テイジョハジフニマミエズ。
操を固く守る貞淑な女性は、生涯一人だけしか夫を持たないという事。
「二夫」は「にふ」とも読み、また、「貞女は両夫に見えず」とも言う。
かむなぎ
035/貞女は二夫に見えず
「あ、雨」
塾の帰り道、節子は空を見上げて呟いた。
友人である美鈴とは、先程手を振って別れたばかりである。
彼女は傘を携えていたが、節子は持ち合わせていなかった。
以前はよく折り畳み傘を常備していたが、今日に限って持っていなかった。
ここ最近、何かに付けて不注意になってしまっているようだ。
ぼんやりする事も多い。
そういえば、今朝の天気予報での降水確率はなかなか高かったように思う。
きちんと聞いていた筈なのに、どうして忘れてしまったのだろう。
蛇神と別れて早二週間が経った。
怒涛のように過ぎていった蛇神との時間は、とうに過去のものとなった。
しかし、節子の脳内では未だ彼が色濃く根付いていた。
優しい声、美しい容姿、深い愛情。
そして最後に見た、禍々しい正体。
そのどれもが脳裏から離れない。
思い出す度に胸が苦しくなる。
蛇神と引き離された節子は、言葉通り青蛙の少年に家まで送り返されてしまった。
どんなに抵抗しても、人一人の力は神の使いに及ばなかった。
勿論、送り返されても、節子はすぐに蛇神の祠まで戻った。
蛇神の傍を離れる気など、毛頭なかったのだ。
だが、祠は節子を迎え入れようとしなかった。
手を叩こうが、ぐるりと回ってみようが、その場に座り込んでみようが、辺りは静かなものだった。
小さな祠はただ閑散として其処にあるだけで、赤い塗料が剥げたミニサイズの鳥居に、薄く汚れた白い殿舎、破れかけた紙垂、ミミズに見える屋根の千木は、何一つ変化を見せなかった。
蛙達が言っていた合言葉のようなものを真似てみても、駄目だった。
せめて相手が普通の人間であれば、どれほど良かっただろう。
たとえ追い返されたとしても、この世に存在する限り、会おうと思えば会えない事もない。
何処かで待ち伏せる事も出来る。
努力すれば、何とか会えただろう。
しかし、蛇神は違う。
何処かで待ち伏せていても会える筈が無く、誰かから人づてに話を聞く事も出来ない。
彼の住まいである祠は常に変わりなく存在しているというのに、その中に入り込む事は決して出来ない。
どんなに屈強な輩であろうが、超能力を使えようが、無理なのだ。
この世の次元と離れた所に行く事など、一人間に出来る筈がない。
それでも諦めきれずに、毎日、祠の前に立った。
必死に蛇神に語り続けた。
通り過ぎる人達は、節子の事を「独り言の激しい変わった娘」と思っただろう。
白い目で見られる事も多くなった。
それでも節子は構わなかった。
他人に奇人変人と噂されようが、指を差されようが、彼に会いたかったのだ。
だから、雨が降った日も、塾で帰りが遅くなった日も、変わらず祠に足を向けた。
どんな時でも、ただ蛇神に会いたい一心で足繁く通った。
そして今日も、祠の前に来てしまった。
雨脚は強まっていたが、そんな事はどうでも良かった。
蛇神以外の事は、何も気にならない。
雨の中、彼の小さな社は濡れそぼっていた。
所々生えている苔が、より一層祠を貧相に見せている。
節子はその前に立ち、鳥居にそっと手を触れた。
神聖なものに触るだなんて、罰当たりな行為に違いない。
蛇神に呪われるだろうか。
だが、呪われてでももう一度彼に会えるならば、それも本望だ。
せめて後一度でも会えたら、と思う。
もしその願いが叶ったら、今度は「やはりもう一度会いたい」と思う事も分かっている。
後もう一度、もう一度という思いが繰り返されて、結局彼の傍を離れたくなくなるに決まっている。
こんな事になるならば、早くに全てを投げ打って、蛇神の元で住まうようにすれば良かった。
或いは、執拗に質問ばかりせず、彼の言う事を素直に聞いていれば良かった。
後悔は尽きない。
あの時こうしていれば、とか、しなければよかった、とか、思い返しても無駄な事ばかりが頭を過ぎる。
世の失恋した女子達は、こういう時はどうやって立ち直るのだろうか。
そんな事を考えても、分かる訳もない。
そもそも蛇神と一般の男子では、全てが異なる。
蛇神は、普通の人間では手の打ちようが無い遥か遠い所に居る。
共に培った思い出の種類も、通常の恋人同士とは違う。
節子には、このまま時間が傷を癒してくれるのを待つしか方法は無いのかもしれない。
蛇神に会えなくなって二週間。
たった二週間だが、もう二週間でもあるのだ。
他者にとって何の変哲も無い十四日間でも、節子にとっては苦楚としか表現出来ない三百三十六時間だった。
ほんの一分でさえも長く感じる。
生きている事、時間が経過する事がこんなにも苦痛だったなんて、今まで知らなかった。
雨は節子の身体を冷やしていく。
このまま立ち尽くしていれば、明日には風邪を引いてしまうだろう。
そう思うものの、家に帰る気も起きない。
蛇神に会いたい。
彼が欲しい。
それ以外のものは、何も要らないのだ。
これまで勉強する事しか見えていなかったというのに、今はたった一人の存在に溺れている。
「柏木さん?」
節子が祠に縋りつきそうになった時、すぐ近くで節子を呼ぶ声がした。
年若い男性のものだった。
振り返ってみれば、其処に居たのは節子と同じクラスの影山という名の青年だった。
席も隣だが、大して話をした事がある訳ではない。
互いに名前と顔を知っている程度だ。
傘を差した彼は、手にコンビニエンスストアの袋を持っていた。
「こんな夜中に、何してるの?」
「あ、えっと、傘が無くて」
「じゃあ、入って行く?
僕の家、柏木さん家の方角と一緒だし」
影山は、節子が帰るべき方角を指差した。
どうやら彼は節子の家が何処にあるのか知っているらしい。
「有り難う、でも」
「でも?」
「もう少し、此処に居たくて」
「此処に?」
節子の発言がおかしいと思ったのか、影山は眉を顰めた。
それも真っ当な反応だろう。
こんな夜中、しかも雨が降っているというのに、古びた祠の前で立ち尽くしている女子高校生など居たら、誰だって不審がるに決まっている。
「もう十時半だけど。
変な奴が出るかもしれないから、用があるなら明日にしたら?」
尤もな提案をされ、節子は渋々頷かざるを得なかった。
ここで頑固に居座ろうとすれば、もっとおかしな目で見られるだろう。
今更、誰かに何と思われようが構わないが、此処で事を荒立てるのは懸命でない事くらい分かっていた。
節子は黙って影山の傘に入った。
小さなビニール傘の中に大人二人が入るには、身体が触れ合う程に寄らなければならなかった。
今まで意識した事など無かったが、彼は節子より頭半分ほど背が高かった。
さすが男だ、肩幅もそれなりにある。
傘を持っている手の節も、くっきりと浮かび上がっている。
制服を着ている時は然して気が付かなかったが、やはり彼も一人の男なのだなと思った。
影山は、節子が何をしていたのか聞かなかった。
代わりに、最近の節子のおかしな様子について問うて来た。
他人の目から見ても、近頃の節子の憔悴ぶりは目に余るものがあったらしい。
確かにここ最近の節子は、常に心此処に在らずといった状態だった。
苦手な数学も、好きだった美術の授業も、全てが疎かになっていた。
体育の時間では、ぼんやりし過ぎた余り、誰かにぶつかる事が頻繁にあった。
友人に話しかけられても、生返事ばかりしていたように記憶している。
影山は、その節子の変化を見落としていなかったのだという。
たかがクラスメイトの一人だというのに、普通はそんな些細な事まで気が付くものだろうか。
「何か、目が離せなくて」
影山は、節子に顔を合わせる事なく、早口に言った。
「ずっと、気になってたから」
ぶっきら棒に告げられたその言葉は、告白めいていた。
何と返せばいいのか分からなくなって、節子はただ相手の顔を見詰めた。
影山は、蛇神には到底及ばないものの、割とバランスの取れた容姿をしていた。
浮いた話も何度か聞いた事がある。
興味など無かったので今まで気にしていなかったが、この影山という青年はなかなか女子に人気があるらしいのだ。
その彼が、節子の事を気になるという。
節子の脳裏で、蛇神と影山が交錯した。
影山と一緒に居れば、蛇神の事も忘れられるだろうか。
この胸の痛みも、少しは楽になるだろうか。
蛇神と離れ、会えない日が続き、節子は存外疲れていた。
目に見える傷は無いが、常に心が悲鳴を上げていた。
恋愛というものがこんなにも苦しいものだとは思わなかった。
蛇神の事を考えるだけで、心臓がきりきりと痛みを訴えた。
涙腺も随分と弱くなった。
いっそ死ねたらどんなに楽だろうと、馬鹿げた思考に陥りそうになった事もある。
「有り難う、影山君」
影山から目を逸らし、節子はそれだけ返した。
影山も、それ以上、先程の告白を発展させた言葉を掛けて来る事は無かった。
雨の降り頻る中、アスファルトの上を跳ぶ雨蛙が居た。
蛇神の使いに比べると随分と小さい子蛙だった。
脇には、車に潰され、死骸となった蛙の姿もあった。
皮が弾け、内蔵が飛び出ている。
その傍には、カタツムリが這っていた。
「どうかした?」
影山が訝しむ程に、節子は無意識にその蛙達を目で追っていたらしい。
足を止めて、顔を覗き込まれてしまった。
節子は、慌てて首を横に振った。
「ううん、何でもない。
ただ、蛙が」
「蛙?
ああ、気持ち悪いよね」
「別に、気持ち悪くなんか無いよ」
「そう?
僕、爬虫類とか両生類とか、苦手なんだよね。
この世から消えて欲しいとか思う」
節子の内心を知らない影山は、さらりと言った。
その言葉が蛇神の存在すらも否定しているようで、節子の胸はずくりと疼いた。
「私は爬虫類、好きだよ」
「え、意外!
そうなの?」
「蛇とか、蛙とか、狐とか、好きだよ」
「狐は全然関係なくない?
僕だって犬や猫なら好きだし」
影山が「柏木さんは、たまにおかしい事を言うなあ」と笑った。
その後も、親しげに話題を振ってくれた。
先日行われたテストで失敗した話も、面白おかしく教えてくれた。
だが、節子は上手く笑えなかった。
相手が何を言っているのか理解する事もないまま、ただ曖昧に相槌だけを打っていた。
このまま影山という男と一緒に居て、本当に蛇神を忘れられるのだろうか。
その僅かな希望にも、やはり暗雲が立ち込めていた。
TO BE CONTINUED.
2009.05.13
引用:故事ことわざ辞典・学研
[Back]