ソウカイノイチゾク。
広大なものの中の、きわめて小さいもののたとえ。
「滄海」は青い大海。
大海原の中の一粒の粟の意から。
かむなぎ
018/滄海の一粟
牛車の屋形箱が、がたがたと揺れた。
安定を崩さぬよう、身体は蛇神が支えてくれている。
お陰で崩れ倒れる事は無かったが、胸の内には違う種の心配があった。
あれよという間に此処まで進められてしまったが、本当にこのまま出雲という場所に行ってもいいものだろうか。
茶蛙は上手くやってくれるのだろうか。
周りが、いつもと違う己に違和感を覚えないだろうか。
また化け物が襲って来た時も、どうするのだろうか。
茶蛙はたった一人で無事に切り抜けられるのだろうか。
節子の姿を取ったまま、身を護る事は出来るのだろうか。
不安に思う事は、多々ある。
「茶蛙さんは、大丈夫なんですか?」
蛇神の腕の中、節子はそっと聞いてみた。
また牛車が不安定に大きく揺れたが、蛇神が抱いてくれているので、体勢のバランスを崩す事は無い。
「任された仕事をせずにいたせいで、セツは攫われた。
あれくらいは一つの罰として丁度いいだろう」
やはり、茶蛙が目を離した隙に節子が拉致されてしまった事は、蛇神に知られてしまっていたらしい。
元より彼は神なのだから、それも無理も無いのかもしれない。
或いは、他の蛙達がいたずら半分で告げ口でもしたのだろうか。
蛇神の口振りは、茶蛙の心配などしていないようだった。
あの小さな蛙の子一匹がどうやって化け物達に太刀打ちするのか分からないが、何か秘策でもあるのだろうか。
それとも、最初から蛙などどうなっても良いと思っているのだろうか。
仮に茶蛙の安否は問題ないとしても、「己の代役をきちんと果たしてくれるのかどうか」という点は不明なままだ。
蛙達の中身は、言葉遣いとは打って変わって非常に幼い。
ちょっとした弾みで正体を晒しかねない。
節子は、出雲から戻った際の皆の目を想像して辟易とした。
茶蛙がおかしな事をしてくれなければいいのだが。
周りが余りに白い目で見てくるようだったら、現世を捨てて蛇神の社に住まうてしまうのもいいかもしれない。
蛇神は喜んで迎え入れてくれるだろう。
先行き不安な未来を想像して、そのような逃避思考まで脳裏を過ぎってしまった。
そういえば、蛇神も元々節子を社に永住させようとしていたような気がする。
節子が一人でうんうん考えていると、ごとごとと揺れていた牛車がぴたりと止まった。
目的地に着いたのだろうか。
屋形箱の簾(すだれ)から目を覗かせようとすると、また牛車は動き始めた。
しかし、先程とは比べ物にならない程に緩やかな揺れだ。
お陰で、身体の重心が取り易くなった。
簾に近付いて、節子は外の様子を伺い見た。
其処には、狂い咲いたような無数の枝垂桜が左右に連なっていた。
節子達を乗せた牛車は、車が数台通れる程の広さの土手を進んでいるようだった。
その土手を囲むように乱れ咲いた桜のせいで、砂利の地面には沢山の花弁が落ちている。
土手のすぐ横には流麗な川があった。
泳いでいる魚まで透き通って見える。
空も有らん限りに澄み渡っているので、地平線との境が付かなくなっている。
川の向こうには、小さな集合民家が所狭しとあった。
京都の平安京のように整然と区画された住宅に、往路。
賑やかな商店街のようなものも並んでいる。
そして、牛車が向かっている先に一際目立って神々しく存在していたのは、厳かに続く築地(ついじ)の塀。
その塀の向こうに、大きな大きな屋敷。
「う、わあ」
驚きの余り、節子は声を漏らした。
遠くからでも分かるその屋敷の大きさは、学校など比では無い。
東京ドーム数個分はあるだろうか。
一度中に入れば、迷子になること請け合いだ。
「大きな屋敷だろう。
此処が出雲だよ」
蛇神が悠然と説明してくれる。
しかし、余りに大き過ぎるので、屋敷というより一つの行楽地と表現した方がいい程だった。
古来の建物が聳え立つ、和装テーマパークだ。
中には、何十畳とある和室の部屋が一体幾つ連なっているのだろうか。
節子は、一度だけ写真で出雲大社を見た事があった。
確か、歴史の授業中だっただろうか。
だが、その写真の中の出雲大社は、古風な本殿や拝殿がぽつぽつとある程度だった。
それなりの広さはあったようだが、此処までではなかったように記憶している。
どうやら現世での「出雲」と神々の中の「出雲」とは異なるようである。
今、目の前にある出雲とやらは、古文の時間に習った源氏物語に出て来る六条院に似ていた。
いや、それよりももっと無辺際なのだろうか。
驚きの余り呆然としてしまっている節子を手繰り寄せ、蛇神は言った。
「出雲では、神無月の事を神有月というのだよ」
「え?
そうなんですか」
「この月になったら、全国の神が出雲に集まり、一年の事を話し合ったり休息の場として寛いだりする。
つまり、出雲以外には神が居なくなってしまう所以で、神無月と呼ばれるようになったんだ。
その逆で、出雲には神が集まる訳だから、神有月と呼ぶんだよ」
蛇神は懇切に教えてくれた。
出雲で十月の事を「神有月」と表現するなど、初めて聞いた。
今まで然程気に掛けた事はなかったが、蛇神は随分と古来の神のようである。
高校の古文であれば、色々と教えてくれるかもしれない。
もしかしたら、学校や塾の教師よりも詳しい可能性がある。
「まあ、今は然程神も集まっていないだろうけどね」
感心していると、蛇神はぽつりと付け足した。
「え?
でも、今日から神無月だから、出雲に神様が集まるって」
そう言いませんでしたか、と節子も反論する。
節子は、今日から十月になるからという理由で出雲まで連れて来られたのだ。
蛇神以外の神も多々来ているのだと思っていた。
それなのに、彼は笑って首を振る。
「実は、それも旧暦で数えないといけない。
旧暦で言えば、今年の神無月などまだ先なのだよ」
悪気もなく言うその神に、節子はあんぐりと口を開けた。
新暦では今日が十月の始まり。
つまり、神無月だ。
だが、蛇神は旧暦で暦を数えていたのだ。
旧暦で言えば、今日など神無月に全く無関係な月に違いない。
蛇神に一本取られてしまった。
「じゃあ、何でこんな所に来たんですか?」
怒っていいやら驚いていいやらで、節子は蛇神に顔を寄せた。
一応凄んだつもりだったのだが、蛇神には効果が無かったらしい。
逆に身体を掴まれ、元のように後ろから抱き締められてしまった。
「そなたの身に危険が及んだからに決まっている。
此処は安全だ。
一寸した息抜きだと思って楽しむのもいい」
髪の毛を掬い、耳裏に口付けられた。
どうもこの神は節子に触れたがるきらいがある。
何か事ある毎に身体の何処かに唇で触れられる。
そして、それを不快だと思っていない自身も困る。
蛇神の唇は、人間よりやや体温が低いようだ。
蛇故なのか、人間を超越した存在だからなのかは分からないが、いつもひんやりとしている。
くすぐったくもあるが、決して鬱陶しいものではない。
恥ずかしいのもあるが、とても心地良い。
二人を乗せた牛車が出雲の屋敷の近くまでやって来た。
傍に寄って初めて分かったのだが、塀は純白一色で、非常に高潔だった。
落書きなどもっての外、汚れ一つも無い。
さすが神の世といえよう。
そのいつまでも続きそうな塀に沿って、牛車は進んでいく。
やっと屋敷内に入る総門が見えた時、その界隈で誰かが立ち話をしているのが見えた。
片方は厳しい顔をした男性で、もう片方は紅葉色の髪を持つ美しい女性だ。
「あの方は浅間大神といって、富士山の神だ。
その隣に居るの方は竜田姫。
秋を司る女神だね」
蛇神が二人を指して紹介してくれる。
出雲は旧暦の神無月ではないといっても、神達が全く不在だという訳でもないようだった。
節子達と同様、息抜きに顔を出しているのかもしれない。
浅間大神と竜田姫と呼ばれる神二人は、楽しそうに笑っている。
門に背を凭せ掛け、居眠りをしている天狗も居た。
顔を真っ赤に染め、手には酒瓶を持っている。
酔っ払ってしまっているのだろうか。
その横には、天狗の錫杖(しゃくじょう)を突いているカラスまで居る。
その一行を通り過ぎた車は、ついに門を潜った。
中に入れば、車宿(くるまやどり)の番をしているらしい者達が忙しなく走って来た。
牛車を引いていた筈の赤と黄の少年は、いつの間にやら蛙姿に戻り、牛の上で居眠りをしていた。
牽引の仕事は完全に忘れているようである。
車から降りた蛇神と節子は、牛車を番の者に任せ、屋敷邸内の更に奥へと進んだ。
蛇神に手を繋がれた節子の胸は、まだ見ぬ未知の世界に高鳴っていく。
また一つ門を潜れば、真っ白に敷き詰められた白い小石に大きな池が目に映った。
どうやら庭のようだ。
五葉の松、紅梅、桜、山吹、岩つつじなど、春に咲く木をある限り集めている。
所々に草木を一叢ずつさり気無くあしらっている様も、非常に風情がある。
池の中程に掛かっている赤い反り橋には、若い男女が戯れている。
庭の前には、豪華な寝殿がある。
その寝殿と対とを結ぶ壁の無い廊下建物である透渡殿(すきわたどの)に、小袖を捲し上げている者が盆を持って走っていた。
恐らくこの出雲の下使いだろう。
屋敷内の四方八方から漏れる声は、楽しさと喜びに満ちている。
何処かで宴会でもなされているのだろうか。
節子は感嘆の溜息を漏らした。
これは、正しく大御殿だ。
蛇神の屋敷も十分凄いと思っていたが、その数十倍もある広大なこの出雲は目を瞠るものがある。
気抜けしている節子に、蛇神が優しく手を引いていく。
よろめくような足付きになりながらも、節子はその後を付いて行った。
そのまた後ろに、赤と黄の蛙が続いて来た。
まだ二匹とも眠いようで、時折地面に顔をぶつけている。
「オロチ、オロチではないか」
蛇神と節子が庭を突き進んでいると、前方から翔って来る者が居た。
鼻が異常に長く、背の丈もぐんと大きい男だ。
口が明るく光っており、目は八咫鏡のように円く大きく、頬は真っ赤なホオズキのように照り輝いている。
まるで猿のようだ。
蛇神は、やや眉根を寄せて立ち止まった。
「その呼び方は止めてくれ。
私はヤマタノオロチではない」
「そう変わらぬだろう。
それにしても、人間連れとは珍しい。
ああ、向こうの離れに、そちの苦手なスサノオノミコトが来ているのも見たぞ」
蛇神の知り合いらしい男は、愉快そうに笑った。
その男が言う「スサノオノミコト」という名は、節子も聞いた事がある。
古来、ヤマタノオロチを退治した勇猛果敢な神である。
そういえば、「ヤマタノオロチ」とは大蛇の神だっただろうか。
蛇神も、元は蛇だ。
同じ種族のよしみで、蛇を退治したと言われるスサノオノミコトは苦手なのだろうか。
その「スサノオノミコト」という名を聞いただけで、蛇神は不快そうに目を細めていた。
「そちはクシナダ姫になるのか?」
屈託もなく笑顔を振り撒く猿に似た男は、節子に視線を合わせて問うてきた。
「スサノオノミコト」や「ヤマタノオロチ」は聞いた事があったが、「クシナダ姫」とは初耳だ。
「クシナダ姫、ですか?」
訳も分からず小首を傾げる。
代わりに蛇神がむっとしたまま答えた。
「セツがクシナダ姫になれば、スサノオノミコトに取られてしまう。
御免被りたい」
どうやらクシナダ姫とやらは、スサノオノミコトの女性らしい。
節子は脳内に残っていた日本神話を思い起こした。
そもそもスサノオノミコトは、とある女性を妻として貰い受ける代わりに大蛇を退治したのではなかっただろうか。
そうだとすれば、その妻になった女性こそがクシナダ姫とやらなのだろう。
それにたとえられた蛇神は、甚く面白くなさそうだった。
名も知らぬ愛想の良い猿のような男は、その後すぐに門外へと出て行き、眠りこけている天狗を叩き起こしていた。
その姿が小さくなってから、節子は蛇神の手を引っ張った。
「さっきの方はどなたなんですか?」
恐らく神の一人なのだろうとは思うが、果たして何を司っているのかまでは分からない。
節子の問いに、蛇神は一度剣呑に眉を顰めたが、すぐに常通りの顔付きになった。
「猿田彦大神だよ。
少々冗句が過ぎる神だけどね」
蛇神の口調は決して厭うているようではなかったが、何処か厄介だと言わんばかりだった。
節子をクシナダ姫にたとえた事が不愉快だったのか、或いは自身がヤマタノオロチと呼ばれたのが面白くなかったのかは分からない。
多分に、その両方だろう。
だが、それよりも彼はスサノオノミコトという日本神を苦手としているようだった。
いつも悠々としている彼にも忌んでしまう対象があるだなんて、何処かおかしくもある。
また歩き始めた蛇神に引っ張られ、節子は御殿内の方へと近付いていった。
ふと気になってもう一度門の方を振り返れば、猿田彦大神も此方を見ていた。
目が合えば、手まで振ってくれた。
なかなか気のいい神のようである。
蛇神の言うように冗談好きなのかもしれないが、ユーモアに長けた親しみ易い神だと思った。
「湯でも浴びるかい?
此処には、私の社とは比べ物にならない程の大きな湯場があるよ」
屋敷に入る階に足を掛けながら蛇神が言う。
こんなにも大きな御殿なのだ。
風呂も遊園地のようになっているのではないだろうか。
数秒考えたきり、節子は「はい」と応えた。
後ろに居た蛙達も、嬉しそうにはしゃいでいた。
TO BE CONTINUED.
2009.02.26
引用:故事ことわざ辞典・学研
参考:紫式部「源氏物語」
[Back]