ユウオウマイシン。
目的のために、少しもためらわずまっしぐらに進むこと。
「勇往」も「邁進」も勇みたってひたすら進むこと。
かむなぎ
039/勇往邁進
優しいまどろみの中、節子はとろとろと目蓋を開けた。
一番に目に入ったのは、蛇神の瑠璃色の髪だった。
それから、彼の白い肌が映った。
上半身の着物が肌蹴ている。
艶かしい鎖骨が露になっている。
節子はその身体に擦り寄った。
ぴたりとくっ付けば、背を抱かれた。
夢では無い。
この目の前に居る蛇神は、本物の蛇神だ。
目を開けても居なくならない。
また、此処に帰って来る事が出来たのだ。
直接触れ合った肌は、互いに程好く乾いていた。
眠る直前まで、しっとりと汗ばむほど抱き合っていたというのに、寝ている間に乾いてしまったのだろうか。
御簾の端から、穏やかな日差しが差し込んでいる。
この社には時間の流れが無い。
そのせいで、今が朝なのか夜なのか、節子にはさっぱり分からなかった。
元より、そんなものを気にする必要もなくなってしまったのだ。
最早、節子はここの住人になったのだと思っていた。
学校に行く事もない。
家に帰る事もない。
年を取る事も、死ぬ事もなく、永久に蛇神と一緒だ。
無事に再会し、共に一眠りした今でも、その選択をした自分に後悔などない。
「セツ、そろそろ起きようか」
蛇神が節子の髪を一房掴み、耳に掛けてくれた。
「学校に行かなければならないだろう。
遅れてもいけない」
そして、節子が捨てた筈の現代生活の一端を口にした。
思いも寄らない言葉だった。
驚きの余り、節子は勢い良く裸の半身を起こした。
寝起きの頭も無理矢理覚醒させる程の、随分と衝撃的な台詞ではないか。
「え、学校ですか?」
「そうだ。
そなたはそなたの道をきちんと歩むんだ。
私は後十年待つ事にしたよ」
そう言い、蛇神も身体を起こした。
乱れた着物を手早く直し、あっという間に常通りの折り目正しい格好になる。
節子は、蛇神の言っている事が全く理解できなかった。
折角ここまで来たというのに、再び追い返されるというのだろうか。
そんな冗談は止めて欲しい。
節子は、身一つの思いで此処まで来たつもりだった。
家族も、友人も、何もかもを捨てた。
蛇神と一緒に居る為にだ。
それなのに、蛇神はまた突き放すような事を言う。
「後十年待つ」だなんて、彼はどういう考えを持っているのだろう。
一眠りする前、ついに最後まで蛇神と身体を繋げたばかりだった。
互いの想いが纏綿と絡み合い、自然な成り行きだった。
時間を掛けて受け入れるつもりが、ついそこまで行き着いてしまった。
痛みや恐怖は無かった。
それどころか、至高の悦びを得た。
これで本当の意味で蛇神のものになれたのだとも思った。
以前見て恐怖した彼の姿も、全く異端だと感じなかった。
それどころか、どんな姿も彼そのものなのだと思うと、愛しささえ込み上げて来た。
しかし、蛇神自身はもう節子など用済みだと言うのだろうか。
どうして此処まで来て突き放されなければならないのだろうか。
十年も蛇神と離れたままだなんて、到底考えられなかった。
もう彼は節子の中で必須の人物となっているのだ。
ずっと傍に居たい。
どんなにきつく抱き合っていても、足りない程だ。
節子は布団代わりにしていた蛇神の着物を手繰り寄せ、身体に巻き付けた。
今は、彼が焚き染めている香の匂いすらも憎い。
「私、十年も蛇神様に会えなくなるって事ですか?
出て行けって事ですか?」
節子は語調を強めて問うた。
「私はそんなの嫌です。
絶対に絶対に嫌です」
「セツ、そうじゃないんだ」
蛇神が常の扇をぱちんと開いた。
「そなたが私を求める限り、社への道は開けておくつもりだ。
何度でも行き来が出来る。
ただし、それも十年までだ」
「何で十年なんですか?
十年経ったら、会えなくなるっていうんですか?」
「セツ、いいから聞いて。
私は十年経ったら、そなたを正式な妻として貰い受ける。
そうしたら、二度と現世には戻れない。
だから、それまでは好きに生きて欲しいんだよ」
開いた扇ではたはたと扇ぎ、淡々と説明する蛇神。
節子はぽかんと口を開けた。
彼のころころ変わる言が、上手く頭で回らない。
とりあえず、これで会うのが最後だという訳ではないのかもしれない。
しかし、何故今になって、また「十年」という期限を設けるのだろう。
その疑問を解消すべく、蛇神は更に続けた。
「そなたの夢は、良い大学に入り、良い仕事に就く事だろう。
その後、良き夫に嫁ぐとも言っていた。
その夢を叶えようと言っているんだ」
「どういう意味ですか?」
「言葉のままだ。
そなたの当初の目的を果たすには、およそ十年は必要だろう。
その十年が経ってから、そなたを完全に迎え入れる。
それまでは、花嫁修業とやらでもしていなさい」
「勿論、此処にも通いながらね」と、蛇神が立ち上がった。
それを合図に、節子が巻き付けていた着物も消えた。
その次の瞬間には、裸だった身がいつもの制服を纏っていた。
乱れていたシーツ代わりの着物も、きちんと畳まれていた。
それを待っていたかのように、向こうから蛙達がぴょこぴょこ弾んで入って来た。
節子が呆けていると、蛇神は御簾を持ち上げ、今日の空の様子を伺い始めた。
そんなものを見ずとも、ここは常に晴れている筈だ。
だが彼は、良い天気だとでも言わんばかりに天を眺めている。
節子はのろのろと立ち上がり、蛇神の傍まで歩み寄った。
隣に並べば、彼は口元を和らげて笑ってくれた。
優しい笑みだ。
日差しを浴び、とてもろう長けている。
蛇神が言ってくれた言葉を、今一度脳内で反芻してみた。
彼は、節子の人間としての生活全てを奪わないようにしてくれたのだろうか。
節子は、蛇神を追ってきた時点で、現世での未練など捨てたつもりだった。
しかし、彼はそれを諦めずに、きちんと謳歌すればいいと言っている。
後、十年。
その十年の間に、しっかりと思い出を作ってから、蛇神へと嫁ぐ。
そう考えればいいのだろうか。
もしそうならば、家族や友人達とすぐに離れないで済む。
普通の人間の女子と同じように、高校を卒業して、大学に入り、後に就職して、寿退社。
その流れを踏む事が出来る。
蛇神は節子にとことん優しい。
彼は彼なりに、そして神なりに、節子の幸せを考えてくれたらしい。
そう考えが行き当たれば、益々蛇神の事が愛しくなった。
彼は束縛が激しいだけの心狭い男ではなかったのだ。
節子の人としての幸せの全てを奪わず、猶予期間を与えてくれた。
今から十年後が待ち遠しいくらいだ。
嬉しくなって、節子は蛇神に抱き付いた。
突然飛びつかれたものだから、蛇神は一瞬バランスを崩したようだったが、すぐに体勢を立て直して抱き締め返してくれた。
節子が恋した男性は、何もかもが最良だった。
こんなにも素敵な人とこれからも一緒に居られるだなんて、己はなんて果報者なのだろう。
節子の胸は、幸福感で一杯になった。
その後、蛙達に用意して貰った朝食を食べ、節子は社を出る準備をした。
これからまた、以前と同じような生活を送るのだ。
勿論、此処にも通うつもりだ。
蛙達が身代わりをしてくれるから、時には泊まる事も可能だろう。
まるで、内緒の恋人が出来たようだった。
前のように変わらない毎日を送り、時に蛇神に会いに来る。
普通の女子高生と同じ恋が出来る。
理想的なスタイルだ。
鞄を持ち、制服のスカーフも結び直し、社から出た階で靴を履いた。
今日からまたいつも通りの日々が始まる。
少し違うのは、蛇神の存在だけだ。
外に出、空を仰ぎ見れば、やはり快晴だった。
だが、蛇神が学校の話を出して来たという事は、今は朝なのだろう。
恐らく、学校に行くにも丁度良い時間の筈だ。
節子は後ろを振り返った。
蛇神が見送ってくれている。
「じゃあ、行ってきます」
元気良く言えば、「一匹連れてお行き」と、蛙を寄越してくれた。
黄蛙だった。
黄蛙は、面倒臭がっているとはいえ、自ら節子の鞄の中に潜り込んできた。
以前の節子であれば、蛙を引き連れて学校に行く事にも抵抗を感じていたが、今は気にもならない。
「有り難うございます」
節子は、満面の笑みで蛇神に礼を言った。
鞄の中で寛いでいる黄蛙にも、「今日一日お願いします」と挨拶しておいた。
節子の足取りは軽かった。
全てが幸せで満ち足りていた。
気分良く、反り橋へと向かう。
振り返れば、まだ蛇神が此方を見送ってくれていた。
今日も塾が終わった後に此処に寄ろう。
黒狐に印を押して貰わなくても、黄蛙が居れば自由に此処に行き来出来る筈だ。
何より、蛇神は節子が一人でも時空移動出来るよう、それなりの配慮をしてくれるとも約束してくれた。
反り橋の片端では、また赤蛙と茶蛙がじゃれ合っていた。
言葉遣いが荒いので、喧嘩をしているのかふざけ合っているのか分からない。
それを尻目に橋を渡り、砂浜へと足を下ろした時、ふとある事を思い出した。
「あ」
独り言のように呟いて、もう一度後ろを振り返る。
蛇神はまだ舘の階の所で見送ってくれている。
節子は其方に向かって小走りで駆け戻った。
突然戻って来た節子に、蛇神は驚いて目を見開いている。
「どうしたの?」
「忘れ物をしました」
「忘れ物?」
得心いかなかったのか、蛇神は節子の台詞をそのまま繰り返した。
実は、節子の制服も、鞄も、その鞄の中身も、全て蛇神が用意してくれたものである。
神の力で準備したのだから、忘れ物などある筈が無いと思っているのだろう。
節子とて、それは重々承知していた。
しかし、蛇神の力ではどうしようもないある事を忘れてしまっているのだ。
蛇神と同じ段まで上がり、節子は蛇神の頬に口付けた。
可愛らしいリップノイズと共に、その唇をすぐに離す。
「もう二度と、私の前から消えないで下さいね」
蛇神の両頬を手で覆い、今度は直接唇に口付けた。
随分積極的だという自覚はあるが、これはきちんと言っておかなければならなかった事だ。
勿論、ちょっとした悪戯の意もある。
自分を色々と振り回してくれた蛇神に、意趣返しのつもりだった。
だが、互いの唇が離れた瞬間、急激に恥ずかしさが込み上げて来た。
柄にもない事をしてしまった。
これからも蛇神と一緒に居られる嬉しさの余り、常では考えられない真似をしてしまった。
もしや、不埒な女だと思われてしまっただろうか。
不安になっておずおずと見上げれば、蛇神は目元を和らげて此方を見ていた。
「そなたは随分と可愛らしい事をするようになったね」
お返しとばかりに、濃厚に口付けられた。
黄蛙がひょこりと鞄から顔を出して此方を覗いているが、お構いなしだ。
まるで取って食われるような荒々しい口吸いは、数時間前の伽を思い起こした。
身体がかっと熱くなる。
また、蛇神の身体が欲しくなる。
離れたくなくなってしまう。
己は、いつの間にこんなにも貪欲になってしまったのだろうか。
長い口付けの後、最後に軽く下唇を吸われてからやっと、互いの顔が離れた。
酸欠でも起こしたかのように、肺が忙しく空気を求めている。
自分から仕掛けたというのに、もう蛇神のペースになっている。
「では、気を付けてね」
蛇神が名残惜し気に頬を撫でた。
節子は黙って首肯し、今度こそ社を出るべく踵を返した。
まだ頬は熱い。
身体とて中途半端に熱を灯している。
ちょっとした悪戯のつもりが、思わぬ倍返しをされてしまったせいだ。
節子は顔を赤くしたまま、学校へ向かうべく歩いて行った。
砂浜の所まで来ると、視界がぐにゃりと歪んだ。
時空移動をして、現世の方へと一旦戻るのだ。
TO BE CONTINUED..
2009.05.31
引用:故事ことわざ辞典・学研
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