君の瞳に映るもの。
その全てに僕は嫉妬していた。

Just Marriage
026/JEALOUS

独り言を零す。
別にそういった嗜好は持ち合わせていないが、つい思った事が口を付いて出る。

「どうしろと言うのだ」

むしゃくしゃする気分そのままに、髪の毛を乱暴に掻き揚げる。
然して滑りの良くない俺の髪の毛は、ごわごわと指に絡み付いてきた。

それすらも気に入らなくて小さく舌打ちをするが、気分は一向に良くならない。
むしろこれで舌を打つのも今日で何度目になるのだろうかと、不甲斐ない己に益々苛々した。

人間に想いを寄せるなど、普通の妖魔では有り得ない。
勿論、妖魔に本気で恋をする馬鹿な人間も、早々居る筈が無い。

そう思っていた。
それこそ、つい昨日までは。

昨日の件が無ければ、今日も変わらずそう思っていた事だろう。
それが、妖魔の常識なのだ。
人間を下等な生き物として蔑んでいる妖魔は、何も俺だけでは無い筈だ。

普通、妖魔からすれば、人間など取るに足らない存在なのだ。
そのような下種な存在を恋愛対象として見るなど、考えられる訳が無い。
だからこそ、人間もみすみす妖魔に慕情を寄せる事も無い。

しかし、昨日、俺の執務室に不躾にも突然現れた来訪者、エスク。
それが言うには、紛いなりにもこの城の後継者として君臨している人間の小娘は、本当かどうかは分からないが、よりにもよってこの俺に想いを寄せているのだそうだ。
それだけでは終わらず、エスク自身はその小娘を気に入り、その上、我が部下もその娘を本気で欲しているらしい。

常ならば、これは有り得ない事だ。
どう考えても、異常な状態だろう。

先程から同じ書類を見て、何度も同じ文を読むも、全く頭に入ってこない。
むしろ、関係無い事ばかりが脳裏を過ぎり、ただ苛々とクウィルペンを指で弄ぶだけで時間は過ぎて行く。

この調子では、今日の執務はほとんど明日に回される羽目になるだろう。
明日にもまた、新たな仕事が積まれていくというのに。

また一度、舌打ちを打ちそうになった。
そこで、ちょっと考えを改めようと、敢えて深く息を吐いた。

例えば、エスクが言った「人間の小娘が俺の事を好いている」という話。

冷静になって思い返せば、此処最近のあの娘といえば、俺を嫌っているとしか言いようが無い態度を取っている。
そんな女が、一度たりとも優しくした覚えの無い俺に想いを寄せるなど、本当にあるのだろうか。
いや、何とも大層おかしな話ではないか。

恐らく、あの娘を毛嫌いしている俺を動転させる為に、エスクが言った戯言だったに違いない。
そうとしか考えられない。

愚かな事に、昨日の俺はその解せない揶揄に見事に踊らされてしまっていたのかもしれない。
エスクがあの女を好いていると聞き、俺は僅かながらも不愉快な想いを抱いてしまったのだから。

思い返せば、昨日の俺の行動には、数多の瑕疵があった。
掻き立てられた情動にも、大いに問題があった。

鬱陶しい存在だとしか思った事が無い女の、眠っている姿を見たのと同時。
俺は、何かに浮かされたように、馬鹿げた事をしてしまった。
ほんの些細な間違いだったとしても、あれは確かに痴愚な行動だとしか言いようが無い。

問題は、その後にもあった。
俺は、我が部下リッターがあの娘に想いの丈を告げる瞬間を、目の当たりにした。
その時の俺と言ったら、どういう訳か、得体の知れない怒りと焦りを感じていた。
今まで生きてきて感じた事の無い憤りと焦燥を、異様に強く抱いてしまった。

勿論、その不可解な感情が部下に対してなのか、或いは人間に対してなのか、それとも自分自身に対してなのかは、見当も付かなかった。
だが、あの時の俺が、確かにどうしようもない程に胸を掻き毟る想いに苛まれた事だけは事実だった。

俺は、隠れて様子を窺っていただけだった。
二人を制する事など出来なかった。
そもそも二人も、告白の場に俺が居合わせていた事を知らない筈だ。

俺は、覗きの趣味など持ち合わせていない。
それなのに、何故あの時、身体がその場から動かなかったのか、それも不思議な話だった。
己が其処を後に出来たのは、リッターが立ち去って当分経ってからの事だった。

部下の告白を聞き、一人自室に戻った俺は、無残に破れてしまった己のコートを見て後悔した。
リッターが人間の部屋を訪れた時、俺は姿を隠す為、窓から外に出て身を隠していた。
人間の小娘の部屋は城の上層部にあるので、羽を出さざるを得なかった。
お陰で、フロックコートは羽に突き破られ、無残な姿になってしまった。

俺は、女の部屋になど行くべきではなかったのだ。

「全く、不愉快な」

そして、今。
また何度目か分からない独り言を零しながら、俺は強くこめかみを押さえた。

何から何まで不快な感情に悩まされる。
俺が昨夜、あの娘の部屋に行く事が無ければ。
不可解な口付けをする事も、我が部下の低質な想いを知る事も、二人の抱擁を見る事も、勿論自分の衣類を駄目にする事も、今日こうやって仕事が停滞する事も、何一つ無かった筈だ。

それなのに、エスクの詐術に騙され、おめおめと女の部屋に向かったばかりに、俺の全ては狂わされた。
むしろ、あの女が此方に来てから、俺は調子を狂わされっぱなしだ。

今までは適度に進んでいた執務が、全く終わらない。
剣術に付き合わされるせいもあるが、それ以上にあの女の存在自体が厄介事を引き起こす。

仕事だけならまだしも、精神的にも心中穏やかではなくなった気がする。
たとえば、あの女が表情をころころと変え、誰かと共に笑い合っている様など、見ていて吐き気がする。

俺は、昔より人間を卑下してきた。
それなのに、そんな輩に全てを掻き回されているこの現状は何だ。

一人纏らない慮りを抱え、今度こそ俺はペンをデスクの上に置いた。
椅子に深く凭れかかり、大きく上を仰ぎ見る。
白の壁と同じ壁紙を用いている天井を見詰めるのは、長年この城に仕えるものの、初めての事かもしれなかった。

エスクがまだこの城に四大騎士として共に居た頃。
確かにその時も何度も頭を痛ませたが、これ程までに不可解な気分になる事は無かったのではないだろうか。
ゼカトリア王が居なくなったと知った時も、これから先どうすればいいのかと悩んだが、苛々して仕様がないという事は然して無かったように記憶している。

そんな事を思い出し、「やはり全ての元凶はあの小娘だ」と考えが行き着いた、その時だった。

「お邪魔しても、いい?」

いつの間に開けられたのか、執務室の戸から人間の女が顔を出していた。

つい先刻までその女の事を考えていた為、一瞬心臓がどきりと大きく鳴った。
しかし、それを極力顔に出さぬよう努め、姿勢を正す。

「何の用だ」
「その、今日のお稽古なんだけど」

申し訳なさそうに言葉を紡ぎ、女は俺を見遣る。

「ちょっと時間を遅らせて欲しくて。
その、まあ、無理なら全然いいんだけどさ」

女は、部屋の中には入って来ようとしなかった。
俺も、視線を書類に落としたまま返した。

「何か他用があるのか」
「他用っていうか、何ていうか」

中途半端に濁すので、黙って続きを促す。

「実は、城下とかいう所に行きたいんだけど。
それで、ちょっとシンに付き合って欲しくて」

もごもごと口篭りながら言った女の科白に、俺は「城下だと?」と、僅かに声を荒げて応えた。

昨日の事がある分、得体の知れない憤りは容易に再燃した。
況してや、女は今まで城下になど興味を持っていなかった。
それなのに、急にそんな事を言い出すだなんて、リッターに影響されたとしか考えられなかった。

「その、ネックレスを貰ったんだけど」

黙っていると、女は小さくはにかんだ。

「リッたんから」
「そうか」
「リッたんからネックレスを貰ったんだけど」
「だから、それが城下と何の関係がある?」

どうせ、城下でリッターにお返しを買いたいと言うに決まっている。

俺は、分かっているくせに、分からないフリをした。
全ては既知の事だというのに、素知らぬ返答を返した。

今、女の首からぶら下がっている飾り物が、俺の部下から手渡された事。
それを嬉しそうに受け取っていた事。
二人抱き合って居た事。
贈り物の礼として頬に口付けを受けていた事。
想いの丈を打ち明けられた事。

俺もその現場に居合わせたのだから、それらの全てを知らない訳が無いのだ。

女は、おずおずと部屋に入り、後ろ手で戸を静かに閉めた。
そして、視線を下に下げ、足の爪先を落ち着き無く動かし、俺に昨夜の事を説明し始めた。

「この、赤いやつ」

首から下げた首飾りを、手ですくい取って見せてくる。

「これ、なんだけどね」

俺の腹など知らず、恥ずかしそうに、まるで惚気でも聞かせるように女が言う。
それが、益々癪に障った。

先程放ったペンを、再度手に取る。
そして、目の前に広げていた紙の一つに適当にサインをし、「そうか」とだけ返事をした。

「似合ってると思う?
私、男の人からこんな綺麗なアクセサリーなんて貰った事なくて。
だから、そのお返しを何か探したくて」
「リッターは人ではない、妖魔だ」

少しでも早くこの部屋から出て行って欲しいが故に、俺は愛想の無い返答をした。
目の前の紙面の中身は、ほとんど見ていなかった。

「そんな小さな事を一々言わないでよ」

リッターの事を「人ではない」と言い返した事に、女は不満そうに唇を尖らした。
だが、俺の揚げ足取りなど慣れているのか、女は続けた。

「で、似合うと思う?」
「気に入ったのならいいんじゃないのか」
「私は、シンが何て思うのか聞いてるのに」

人間の小娘は、腕をぶらぶらさせて言った。
不満げな口ぶりで、まるで俺の好みを窺うかのような台詞。
その言葉を聞いた時、俺は抑えていた感情が一度に振り切れてしまう錯覚を覚えた。

「貴様は、俺が何か言えばどうかするのか?」

気が付いた頃には、大声を上げていた。

「似合わないと言えば外し、似合うと言えばくどい程に着飾って見せてくれるとでも言うのか?」

言った後で、「俺は何をのたまっているのだ」と、僅かばかりに残っていた冷静な頭で思った。
しかし、一度口を付いて出た言葉には確かな怒りが込められており、采が投げられた情は止める事が出来なかった。

「何で、怒ってるの」
「貴様が執務中に邪魔をしに来るからだ」

それは、どう足掻いてもただ感情的になったままに出した蕪辞だった。
女は、その剣幕に圧倒されたのか、一歩後退り、両手を胸に当て、目を大きく見開いていた。

「ご、御免なさ…」
「剣術指南以外の時は、急用がない限り俺の前に現れるな。
目障りだ」

眉を寄せ、女は怯えた顔を見せたが、それでも俺の怒気は収まらない。

「そもそも、何故俺が城下へ付き合わねばならん。
俺は忙しいのだ、それくらい考えろ」

言いながら、「そうだ、その通りだ」と思った。

ただでさえ、多忙な執務に追われているのだ。
そんな時に、面倒臭い願いを持って来るとは、気が利かないにも程があるのではないか。

ここまで仕事が捗らないのも、元来この女のせいなのだ。
存在自体が足を引っ張っているというのに、それ以上に俺に迷惑を掛けようなど、どれだけ思案に余させれば気が済むのだ。

そこまで考えが行き着いた俺は、「分かったら、さっさと出て行け」と、荒ぶる口調そのままに、戸を強く指差した。
女は、俺の句にきゅっと唇を噛み締め、恨みがましい眼差しで此方を見てきた。

「私、最初はラークさんに城下に行きたいってお願いに行ったの。
でも…」

胸に当てていた手を首飾りに持って行き、女は緩慢と唇を震わせた。
その今にも泣きそうな、或いはやけに反抗的な物言いに、俺は黙って睨み付ける。

女は続けた。

「ラークさんは、シンに聞いてみなさいって言うから、来たの。
何かあったら困るから、シンに付いて行って貰いなさいって。
それで、お金も…、私は持ってないから、シンに頼めばどうにかしてくれるだろうって」

段々と声を小さくさせながら、女はぽつりぽつりと零すように言った。

俺は、そこまで聞いて、はっとした。
気が付かぬ間に、自分は怒りのまま身体を乗り出して怒鳴っていたようだ。

「けど、御免なさい。
やっぱり、迷惑だったんだね」

女は、扉に手を掛けていた。
そして、俺が何か言う前に、くるりと背を向けてしまった。

その小さな後ろ姿に、次の言が全く思い浮かばない。

「今日の剣術、時間通りでいいから」

そう言い残し、女は部屋を後にした。

俺は、中途半端に喉に張り付いたままで、言葉になる事が出来なかった何かを飲み込んだ。
昨晩から酷く落ち着かないままの胸は、完全に居場所を無くしてしまったかのように、更に煩くざわついていた。





TO BE CONTINUED.

2007.09.09


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