サタン。
味方したり、加勢したりすること。
衣服の左の袖を脱いで片肌脱ぎになる意で、中国前漢の周勃が呂氏を討とうとした時に「漢王劉氏に味方しようとする者は左袒せよ」と全軍に呼びかけたところ、みんな左肩をあらわにし賛意を表したという故事から。
かむなぎ
037/左袒
学校も無事に終わり、節子は女の言葉通り江藤スーパーに足を運ぶ事にした。
確かに最近の節子はやつれ掛けている。
制服姿で野菜など直接的な食料品を買うのは抵抗があるが、菓子くらいであればいいかもしれない。
近頃の菓子は、栄養に気を遣ったものもあるという。
そこそこのカロリーで、適度に腹が膨れる物でも買って帰ろう。
江藤スーパーは、学校の帰り道で見掛ける事が出来る店だ。
然して大きい訳ではないが、それなりの品は揃えていると評判だ。
節子の母親もよく利用しているらしい。
スーパーの出入り口には、数台の自転車が停められていた。
中学生と思われる子らが、備え付けてある自動販売機でジュースを買っている。
その近くで鯛焼きの屋台が路上販売をしているので、香ばしい香りが鼻を衝いた。
店の中も、それなりに人が入っているようだ。
自動ドアから中に入り、一番に目が付いたのは野菜の安売りだった。
ダンボールで積み上げられた赤や緑の野菜が瑞々しく熟れている。
そこを通り過ぎれば、節子の母程の年の女性が二人、耳を打ち合っていた。
「まあ、見て、あの人」
意識せずとも、その声は簡単に節子の耳に入って来た。
二人の女性が指差している方向に顔を向けてみる。
どうやら奥の大豆商品を置いている場所を指しているようである。
「おかしな格好ねえ」
「最近、よく現れるらしいわよ」
「変な人じゃなければいいけど」
ひそひそ話し合う言葉を擦り抜けて行くと、その噂の人物はすぐに見付かった。
豆腐を陳列させている傍に、納豆や油揚げが置かれているスペースがある。
その棚の前に、ぐんと背の高い男が立っていたのである。
節子にはよく見覚えのある姿だった。
浅黒い肌に、白い髪。
派手な合羽を羽織り、足袋を履いている。
そして、この場には不似合いな琵琶。
「黒狐さん?」
意表を突かれて、節子は頓狂な声を上げた。
その声に、黒狐もふと節子の方を振り返った。
周りに居た女性達は、節子が奇怪な男と知り合いらしい事をまた噂話の種にしている。
だが、それを気にする事もなく、節子は黒狐の方へと駆け寄った。
「どうしたんですか。
此処で何をしてるんですか」
彼が話さない事を知っていても、つい聞いてしまった。
思ってもみない展開に、胸が跳ねている。
黒狐は沈黙を守ったまま、油揚げが入った袋を二つ、節子の前でぶら下げた。
「油揚げ?」
片方は大きくふっくらとした油揚げが入っていた。
もう片方は、小さく薄っぺらいが、三つの油揚げが入っている。
値段は然程変わらない。
「この二つで迷ってたんですか?」
真剣に二つを眺めていたところから察するに、彼はこの両方を寄り選んでいたらしい。
やや高級そうな油揚げにするか、安くても沢山入っている方がいいか。
彼の元の正体は、恐らく狐だ。
それ故、油揚げを好むのだろうか。
節子は何だかおかしくなった。
「買うんですか?」
そう問えば、黒狐はゆっくりと首を左右に振った。
買うつもりはないらしい。
では、何故こんな所に佇んでいたのだろうか。
「でも、欲しいんですか?」
質問を変えれば、今度は琵琶を掻き鳴らしてくれた。
どうやら肯定しているらしい。
買うつもりは無いが、欲しいと思っている。
もしや、彼はこれを盗むつもりだったのだろうか。
それとも、ただ見ていただけなのだろうか。
見ていただけならまだしも、盗むとあっては大問題だ。
こんな所で知り合いを盗人にはしたくない。
「じゃあ、私が買います。
こっちの高級油揚げにしましょう」
節子が鞄から財布を取り出せば、黒狐はやや嬉しそうに目を見開いた。
黒狐は普段、静かな表情をしているが、喋らない分、その意思表示は分かり易い。
勿論、その変化も微々たるものだが、今まで蛇神の元に居たせいか、節子にはその差もしかと分かった。
結局最初の目的であった菓子を買う事なく、会計場で油揚げだけを買った節子は、黒狐と一緒にスーパーを出た。
機嫌が良いらしい黒狐は、始終、琵琶を奏でていた。
通り過ぎる人達は皆、好奇の目で節子と黒狐を見た。
だが、節子に恥ずかしいという概念は無かった。
人ならざる者に深く関わり過ぎたせいで、感覚も麻痺してしまったのかもしれない。
「はい、どうぞ」
節子は油揚げが入ったレジ袋を黒狐に手渡した。
黒狐は早速食べようと袋に手を掛けたが、ちょっと考える素振りをして、もう一度袋に戻した。
後でゆっくり食べようと思ったのだろうか。
大事そうに包み直し、懐に仕舞ってしまった。
その後、黒狐はぺこりと節子に礼をし、さっさと一人で歩き始めてしまった。
帰り道と同じ方向だったので、節子も慌ててそれを追い掛けた。
黒狐には聞きたい事がある。
折角会えたのだ、蛇神の事を知りたい。
しかし、黒狐に再会出来たのは、ただの偶然なのだろうか。
元より、節子がこのスーパーに来たのは、あの化け物の主である女に言われたからだ。
彼女は節子の痩せ細った身体を懸念する事を言っていたが、本当はこの黒狐の事を報せたかったのではないだろうか。
節子は、女の気遣いに感謝した。
女の提言が無ければ、スーパーに足を運ぶ事も無かっただろう。
黒狐は、蛇神に通じている。
だからこそ、此処で簡単に離れる訳にもいかなかった。
「あの、黒狐さん」
名を呼べば、黒狐もやや歩くスピードを緩めてくれた。
黒狐の背丈は高い。
足もすらりと長い。
そのせいで、歩幅は非常に大きい。
背の低い節子が追いつくには、やや駆け足にならないといけなかった。
「ちょっと聞きたい事があるんですけど、いいですか?」
黒狐はまた琵琶を掻き鳴らした。
良いという意味らしい。
「蛇神様は、その後どうされてるんですか」
節子はすぐに蛇神の事を聞いた。
今の節子にとって一番気に掛かっているのは、蛇神の事だけだ。
熱心に励んでいた勉学も疎かになる程だ。
しかし、黒狐は眉根を寄せるだけで、答えてくれなかった。
元々喋らないせいか、或いは話す気がないのかは分からないが、ただ黙って唇を引き結んだ。
節子は更に続けた。
「会いたいんです、私。
どうすれば会えるか、黒狐さんは分かりませんか?」
黒狐は、か細い音を立てて琵琶の弦を弾いた。
この頼り無い音色は、肯定の意か否定の意か分からなかった。
どちらとも取れる。
節子は目の奥に力を入れた。
「じゃあせめて、蛇神様に伝えて下さい。
私、蛇神様に会いたいって」
節子は切なる想いを黒狐に託した。
会える方法が聞けないなら、せめて蛇神から会おうと思ってくれるのを待つしかない。
ただ待ち惚けを食らうのは辛いが、今の節子にはそれしか出来ないのだ。
節子は幾らでも待つつもりだった。
一ヶ月でも、半年でも、一年でも、十年でも、いつまで掛かっても構わないから、蛇神を待とうと思った。
やはり、影山では駄目なのだ。
影山は優しい。
ユーモアもある。
悪い人間ではないと思う。
長く一緒に居れば、好きになれるのかもしれない。
だがそれは、蛇神に会っていなかったらの事だ。
節子は、蛇神を忘れる事が出来ないのだ。
蛇神以外を愛する自分を想像するのも嫌だった。
きっと、影山以外の男でも無理なのだろう。
どんな新しい男が現れても、蛇神と比べてしまう。
そしてこのまま報われない恋情を抱え続け、いつかは干からびていくのかもしかない。
蛇神の生きて来た時間は長い。
呪いを解かれ、通常通りの寿命を全うしなければならない節子の命など、長寿の蛇神にとっては過小なものだろう。
蛇神が節子を許す頃には、節子などとうに死んでしまっているかもしれない。
しかし、この切情を抱いたまま他の男の元に行くより、蛇神を信じて待っている方が余程良いと思った。
蛇神がいいのだ。
蛇神でないといけないのだ。
望む事もなく、突然社に連れて行かれ、彼の好きなままに振り回され、あまつさえ恋心まで盗まれてしまった。
そのせいで、もう節子には蛇神しか見えなくなってしまったのだ。
蛇神に会いたい。
会って謝りたい。
触れたい。
あの優しい腕で抱き締めて欲しい。
二度と離れる事が無いよう、この身をきつく縛り付けておいて欲しい。
「好きなんです、私」
喋っている内に、また涙腺が緩みそうになった。
「だから、いつまでも待ってますって」
気が付けば、蛇神の祠の近くまで来ていた。
そのせいで、益々切々たる想いが溢れてきた。
節子が喋っている間、黒狐はただ黙っていた。
琵琶を掻き鳴らす事も無かった。
「お願いします、そう伝えて下さい」
零れそうな涙をぐっと堪え、節子は黒狐を見上げた。
彼は、先程油揚げを仕舞った胸元を手で抑え、一度目蓋を伏せた。
そして、数秒逡巡して、袂から小さな筒状のものを出した。
黒狐の掌程のサイズだ。
「何ですか、それ」
黒狐は自分が出した物をじっと見詰め、それから節子に見せてくれた。
木の印章に、赤い底。
その底には、何やら鏡文字が刻まれている。
「判子ですか?」
そう聞いたと同時、節子はその角印らしいものを額に押し付けられてしまった。
ぎゅうと強く皮膚に押印される。
印材自体が柔らかいのか、痛くはない。
だが、すぐに離れてしまった。
何か悪戯でも為されたのだろうか。
節子はポケットに入れてあった手鏡を取り出した。
その鏡を広げて自分の顔を見てみれば、額にはしっかりと文字が印影されていた。
鏡で見ているのでその文字は反対にしか見えなかったが、何とか解読する事は出来た。
どうやら漢字四文字のようだ。
「通行、許可?」
その押印された文字を読めば、黒狐は印判を再び袂に仕舞ってしまった。
節子は訳が分からないまま、再度、黒狐を見上げた。
「黒狐さん?
これは一体」
「何なんですか」と聞こうとした。
だが、それも叶わなかった。
額が熱くなったかと思うと、そこから一気に視界が揺らいでしまったからだ。
黒狐が小さく笑みを浮かべ、手を振っているのが見えた。
その直後に、節子は久しぶりの時空移動を体験したのだった。
TO BE CONTINUED.
2009.05.19
引用:故事ことわざ辞典・学研
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