何か事を始める時に、万端な準備が出来ればいいね。
勿論、世に溢れているトラブルのほとんどは、交通事故みたいに急にやって来るのだけれど。

Just Marriage
028/ready

それは、この世界に来て半年ほど経った頃。
ある日突然、寝耳に水よろしく告げられた。

「お早うございます、咲雪様」

目が覚めて「やけに香ばしいいい匂いがするな」と其方に目を向ければ、そこには柔らかな朝日を浴びたラークさんが、手に茶器を持って窓辺に立っていた。

何で朝一から私の部屋にラークさんが居るのだろう。

不思議に思って身体を起こせば、彼は私の傍に寄って来て、ベッド脇にあるローチェストにカップを置いた。
カップからは、ストロベリーの匂いが漂っている。

「おはよ、ラークさん。
どうしたの?」

そう口を開けば、ラークさんは一瞬だけ申し訳なさそうな顔をして、ベッド端に腰を下ろした。

ラークさんの体重分だけ、ぎしりとベッドが軋む。
それだけの事なのに、ついドキリとしてしまう。

別に疚しい事など無いというのに。
況してや相手はこの城きっての一番紳士、ラークさんだというのに。

しかし、彼は乙女の心内をざわめかせるのに十分な美しさを持った人だ。
たとえ彼に恋心があろうが、なかろうが、寝起きに近くに来られて落ち着けないのは、仕方がない。

ラークさんは私の心内など知ってか知らずか、いつもの温柔な笑みを崩さない。
彼は日頃、紅茶ばかり飲んでいるけれど、近くに寄ればマリンの優しくて甘い匂いがする。
きっと、彼が付けている香水なのだろう。

それが紅茶と混じって鼻に届いても、嫌な感じはしなかった。
普通であれば、飲食類と香水の匂いは互いに喧嘩をする筈なのに、それが全くと言っていい程に無い。
もしかしたら、この辺りも彼の不思議の一つなのかもしれない。

「勝手に私室に入ってしまい、申し訳ありません。
重ね重ね失礼ですが、実は明日、戴冠式をしなければならない事に、急遽決まりまして」
「タイカンシキ?
何、それ」

腰を落ち着けたラークさんは、眉尻を下げて私に言う。
けれど私は、言われた言葉にとんと思い当たる物が無かった。

タイカンシキ?
一体何なんだろう、その訳の分からないものは。

阿呆の子のように私が繰り返した単語は、宇宙から届いた言葉のようだった。

きょとんとしたままラークさんを見遣る。
ラークさんは、困った顔で私の頭を撫でてくれた。
その手付き一つも、やはり非の打ち所が無い程に流麗だ。
ただ、寝癖だらけの髪を梳いてもらうのは、心なしか恥ずかしかった。

私の寝起きの髪は、なかなか酷い事になっている事が多い。
恐らく、今も凄い寝癖が付いていると思う。

ラークさんはある一部分だけを一辺倒に梳いて、撫で付けるようにしてくれた。
その内、彼に触れられている付近だけが、ひんやりと冷たくなった。

多分、例の魔法なのだろう、と思う。
それも、ラークさんお得意の、水の魔法だ。

彼にかかれば、寝癖も一たまりもないのかもしれない。
まあ確かに寝癖には水が一番覿面だし、有り難いと言えば有り難い。
だけど、こうも簡単に直されてしまっては、世の女の子の日頃の努力は一体何なのだろう、とさえ思う。

そうぼんやりとなすがまま身を任せていると、彼が次の言葉を次いだ。

「戴冠式というのは、咲雪様という王のお披露目をする式典です」

その告げられた内容に、私は思い切り目を白黒させた。
「戴冠式」と言われて全く分からなかった私でも、その説明だけはすぐに理解出来た。

王のお披露目?
つまりそれは、私のお披露目という事?

以前、町の人達がやんややんやと文句を言って来た際、「王を見せろ」だの何だの、そのような話が出ていた事を思い出す。
ついに、その日が来てしまったのだろうか。

矢庭に、あの時の恐怖心が蘇る。
城下の人達が血相を変えて城に押し掛け、それを止める為にシンが怪我を負ってしまった、あの日の事を。

何だかんだと慌しく、その件の話は立ち消えになってしまったのかと思っていたけれど。
とうとう、来てしまったのだろうか。
もしそうなのだとしても、もうこれ以上このまま流してしまう訳にはいかないのだろうか。

「無理、だよ。
沢山妖魔が来るんでしょ?
全国各地から、すっごいのが来るんでしょ?
私、そんな沢山の言葉も喋れないし、日本語だけで精一杯だし」

私は、頭を横に振った。
だが、言った瞬間、気が付いた。

そういえば、最初から私は言語で困る事が無かった。
私は日本語しか喋る事が出来ないし、勿論日本語しか理解出来ないし、学校で習っているものの、英語もチンプンカンプンに等しい。

それなのに、この世界の人達の喋っている事は全て理解出来るし、分からないと思った事もない。
これは一体、どういう事なのだろうか。

もしかして、この妖魔の人達は皆、私に合わせて日本語で喋ってくれているのだろうか。
ラークさんや薄羽はフランス、リッたんはドイツ、エスはイタリア、シンは中国出身だと聞いた事があるが、彼らは皆、バイリンガルどころか、全世界の言葉を操る事が出来るのだろうか。

妖魔という生き物は、強靭な肉体を持っているだけでなく、途方も無い程に頭もいいのかもしれない。
まあ、シン自身も「何百年も生きて来た」と言っていたし、それだけ年月があれば、色んな国の言語をマスターしていてもおかしくはないけれど。

困惑していいものやら、感心していいものやら、分からなくなった。
頭を抱えて、シーツに顔を埋める。

すると、ラークさんは何か思い出したように口を開き、ぽんぽんと私の肩を叩いた。

「そういえば、咲雪様にはお話していませんでしたかね」

何だろうとゆっくり頭を上げれば、ラークさんがにこにこ顔で私を見つめている。

「私達妖魔の公用語は、咲雪様が言うところのギリシャ語。
先代の王がギリシャ出身でしたから、自ずとそうなったのです」

その言われた内容に、私は更に混乱した。

「どういう事?
私、ギリシャ語なんて喋れないし。
でも、ラークさんとかシンとか、皆、私が分かるように日本語喋ってくれてるじゃない」

私は思った事を、そのまま言った。

もしこれがシンであれば、私の鈍間な思考回路に思い切り顰め面をしていただろう。
私自身おかしな事を言った自覚はないし、普通の人間の常識で考えれば当たり前の疑問だと思うが、妖魔の基準でしか考えられないシンならば、そんな私の良識など考慮してくれる筈もない。

その点、いつも全て分かり切っているように色んな事を教えてくれるラークさんの、何と寛大な事か。
まあ、此処に私を連れて来たのはラークさん本人なのだから、それも責任の一環なのかもしれないけれど。
それでも、私はラークさんのこの心尽くしが大好きだし、今まで何度も助けられて来たと思う。

「咲雪様。
生憎、私達は日本語を喋っていませんよ」

柔らかい笑みでやんわりと否定するラークさん。
それとは反して、益々疑問符が大きくなる私。

思わず眉を顰めて見つめ返すと、彼は続きの言葉をすぐに発してくれた。

「勿論、私に限ってですが、ほんの少しは勉強しているので、日本語もある程度は分かります。
現に、咲雪様を連れて来る際、日本では日本語を遣いました。
とはいえ、ほぼ無知と言っても過言では無いレベルですが」
「じゃあ、何で?
何で私は皆の言ってる言葉が分かるの?」
「それは咲雪様自身が私達の話す言葉を理解し、自身も喋られているだけの事です。
最も、正しくは『ギリシャ語』というより、古代ギリシャ語にとても近い、そこから発展した特融の言語ではあるのですが」

ラークさんは私の頭を撫でていた手を離して、ローチェストの上に置いていたティーカップを取った。
そして、それを私に寄越し、「どうぞ」と、飲むようにと勧めてくれた。

手渡された紅茶は、ハニー入りのストロベリーティーだった。
甘い苺の香りにプラスして、後味で広がるまろやかな蜂蜜。
それは朝の一杯にとてもマッチしていて、程好く空いたお腹も甚く喜んだ。

だが、その紅茶に口を付けながらも、やはり私は浮かぶ疑問に納得がいかなかった。

私はギリシャ語なんて勉強した事がない。
古代ギリシャ語だって、もってのほかだ。

それなのに、この私自身がギリシャ語を喋っているだなんて、どういう事だろう。

ギリシャ語の単語なんて、たったの一つも思い浮かばない。
その上、そこからまた発展して派生した妖魔の言語なんて、どうして理解出来ようか。

そんな私の疑問だらけの脳内が伝わったのか、ラークさんは尚も淡々と続けてくれた。

「咲雪様、私はこれでもそれなりに知識を得た妖魔です。
ただ、私が貴女様に細工をしただけの事」
「細工?」

お馬鹿な私の脳味噌は、完璧に事の詳細を把握する事など、到底出来ない。

「うーん、分からない。
一体どうやったの?
あのアニメの猫型ロボットみたいに翻訳蒟蒻とか、そういうのを使ったって事?」
「いいえ、咲雪様。
お忘れですか?
妖魔には妖術が使えます。
人間世界には無い、特殊な薬草もあります。
要は、私が咲雪様の前頭葉や側頭葉に直接アプローチする細工をしたのです。
これくらいの事は、私達妖魔にとっても容易な事なのですよ」

ずるずると紅茶を啜ったら、口の中に苺ハーブの香りが広がる。
ラークさんの嗜好なのだろうか、揺れる紅茶の水面には小さな食用花弁も浮いていた。

「たとえば私は、今こうやって特殊な言語で話している以外に、フランス語が喋れます。
これでも一応フランス出身ですからね、マドモワゼル」

やや茶化すようにしてラークさんが言う。
その発音は、確かに本場のものだった。
普段は聞き慣れない、甘ったるくて舌を巻くような言い方だ。

私は、その滑らかで優しい響きに、迂闊にもドキリとしてしまった。

「でも、私」

ほんの少し高鳴った胸を誤魔化すように返答をすれば、ラークさんは私の手を取った。
そして、その私の手を、優しい言葉と共に両手で包み込んでくれた。

「大丈夫です。
咲雪様は、中央の王座に座っているだけでいいのです」
「それって」
「後は、私とシンで何とか致します。
ただのお披露目ですから、すぐ終わりますよ」

「ね?」なんて可愛らしく、けれどやはり穏和な表情を一切揺るがさないまま言うラークさんは、ずるいと思う。
そんな風にお願いをされては、幾ら私であっても断りきれない。

つい首を縦に振りそうになるところを我慢して、ぼそぼそとラークさんに問うた。

「変なスピーチとか、しなきゃ駄目なんでしょう?」
「その辺りは何とか致しましょう」
「質疑応答とか、そういうのは?」
「大丈夫です、咲雪様」
「何か文句を言われたりしたら、どう返せばいいの?」

彼は平気な顔をして言うけれど、私には自信がないのだ。
度胸だってない。
当たり前の話だが、王のお披露目だなんて大それた事、生きてきた上で一度も経験した事など無いのだから。

果たしてどういう流れで進んでいくのもかも分からない。
ただ、沢山の人の前で自分が晒される事だけは確かだろう。
「お披露目」というくらいなのだから、少人数で小さく終わらせるだけで済む筈も無い。

大人数の妖魔の前で、私がきちんと王様らしく出来るかどうかと問われれば、はっきり言ってかなり怪しい。
むしろ、失敗する可能性の方が大きいのではないだろうか。

私には王様らしい威厳がないし、妖魔であれば普通知っていてもおかしくない知識も、非常に少ない。
ラークさんみたいに魔法を使う事も出来ないし、皆を率いていくだけの雄弁な舌も、統率力も無い。

煮え切らないままの私に、ラークさんは握っている手にきゅっと力を入れた。
妖魔という性質のせいか余り体温が高くないくせに、ラークさんの掌は、決して冷たくない。

「咲雪様」

小さく名前を呼ばれた。
それにふと顔を上げれば、そこには真剣な顔をした、このお城の執務役が居た。

さっきまで和らげられていた眼が突然整った様と言ったら、本当に「女泣かせ」としか形容しようが無い。

その目に見詰められた瞬間、私は完全にラークさんに捕らえられてしまった。
恋心とかそんなもの等なくても、綺麗な男の人の真面目な顔にドキドキしてしまうのは、年頃の女の子として仕方が無い事なのだから。

「私とシンヅァンという上等騎士が、何の為に貴女様の傍に居るとお思いですか?」

有無を言わさぬ、お城を支えている「騎士」としての口説き文句。

ラークさんは優しい。
優しくて、気配り上手で、何より強かな人だ。

だから、彼がそこまでして言うお願いを結局断る事も出来なかった私は、その「戴冠式のお披露目」という仕事を、甘くて香ばしい紅茶と一緒に飲み込んでしまったのだった。





TO BE CONTINUED.

2008.03.13


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