アクガヌケル。

嫌味やあくどさなどが無くなって、すっきりと洗練される様子の形容。

かむ
036/灰汁が抜ける

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る。

黒板に書かれた和歌をぼんやりと見詰める。
やはり古文の時間も集中出来なかった。
今は休み時間だ。
数分後には数学の授業が始まる。
頭をはっきりさせないと、すぐに付いていけなくなる。

だが、脳内は始終霞がかったままだ。
しっかりしないといけないと分かっているのに、どうも上手く切り替えが出来ない。

先日、塾の帰りに同じクラスの影山という青年に告白めいたものを告げられた。
節子は上手く返事が出来なかった。
数日経った現在でも、未だ答えが決まっていない。
そもそも彼が返答を求めていたのかどうかも分からない。

しかし、影山は、今までとは打って変わって、やけに親しげに話しかけてくるようになった。
教科書を忘れたから見せてくれだとか、消しゴムも無いから貸してくれだとか、本当に些細な事ばかりで絡んでくる。

節子とて、その接触が嫌な訳ではない。
嫌ではないが、特別に嬉しい事もなかった。

元より、蛇神のせいで勉強には今一つ集中出来なかったのだ。
今更、影山に幾ら話し掛けられようと邪魔にはならないし、影山自体の事も嫌いではない。
自分の事などを想っていてくれていただなんて、純粋に光栄に思う。

だが、影山は蛇神ではないのだ。
節子の求めている人物ではない。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る。

節子はもう一度黒板に目を遣った。

そういえば、古文を蛇神に教えて貰う約束をしていたのだった。
結局、それも叶わぬままになった。

蛇神であれば、和歌の一つであっても懇切に教えてくれていただろう。
「あかねさす」は「紫」に掛かる枕言葉、「袖降る」は恋しい人の魂を引き寄せる素振りの事。

蛇神がその言葉を舌に乗せれば、さぞ様になって聞こえただろうに、黒板に書かれた文字は陳腐にしか映らない。
ただ白と黄、ピンクのチョークで書かれた、何の変哲も無い記号の羅列だ。

「ずっと気になってたんだけど、最近どうしたの?」

ただ黒板の一点を見詰めていると、それを遮るように美鈴が現れた。
クラスが違うというのに、休み時間を利用して、わざわざ会いに来てくれたのだろうか。

目を数度瞬いて、節子は口元を和らげた。

「ああ、御免。
ぼうっとしちゃって」
「節ちゃんらしくないね。
心配だから、様子見に来たよ。
何か悩み事でもあるの?」
「ううん、そんなんじゃないけど」

美鈴に本当の事を言える筈が無かった。
仮に言ったとしても、信じてくれないに決まっている。

影山の事も言う気になれなかった。
影山の好意に応える気がないのは、蛇神のせいだ。
その蛇神の話を伏せた状態で、上手く影山への気持ちを説明する事など出来ない。

適当に言葉を濁して、節子はまた口を噤んだ。
少しでも気を抜けば、溜息が零れそうだった。
折角会いに来てくれた友人に上手に笑い返す事も出来ない。

隣の席の影山は、斜め前の生徒と話していた。
次の授業の数学の問題を質問しているらしい。
時折、節子の方を振り向いてにこりと笑い掛けてくれるが、節子は愛想笑いしか出来ない。
手を振って笑顔を振り撒くなど、もっての外だ。

節子が曖昧に相槌だけを打っていると、美鈴は益々心配そうに眉根を下げた。
長年来の付き合いのせいか、影山同様、彼女も節子の異変に気付いているらしい。

節子は友人を安心させる為に無理矢理元気を装ったが、やはりそれも上手く出来なかった。
それどころか、何だか気分が悪くなってきた。
頭がぼうっと霞み、胃が重い。
次の授業も乗り切れない気がしてきた。

「やっぱり、ちょっと保健室に行って来ようかな」

少し休めば、楽になれるだろうか。

ふらりと席を立てば、美鈴が「え?」と目を剥いた。
まさかそこまで悪いとは思わなかったのだろう。

「大丈夫?
先生に言っておこうか?」
「うん、平気。
でも、先生には言伝お願いね」

付き添おうと寄って来た美鈴の手を柔く遮って、節子は教室を出た。
突然教室を出た節子に影山も驚いていたが、声を掛けて来る事は無かった。
手洗い場に行くとでも思ったのだろう。

廊下は、移動教室で出歩いている生徒ばかりだった。
徳祥高校は進学校なので、休み時間内も勉強している生徒が多い為、ほとんどが教室を出ようとしない。
美鈴のように、節子を心配してわざわざ他のクラスに行くというのは稀な事だ。

保健室は階段を幾つか下りた所にある。
だが、此処に通う子などこの学校にはほとんど居ない。
休んでいる暇があったら参考書の一つでも開いておくというのが、徳祥校の生徒達だ。

節子はひっそりと静まり返った保健室の戸をノックした。
やはり、生徒の気配は全く無い。
話し声すら聞こえない。
今が休み時間だなんて考えられない程だ。

「失礼します、一年の柏木です」

戸を開ければ、中には生徒どころか、保険医すらも居なかった。
通ってくる生徒が居ないので、職員室にでも戻っているのだろうか。
鍵だけは開けているようだから、勝手に休んでおけばいいという事だろう。

節子は中央に置かれたソファに腰掛けた。
目の前にはガラステーブルがある。
誰かが使ったのか、或いはただ片付けられていないだけなのかは分からないが、テーブル上には体温計と絆創膏が散らばっていた。

深くソファに腰を沈め、節子は上を仰いだ。
薄汚れた白い天井が、規則的な碁盤縞を描いている。

そんな無機質なものを眺めていても、思い起こすのは蛇神の事だけだった。
何を見ても彼の事を思い出してしまう。
彼以外の事を浮かべる事など出来ない。

唯一蛇神の事を考えずに済むのは、眠っている時くらいだった。
おかしな事に、幾ら蛇神の事を考えていても、彼はとんと夢の中に現れなかった。
お陰で、夢の中の節子は、然して苦しむ事など無かった。

だが、目が覚めれば思うのだ。
どうして彼は夢の中でさえ出て来てくれないのだろうかと。
以前は、蛙達の仕業とはいえ、毎日のように出て来てくれていたというのに。

節子はゆっくりと息を吐いた。
長く重苦しい溜息が部屋内に響いた。

このまま此処で眠ってしまおうか。
そうすれば、少しはこの気怠さも解消されるだろうか。
それとも、夢ですら会えない彼に、益々想いが募ってしまうだろうか。

そう思いを過ぎらせていると、ふと節子の目の前を過ぎる影があった。

「随分と憔悴しているようだが」

その影が、節子に話し掛けてきた。
節子は驚いた。
この部屋内には己一人しか居ないのだと思っていたが、先客が居たらしい。

その影の方に目を遣った時、節子は更に驚く羽目になった。
その相手が、思いも寄らない人物だったからだ。

それは、節子を攫い、蛇神にいなされた悪霊の女だった。
彼女が、保険医用の机の傍に立っていた。

「貴女は!」
「久しいな、娘」

驚きの余り、声が不自然に裏返ってしまった。

まさかあの事件の女が居るだなんて思いもしなかった。
蛇神と対峙して以降、どうなったのかも分からなかった。

様子を見るに、どうやらその後も大事なかったらしい。
だが、何故こんな所に居るのだろう。

女はにやりと口を歪ませた。
そして、ソファに座っている節子の傍まで来たかと思うと、勢いよくその横に腰を沈めた。

「無事、だったんですか」
「いかにも。
だが、放っておけばその内消滅するだろうがな」
「え?」
「余には元より名さえも無い。
この世から縛るものがなくなれば、消えても当然の事。
余にはもう、この世を恨む気持ちも無い。
あれ以来、様々なものがすっかり削げてしまった」

女は淡々の自分の現状を話してくれた。
我が事だというのに、まるで他人の話をしているようだった。

自分が消えてしまっても構わないと思っているのだろうか。
そもそも、何故こんな所に現れたのだろうか。

「あの、また何か」

用があるのだろうか。
それとも、前回の復讐だろうか。

今の節子には、蛇神も、護衛となる蛙も居ない。
此処で襲われてしまっては、抗う術も無い。

「そう恐れるな。
もう貴様に手出しはせん」

女は鼻で笑って否定した。
着物は男用のままだった。
相変わらず、中世武士の直垂を着ている。
刀も帯刀しているが、それを抜く素振りは見せない。

以前会った時とは打って変わって、女はとても穏やかな顔をしていた。
言葉遣いこそ棘があるままだが、喋っている内容自体は随分落ち着いている。

おずおずと様子を伺っていると、女は再び口を開いた。

「そういえば、少し噂を聞いたが」
「噂、ですか?」
「そうだ。
蛇神の巫とやらが、蛇神に愛想をつかされて捨てられたとな」

女が意地悪げに唇を持ち上げた。

節子は何も返せなかった。
彼女が言っている事は真実だ。
言い返す事も出来ない。

何より、蛇神の名を耳にして、また胸がじくりと痛んだ。
自分で想っているのと、他者からその名を聞くのとでは、違った苦しみがあるらしい。

「いっそ自ら蛇神の贄にでもなれば良かったものを。
贄から妻になる者も居ると聞くが」

蛇神の過去を知らない女は、つらつらと提言した。

節子とて、蛇神の傍に居る為であれば何だってしたに違いなかった。
だが、もう遅いのだ。
巫ではないと知り、妻に迎えるつもりだったと聞いた。
その約束も、今や解消されている。

節子は唇を噛み締め、下を向いた。
すると、女は数秒節子を見詰めた後、ゆっくりと言った。

「では、余のものになるか?」
「え?」
「余は貴様が気に入った。
なかなか性根が据わっている。
余が貰い受けてもいい」
「それは」
「尤も、余の命も後僅か。
貴様と共に居られる時間など、ほぼ無いだろうがな」

節子が顔を上げれば、したり顔をした女と視線がぶつかった。
以前のように節子に害を為そうという目ではなかった。
やはり、女自ら言うように、蛇神との件で全ての毒気が抜かれてしまったのだろうか。

女は自分の命など惜しくないのか、或いはこの世に未練などないのか、何処までも淡白な口調だった。
もし立場が逆であれば、節子にこの女のような達観など出来なかっただろう。
自分の命も後僅かだと知っていて尚、淡々と振舞う。
普通の人間には到底出来ない技だ。

しかし、女が自らの命に無頓着な分、節子の方が悲しくなった。
たとえ一度悪に染まってしまった輩であったとしても、元は生贄という被害者だったのだ。
長年、悪霊としてこの世を彷徨っていたせいで、人としての感覚も薄れてしまったのかもしれないが、それでも消えてしまうという事は恐ろしい事なのではないかと思った。

その後、女はぽつぽつと身の上話をしてくれた。
節子が以前連れて行かれた場所は、女にも因縁深い湖だったらしい。

そういえば、洞窟のような場所に連れて行かれた時も、茶蛙が「湖の跡地」だと言っていた。
過去、生贄にされた者は、様々な場所で命を削られた。
その中の一つである湖に、節子は招かれたのだろう。

話してみれば、女は思ったより気難しくない事が分かった。
先程の「余のものになるか」というのも、彼女なりの冗談だったのかもしれない。

女も、元は節子と変わらぬ普通の人達だったのだ。
そう思い当たった頃には、親近感さえ湧き始めた。

だが、女と話せば話すほど、蛇神の事が恋しくなってしまった。
この女と蛇神の縁は強い。
蛇神が居たからこの女は救われたのだろうし、この女が居たから蛇神の内情と過去が分かった。
節子の中で、二人は切っても切れない位置に存在している。

「そんなにも蛇神とやらが好きか」

蛇神の事を思い出している内に、また暗くなってしまったらしい。
女が片眉を吊り上げて言った。

「それならば、何故会いに行かない」
「行きました。
私、何度も行きました。
でも」

「会えないんです」と節子は抗弁した。
本当の事だ。
節子は何度も蛇神に会いに行こうとした。
だが、会えないのだ。

何度試しても、何をやっても、以前のように社の中に入れないのだ。
ちっぽけな祠は祠のままで、水に浮かぶ舘など現れない。
時空を移動する術さえ無い。

「あの社の中に、入れないんです。
きっと、蛙さん達が居ないと駄目なんです」

説明している間に、また悲しくなった。
目からぽろりと涙が零れた。

どうすれば再び彼に会えるのだろう。
その為には何だってするというのに。

節子は、蛇神に煮え湯を飲ませてしまった。
無意識とはいえ、彼の手を避ける素振りを見せてしまった。

それに蛇神は大層傷付いていた。
自分の姿が醜いと悟っているからこそ、拒まれた事に敏感に反応したのだろう。

蛇神も被害者なのだ。
この悪霊と化してしまった女同様、利己主義な人間達に利用された犠牲者なのだ。

蛇神は、氏子を庇う為に自ら悪神となった。
浅い考えしか持てない人間の為に、自分の手を汚した。
他者の事など顧みない、自分勝手な者達のせいで醜怪化してしまったのだ。

そんな優しい彼の手を、節子は恐れてしまった。
一瞬とはいえ、逃れようとしてしまったのだ。

幾ら後悔しても尽きない。
節子は、一番受け入れなければならない愛しい人を拒んでしまった。

「そういえば」

黙りこくった節子の代わりに、不意に女が話題を変えた。

「この建物の近くに、食い物を売る店があるだろう」
「江藤スーパーの事ですか?」
「そうだ。
そこに足を運べ。
若い娘のくせに痩せ細っている今の貴様は、見っとも無い。
娘は肉付きの良い方がいい」

女は節子の腕を取って、「こんなにも細いとは」と言った。
確かに、蛇神と離れてから、まともな食事さえ摂っていないように思われた。
何を食べても味のしないプラスチックを口に入れているようで、食欲が削がれてしまうのだ。
しかし、女はそれではいけないと言いたいのだろう。

蛇神に会わなくなって、やや体重が落ちた事は事実だ。
恋の病は女性を綺麗にすると言うが、これでは全くの逆効果だ。

蛇神の事を想うだけで、何もしたくなくなってしまう。
彼さえ傍に居たならばと、叶わぬ事を望んでしまう。

「ではな」

女は、一度節子の膝を軽く叩いて、ソファから立ち上がった。

「余はそろそろお暇しよう」

何の為に来たのか分からないが、女の気はこれで済んだらしい。
節子は、その女の裾を掴んだ。

「あの」

とどめられ、女は不思議そうに眉を動かした。
まさか呼び止められるとは思っていなかったのだろう。

「何だ」
「また、会いに来てくれますか」

それだけ言えば、女は益々訝しんだ顔をした。

「貴様は余を恨んでいないのか」
「それは、まだ分かりません。
でも」

掴んだ裾を更に強く握り締めた。
着物に皺が寄ると怒られるかもしれないと思ったが、放す気にもなれなかった。

女の言う通り、憎んでいないと言いきってしまえば、嘘になるのかもしれない。
完全に忘れる事など出来る筈がない。

だが、女よりも、あの件自体を忌むべきだという事も分かっている。
この女が抱えてきた恨みが理解出来ない事もない。
理解出来るからこそ、陵辱された事に対して生まれた中途半端な辛みは、消化する事も爆発する事もなく沈静化している。
寧ろ、しっかりと蓋を閉め、隠れた場所で眠っているといっても過言ではない。

女は、目を細めて笑った。

「貴様、人ならざるものに執着を覚えたか。
真におかしな娘よ」

化け物の主をしていた者とは思えぬ程、女の口調は優しかった。

節子は、女を見上げながら、掴んでいた着物をゆっくりと放した。
案の定、余りに強く握ったせいで、皺が多数寄っていた。

しかし、女はそれを咎めなかった。
それどころか、更に穏やかな口調で続けた。

「また会いに来るかどうか、その約束は出来ん。
先も言ったが、余はいつどうなるかも分からぬ身だ」
「じゃあ、どうすれば貴女は助かるんですか」
「以前までは、この世に対する恨みだけで存在してきた。
だが、今はその念も消えた。
それ故、いつまでもここに残るのは難しいだろう。
皆に忘れられ、ひっそりと消えていく。
それもまた、余には似合いの結末だ」

女が自嘲した。
悲しい笑顔だと思った。

節子はソファから立ち上がった。
そして、女の手を両手で包んだ。

「私は、覚えています」
「それは、余を憎む余りにか?」
「違います。
でも、覚えています。
絶対に忘れません。
貴女という人が、この世に存在していた事」

たとえ恨まれるべき相手だとしても、誰にも覚えられる事なく消えるだなんて、寂し過ぎるに違いない。
ましてや、この女は一番の被害者なのだ。
この世の不条理な仕来りの犠牲なのだ。
そのせいで道を踏み外したといえ、元凶を作った人間の過ちこそ忌むべきなのだ。

真剣な節子に、女は目を閉じた。

「名も無き陳腐な祟り霊を覚えておこうなど、貴様も物好きだな」

それだけ言うと、今度こそ女は静かに消えていった。
霧が晴れるように一瞬で、その場から音も立てずに霧散した。

女が消えた向こうから、夕焼けに染まった日が差し込んできた。
煌々とした、命の強さを感じる色だ。

「茜色」

節子は呟いた。
「茜色」は赤が沈んだ色であったり、朝焼けの色を指したりするが、元々「茜」とは女房言葉で「日の出」という意味だ。

消え去った女は、その日の出にも負けない清廉さを持っていた。
そして、「茜さす」という和歌を想起させる情緒深い趣きがあった。

もしもう一度彼女に会う事が出来れば、「茜」という名で呼んでみようと思った。
名も無き悪霊に成り下がった女は、「茜」という言葉がよく似合う女性だった。





TO BE CONTINUED.

2009.05.17
引用:故事ことわざ辞典・学研
引用:万葉集・額田王の和歌


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