エシャジョウリ。
出会った者はいつか必ず別れる運命にあるという、この世の無常を説いた仏教の言葉。
「定離」は、必ず別れ別れに離れるの意。
かむなぎ
034/会者定離
節子は驚愕した。
目の前に居る男は、先程までの美しい蛇神ではない。
決して似ても似つかない、半分半妖としか表現できない妖怪だった。
正体を明かすといった蛇神は、その姿を異様に変化させた。
大蛇でもなく、人型でもない、その変化途中の容貌をしている。
流れる瑠璃色の髪は歌舞伎の役のように逆立ち、禍々しい角が伸びている。
蒼い目は濁り、般若隈が浮き出ており、瞳孔が本物の蛇かと見紛うほどに細くなっている。
鼻口は上を向き、口の端は裂け、そこから長い舌が覗いている。
皮膚は所々が鱗と化していた。
「私は醜いだろう?」
声もしゃがれていた。
喉に毬でも刺さっているような声色だ。
節子は何も返す事が出来なかった。
まさかこれが蛇神だなんて、到底信じられなかった。
何処を取っても、美しさの片鱗さえない。
蛇神の面影も見付けられない。
「私は、呪詛の神として崇めたてられていた時代もあってね。
神とて人間と同じだ。
一度でも悪行に手を貸せば、その色に染まる。
氏子(うじこ)次第で、神は善神にも悪神にもなるんだ」
蛇神は氏子と氏神(うじがみ)の話をしてくれた。
節子には聞き慣れない言葉だったが、彼が丁寧に説明してくれたものだから、よく分かった。
姿こそ変われど、口調は変わらない。
人となりも変わらない。
それなのに、彼を形作るものは余す所なく醜怪化している。
そもそも氏子とは、ある特定の神を崇める人間の事である。
そして、氏神とは、その人達によって尊崇されている神を指して言う。
神は、人に信心されてより強大な力を持つ。
徳を得る。
氏子が熱心に渇仰してくれれば、氏神もそれに応えようとするものだ。
人間の親と子のような関係を持つ。
神は、人間が取り付く事など出来ない不可侵領域を持った絶対的な存在だと、節子は思っていた。
だが、神とて普通の人と同じ感覚も持ち合わせているのだ。
氏子が困窮すれば、救いの手を差し出してしまう。
たとえそれが、氏子の私利私欲の目的で仰がれていたとしてもだ。
人間の親とて、子供が困っていれば助けようとするだろう。
悪事に走れば更生させようとするが、最後にはその泥を被ってでも庇おうとする。
我が子を痛め付ける輩が現れれば盾となり、時に剣となり、それを懲らしめようとする。
共犯者となる。
「神」は、「人間」という子供を抱えた親なのだ。
蛇神は、過去に生贄は取らなかったと言っていた。
だが、神ゆえ、氏子は居た。
自分を懸命に頼ってくれる可愛い氏子が困っているならば、救済してやろうというのが氏神だ。
蛇神も多分に漏れなかったのだろう。
蛇神は、氏子に力を貸していた。
蛇神の氏子は、ある日、自己の利益の為だけに他者を呪い、過ちを犯した。
その氏子の罪を、蛇神は自身で受けた。
そして、悪神として成り下がったのだ。
勿論、今はそのような事もないらしい。
元のように善神として皆を見守っているだけだ。
蛇神を信心していた氏子も、その後、衰退してしまったようだ。
しかし、一度でも悪事の片棒を担いだ蛇神の姿は、悪神のものへと染まったままだった。
元々は大蛇なのだが、ふとした瞬間につい負の容姿が漏れ現れてしまうのだ。
普段は美しい人型を取れていても、俗事に溺れている時などは、つい醜いものへと戻ってしまいがちだという。
それだけ説明し終えた蛇神は、とんと喋らなくなった。
節子も相変わらず返す事が出来なかった。
彼の今までの心内を察する事など、到底出来る筈がない。
蛇神が節子の頬を撫でた。
懇願するような手付きだった。
いつものさらりとした肌ではない。
ざらざらした触りが、薄気味悪くさえある。
節子は、無意識にその手から逃れようと身体を捩ってしまった。
心底嫌だった訳ではないが、少なくとも心地良くはなかった。
何より、今一緒に居る相手が人ならざる醜いものだと実感するに十分過ぎる不快さはあった。
神の情は深い。
先程も、「食らってしまいたい程だ」と言っていた。
この容姿をした蛇神であれば、その言葉通り、節子を頭の先から足の爪まで噛み砕き、血すらも啜ってしまいそうだ。
それらの情景は故意に想像せずとも、容易に脳裏を過ぎる。
その節子の小さな変化を、蛇神は見逃していなかった。
蛇神は、節子を抱いていた腕を緩め、苦く笑った。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「セツ、帰る準備をしなさい」
「え?」
「やはりそなたには早過ぎた。
出来るならば、もっと私を寛容するだけの気構えが出来てから、この姿を見せたかったものだ」
額を掌で覆い、蛇神が呟いた。
「もう私はそなたから手を引こう。
これ以上、会う事も無い」
「蛇神様?」
「そなたに掛けた呪いは全て解いておく。
これでそなたは不老長寿ではなくなるし、他の男に身体を開いたとて快を拾う事が出来る。
私とは完全に縁を切る事が出来る」
節子は、言われている意味が分からなかった。
何故、蛇神がそのような事を言い出したのかも分からなかった。
困惑した頭で、彼の言葉を必死に反芻する。
だが、脳内はそれらを理解しようとしない。
蛇神が、転がっていた扇を手に取った。
それで軽く顔を覆い隠せば、次の瞬間には、彼は元の姿に戻っていた。
瑠璃色の髪に、陶磁器のような肌、端整な顔。
節子がよく知っている彼だ。
眉根を寄せ、蛇神は節子を見た。
「元気で、セツ」
その言葉に、節子の中で渦を巻いていた靄が一気に弾けた。
ここで彼の元を離れてしまえば、もう二度と会えないのだと悟った。
蛇神の言っていた事を、完全に理解した。
彼は、節子に別れを告げているのだ。
これで終わりだと言っているのだ。
蛇神が部屋から出て行ってしまった。
節子は浴衣を掻き寄せ、慌ててそれに腕を通した。
そして、縺れる足で立ち上がり、蛇神を追った。
このままでは本当に終わってしまう。
それだけは嫌だった。
「蛇神様!」
蛇神は背を向け、廊下を奥の方へと進んでいた。
節子はその背中に必死に駆け寄る。
「待って下さい!」
しかし、蛇神は立ち止まらない。
代わりに、青の髪をした少年が脇から出て来た。
青蛙だ。
「こりゃ、止めんか」
青の少年が節子の前に立ち塞がった。
少年に差し止められたせいで、節子は先に進められなくなってしまった。
蛇神は、一度も節子の方を振り返る事なく、奥の廊下を曲がって行った。
節子からは、蛇神の姿が見えなくなった。
いつも優しかった筈の彼が、背中を向けたまま去ってしまった。
どうしてこうなってしまったのだろう。
節子は、泣きたくなった。
「青蛙さん、離して下さい」
「いかん。
蛇神様は、もうお前さんを必要としとらん。
お前さんもとっとと人間の元へ戻った方がええ」
「そんな!」
子供とは思えない力で押さえられた。
これでは、蛇神の傍に行けないどころか、少年を振り切る事も出来ない。
蛇神に先程の事を謝りたいというのに、それさえも許されない。
節子は、無自覚とはいえ、彼を傷付けてしまった。
彼を拒否してしまった。
その非を詫びたいのだ。
「私、嫌です。
さっきのは、ちょっと驚いただけで」
「とにかく、もう蛇神様にお前さんは要らんという事じゃ。
帰れ、わしが送ってやる」
「嫌、嫌です」
蛇神はこれ以上節子との対話を望んでいないと言う。
しかし、いきなりそんな事を言われても、納得など出来る筈が無い。
確かに、彼の真の姿は決して美しいとは言えなかった。
禍々しいと称した方が馴染むだろう。
怖くないと言えば、嘘にもなる。
蛇神はあの化け物達以上の気味悪さを持っていた。
彼は神ゆえ、程度も強大だったのだろう。
だが、こんな所で終わりになどしたくないのだ。
どうしても嫌なのだ。
蛇神の醜悪な姿はまだ慣れないが、これからゆっくり打ち解けようと思えば出来るかもしれない。
自ら受け入れる姿勢だって出て来る筈だ。
いずれにせよ、ここで今生の別れだなんて信じたくない。
節子は、大声を張り上げて蛇神を呼んだ。
すると、琵琶を携えた黒狐がひょこりと現れた。
「黒狐さん!」
狼狽しきった節子を見た黒狐は、目を丸くさせた。
しかし、青の少年が顰め面をして首を横に振れば、黒狐も苦々しく眉を寄せた。
何かものを言いたげな表情だったが、元より彼は喋らない性質だ。
その寡黙な目は、同情しているようにも、哀れんでいるようにも見える。
そして、結局は節子に申し訳なさそうに頭を垂れただけで、すぐにその場から消えてしまった。
「蛇神様!」
黒狐にも協力を得られず、節子は愛しい人の名を呼ぶ事しか出来なかった。
「蛇神様、蛇神様!」
舘内全てに行き渡る程の大きな声を出した。
こんなにも大声で誰かを呼び、求めた事など、生まれてこの方たった一度も無いように思えた。
幼子の頃、母親とはぐれ、迷子になった時でさえ、ここまで必死ではなかった。
蛇神への想いは溢れんばかりだった。
謝りたいし、傍に居たかったし、離して欲しくもなかった。
こんな所で、こんな些細な事で立ち消えにしたくなかった。
節子には、もう彼無しでの日々など考えられなかった。
つい最近まで神の存在など知らなかったというのに、もはや彼は心身の奥底にまで巣食っている。
なくてはならない存在になっている。
「私、蛇神様の事が好きなんです。
お願いだから、一緒に居させて下さい」
心根の一切を吐露するつもりで叫んだ。
青の少年の拘束を突破する事も出来ないから、ただ言葉に全てを込めた。
蛇神は、何処かでこの切なる想いを聞いてくれているだろうか。
「好きなんです!」
喉が潰れる思いだった。
堪えていた涙も零れ落ちた。
先程、農夫達に陵辱された時より、余程辛かった。
蛇神さえ戻って来てくれるのならば、他のどんな苦痛も取るに足らないに決まっている。
心臓が張り裂けてしまいそうだ。
身を引き裂かれる。
臓器の全てが悲鳴を上げている。
このままでは、感情に全てを壊されてしまう。
節子の目の前は黒く染まり、暗澹たる所まで堕ちていった。
TO BE CONTINUED.
2009.05.11
引用:故事ことわざ辞典・学研
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