすれば、たとえ十年も待たなくても、節子の方から社に住まう事を願い出すかもしれない。

「随分と細かい事を気にするんだな」

それまで黙って聞いていた蛇神が、僅かに鼻で笑った。

「いいや、蛇神様はまだ肝心な事をお隠しになっとる」

勢いに任せて、緑蛙も続ける。

「蛇神様は、ご自分があの娘っ子を縛る事を懸念されるように仰っとったが、本当はとうに束縛する言霊を遣われていたでしょう。
あの娘っ子にはいいように言いくるめておられましたが、実は最初から拒否させる気など無かったんじゃねえですか?」

蛇神は、敢えて節子に睦言を告げなかった。
それは、言霊によって節子を縛らない為だ。
そう節子には言い聞かせてある。

しかし、蛇神は節子を縛る言霊を密かに遣っていた。
節子がそれに気付いていなかっただけだ。

蛇神は頻繁に節子の事を「私の巫」だと言っていたが、それ以外にも「私のもの」だと宣言していた。
「巫」というのは結局嘘だったのだから、そこに言霊は宿らないにしても、「私のもの」発言は十分に有効な言葉だ。
ただ、「好き」だの「愛している」だの安っぽい言葉を遣わなかっただけで、本当は完全に縛っていたのである。

蛇神は節子の意志を第一に考えたように言っていた。
だが、それもただの建前だったのだ。

神が一人の人間を愛し、言霊で縛ってしまえば、その人間は他の男のものにはなれなくなる。
たとえどんな出会いがあっても、最終的には破局してしまうのである。
最近、節子に近寄ってきた影山という男も、いずれは離れてしまう運命だったのだ。

まさかここまで蛙達が調査済みだと知らなかったらしい蛇神は、感心したような、或いは呆れたような溜息を吐いた。

「よくもまあ、そこまで勘付いたものだな」

蛙達とて、伊達に蛇神に長く仕えていない。
長く一緒に居れば、それなりに人となりや癖も分かってくる。

蛇神は確かに寛容な性格をしているが、それ以上にずる賢く、粘着質なところもある。
蛇の本質を忘れてはいけない。
蛇というものは、隠れて獲物の傍に近付き、逃げられない距離に入ってから、ぱくりと丸呑みしてしまうのだ。
獲物の方は、気が付いた頃には腹の中という事になる。

蛇神とて、元は蛇だ。
その元来の性格は、蛇そのものだ。

そこまで話し終わった時、社の天井から茶蛙が落ちて来た。
丁度良い所に緑蛙が居たようで、茶蛙は見事に緑蛙の頭の上に着地した。

潰された緑蛙の方は、「ぐえ」と不細工な呻きを漏らしたきり、喋らなくなった。
代わりに茶蛙が口を開いた。
今までの会話を隠れて聞いていたらしい。

「蛇神様、わしからも一つ聞きたい事が」

蛇神は返事をするのも面倒なようで、目だけで続きを促した。
茶蛙は、気絶してしまった緑蛙の尻をぺちぺち叩きながら進言した。

「あの娘っ子の破瓜の事ですがのう」

また蛇神の眉がぴくりと動く。
端整な表情が、少しずつ崩れていく。

「あの娘っ子は、自身の破瓜があの低俗な輩達に奪われたと思っとるようじゃが、本当は蛇神様が済ませておったんでしょう?
じゃから、快を拾う事が出来んかった。
一度でも神に寵愛された者は、他で満足など出来る訳が無いと言いますしの」

だから、不老長寿どころか、快楽のツボを戻す呪いを一時解いたというのも、嘘だった。

神に抱かれた女は、もう二度とその神以外の者から快楽を与えられる事が出来ないのだ。
神との間に深い絆が出来てしまうせいだ。

そう言ってみせれば、蛇神の眉間に強い皺が出来た。

「出雲での件、赤蛙と黄蛙が見ていたと言っとりましたが。
あの娘っ子が気を失ってから、さっさと陰門で情けを交わしてしもうたと」

出雲で二人部屋に篭った節子と蛇神は、懇ろな時間を過ごした。
それは出雲に居た誰しもが知っている。

だが、節子は自身の後口しか用いられていないと思っている。
それがそもそもの勘違いだったのだ。
節子が余りの快楽に耐え切れなくなり、気を失ってしまったその後こそ、本当の情交があったのだ。

頑なに目を閉じた節子に、蛇神はしめたと言わんばかりに全てを奪ってしまった。
少々卑怯だという後ろめたさもあったのかもしれないが、他の者に取られないようにする為には仕方ないと踏み切った。

そうすれば、節子の身体は完全に蛇神のものになる。
後は正式に妻として迎えるだけだ。
蛇神は、そこまで手を回しておいたのだ。

純真無垢な節子が、そんな事に気が付く筈もない。
己の下肢から伝う生臭い汁は、自分が出したものなのだとばかり思っていた。

その量は尋常ではなかった。
まるでゼリーが零れ落ちたような固体も溢れていた。
蛇神が節子の膣内に吐き出した精と、節子自身の汁が交じり合ったものだ。
節子一人の膣分泌液だけで、そんなに驚く程の量を出せる筈がない。
況してや、どろりと白がかったものなど、もってのほかだ。

性に疎い節子は、それに気が付かなかった。
ただ自分が悦び過ぎてしまったのかと、その程度にしか考えが到らなかった。
夜だったせいで、僅かに出ていた血液も見えていなかったのだろう。

しかし、その一部始終を、赤蛙と黄蛙はこっそりと見ていた。
そのお陰で、泥の中にまで突っ込んでしまったらしい。

結局、節子は蛇神の手中で転がされていただけなのだ。
年を取らない身体で、現世に居座る事は不可能だ。
新しい恋人が出来、身体を繋げたとしても、快楽を得る事が出来ない。

つまり、自らここまで来ようが来なかろうが、節子には最初から蛇神以外の男を選ぶ道はなかったのである。

「壁に耳有り、障子に目有り、といったところか」

一本取られたなと、蛇神は何度目か分からない嘆息をした。

「まあ、いい。
その事、セツには言わないように」
「何でですかの?
女の初めてが蛇神様だと知ったら、あの娘っ子も余計に傷付かずに済んだでしょうに」

茶蛙は首を傾げた。

節子は、自分の処女を祟り霊に無理矢理奪われたと思っている。
しかし、本当はそれより一足先に蛇神が食らっていたのだと知ったら、その心の傷も癒えるのではないだろうか。
茶蛙はそう思っている。
他の蛙達とて、そう考えている。

扇いでいた扇を仕舞い、蛇神は言った。

「辛い体験をしたからこそ、セツは立ち上がろうと思えた筈だ。
それをむざむざ無駄にせずとも良い」

確かに、節子は件の強姦での傷をすでに克服している。
通常の人間の女では、考えられない精神力だ。

尤も、その件を乗り越えられたのも、全ての傷を凌ぐ壮絶な記憶を見てしまった故だろう。
節子は、短い時間の間に死の恐怖と人間の裏切りを何度も見せられてしまった。
それに比べれば、陵辱などまだ軽かったのかもしれない。

「況してや、眠っていた所で契りを交わしたと知れば、流石にセツも怒るだろう。
これ以上、機嫌を損ねたくない」

ほんの少しの本音を交えて、蛇神は「セツの怒り顔も嫌いではないが」と付け足した。

茶蛙は、そこでやっと「成る程」と得心した。
折角、蛇神と節子は丸く片付いたのである。
たとえそれが全て蛇神の計算の中で動いていただけだとしても、事は円満に済んだのだ。
そこを掻き回せば、また修復するにも一手間だ。
それならば、ここで黙っておいた方が懸命なのかもしれない。

それきり、蛇神は殿社の中へと引っ込んでしまった。
節子の学校が終わるまで、一眠りでもするのかもしれない。

茶蛙は、また緑蛙の尻を叩いた。
余りに目を覚まさないので、今度は思い切り引っ叩いてやった。

「何じゃ、痛いのう」

力の限り叩けば、やっと緑蛙が目を覚ました。

「いつまでも寝とる場合か」

茶蛙は、早速先の蛇神と交わした会話の内容を教えてやった。
こうやって蛙達は互いの情報を交換しているのだ。
蛙達は、噂話が好きな野次馬性分なきらいがある。
時にそれが蛇神の怒りを買う羽目になるのだが、それには全く懲りていない。

「蛇神様は、策士じゃのう。
結局はご自分のいいように転がしただけじゃて」

茶蛙から一部始終を聞いた緑蛙が、感じ入った声を出した。

「嘘吐きとも言うが」
「あの娘っ子から蛇神様の記憶を取る事も出来たのに、敢えてそれをせんかったのも、此処まで追って来て欲しかったからじゃろうか」
「そうじゃろうなあ。
こちらから無理矢理手篭めにするより、自ら飛び込んで来るように仕向けた方が、後々楽じゃからのう」
「という事は、一度あの娘っ子の前から姿を消して、会おうとせんかったのも、全て演技という事か」
「そういう事になるかのう」

演技派の蛇神に、蛙達は心底感心した。

蛇神は、尊い神だ。
蛇神に掛かれば、節子から蛇神達の記憶を消去するのも、容易な事だ。
彼が敢えてそれをしなかったのも、節子に自分への果てない恋愛感情を植え付ける為だった。
求めて、欲して、自ら此処まで来るように持って行ったに違いない。

策を講じるのが上手い蛇神は、幾重もの罠で柏木節子という娘を手に入れた。
節子自らが蛇神を欲しているように仕向けさせた。

そうすれば、無理矢理囲ってしまうより効果があると思ったのだろう。
出雲で、竜田姫が巫の話をしていた時に邪魔をしたのも、そういった訳だった。
余計な事を喋られては、自分の嘘と計画が露見してしまうかもしれないと危惧したのだ。

籠の中の鳥には二通りある。
逃げられないように、雁字搦めで閉じ込められている者。
或いは、自ら籠の中に入り込んだ者。

蛇神は、節子をその後者の鳥に作り上げた。
紆余曲折あったが、全ては蛇神の思惑通り、順調に進んだ。
ただ、例の化け物達が現れ、節子に害を為した事だけは、少々計算外だったようだが。

今となっては、それら全てが良い方向に向いている。
蛇神と節子は互いに想い合っている。
たとえそこに行き着くまでに、蛇神がほとんど裏で手を引いていただけだったとしても、二人が幸せならそれに越した事はないのである。
「終わりよければ全て良し」とは、正にこれだと蛙達は考えている。

水中を気持ち良さそうに泳いでいた赤蛙が、緑蛙達の傍までやって来た。
調子に乗ってやや泳ぎ疲れたようで、後ろ足の片方が不自然に引き攣っている。

「それはそうと、あの娘っ子の花嫁衣裳をどうするぞ」

三匹になった蛙達は、恒例の井戸端会議を始めた。

蛇神が居ないところで、蛙達はよく談笑している。
そのネタは専ら蛇神の事が多いのだが、これから先は節子の話も加わりそうだ。

「まだ当分期間はある。
長ければ、後十年はある。
ゆっくり仕立てればええじゃろうに」
「じゃが、蛇神様は竜宮城の姫が愛用しとる金の蚕を使って織れと言っとったが。
そんなもの、十年で間に合うかどうか」
「何、そんな事を言っとったんか」

驚きの余り、緑蛙が引っ繰り返った。
緑蛙の上に乗っていた茶蛙も道連れだ。

起き上がった緑蛙が、いい案を思い付いたと言わんばかりに声を上げた。

「おお、そうじゃ。
いっそ蛙の卵で作るかの」
「お前さん、卵なんか産めるんか?」
「阿呆言うな、わしは産めん」
「わしこそ産めん」
「わしこそ産めるか」

蛙同士で言い合っていると、反り橋の上で黒狐が琵琶を奏で始めた。
最近覚えたらしい、異国の派手な曲だ。

蛙達は、そのメロディーに合わせてぴょんこぴょんこと跳ねた。

「忙しゅうなる」
「ほんまに、忙しゅうなる」
「花妻を迎えるのは、一仕事じゃて」
「花妻か。
仮初の巫も、もうこれで終わりなんじゃな」
「そうじゃ。
次は、嘘偽り無い嫁取りじゃて」





END.

2009.05.31
引用:故事ことわざ辞典・学研


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