恋は一粒の種。
気紛れと偶然が、黒い土の上に置いた種子だろう。
Just Marriage
024/誰も知らない口付けを
橙色の空が薄ぼんやりと藍色を混ぜ、日を落としかけた頃。
夕日に照らされて幽かに色付いてしまった紙に手を掛け、俺は一度溜息を吐いた。
エスクが俺の執務室に来訪して、そして衝撃的な事を告げて、早数時間。
しかし、俺の気は未だに散ったまま、むしろ時間が経てば経つ程に、冷静な思考回路は崩壊していっていた。
サッキーは、君の事が好きなんだよ。
そう言って、この場を立ち去っていったエスク。
その言葉の意味を何度考え直すも、やはり分からないものは分からないし、納得出来ないものは出来ない。
何故、あの女が俺を?
エスクが、ただ俺をからかっているだけか?
今まであった事を考えれば、後者の方が遥かに可能性は色濃かった。
あの娘が俺の事を好くなど、普通であれば有り得ないのだ。
顔を見る度に顰め面をし、話し掛ける度に疎かにあしらっていた俺の事など、特別視している筈が無い。
勿論俺も、最初から好かれようなどとは考えていなかったし、自身も甚くあの女を嫌っていた。
「面倒な存在だ」と、只そう認識しているだけで、目の上の瘤以外の何物でもなかった。
否、実際今も、あの女の事をどう思っているのかと問われれば、「忌々しい輩だ」と迷わず答えるだろう。
「鬱陶しいだけの物だ」と、必ず断言するだろう。
俺は、今まで誰かに想いを告げられた事が無い訳ではない。
エスクのように自ずから色好みする性質ではないが、それでも言い寄ってくる者は居た。
だが、これまでの俺は、それら全てを一蹴してきた。
昔より「恋」だの「愛」だのと腑抜けた事を豪語する連中は愚か者だと思っていたし、そんな低脳な事に憂き身を窶していれば、様は無い状態になってしまうと考えているからだ。
けだし、本気で欲しいと思った女が誰一人として居なかったせいもあるのかもしれないが、しかし興味は本当に無かったと言えよう。
故に、あの娘に想いを寄せられているという事が真実だとしても、それは俺の心中を揺るがす一端にはならない筈だった。
いつもの下らぬ只事に過ぎない筈だった。
それなのに、突然の招かれざるエスクという来訪者から後、俺のこの焦心ぶりと言ったら何事だ。
エスクによって知らされた、女の心の内。
否、俺が今まで見て見ぬ振りをしていた直向な心意気を指摘されてから、ずっと渦巻いているこの得体の知れない憤りと焦燥は、一体何だ。
俺は、嘗て抱いた事が無い感情を整理しきれなくなり、かりかりしながらクウィルペンの羽先を弾いた。
随分長い間使っているせいか、些か古くなってしまったその先は、所々綻びかけていた。
それを乱暴にインク瓶の中に突っ込み、意味も無く中にある黒い汁を掻き回す。
そんな事をしたところで気散じになる訳もないと理解していたが、況してやただペンの羽が汚れるだけだと分かっていたが、俺は苛々しながらそれを続けた。
まだ山のように残っている、執務の書。
その至る所に書かれている、新しい城主の存在。
確か…、咲雪と言ったか。
覚える気も無かったので、一度たりともその名で呼んだ事は無かったが、俺以外の周りが皆ちやほやと甘やかし、持て囃すので、知らぬ間にその名も耳に慣れてしまった。
いつも俺は、その娘の事を思い出しただけで、不愉快な想いに苛まれる。
今も勿論、例外では無い。
人間という種族自体を低俗だと考えている俺にとって、そんな物と一緒に城内で生活していくなど、正直耐え難い屈辱にも値する。
だが、ふと脳裏に浮かぶのは、脆いくせに無謀にも妖怪共に挑んでいく、あの強気な眼。
何度疎んでも、物怖じせずに言い返してくる、生意気な態度。
それらは、俺が認める、あの女の唯一の長所だ。
そういえば、今日は足腰が立たぬ程に疲労が残っていた。
あれでは明日、どうなるか分かったものではない。
様子だけでも、確認しておくべきなのだろうか。
一剣術指導者として。
否。
そんな柔な体で、この城の後継者になれる訳がない。
此処は、放っておくべきだろう。
あの程度の疲労、一人でどうとでもする筈だ。
だが、しかし。
本当に、そうなのだろうか。
インクに浸したペンを取り出し、俺は近くに置いてあった拭取り用の布に、その黒い汁を染み込ませた。
それから、掛けていた眼鏡を外し、椅子から腰を上げた。
その後、ポールハンガーに掛けていたコートを羽織った頃には、もうその気紛れな思い付きは、確かな恒心へと変わっていた。
馬鹿げた心配だ、と思う。
エスクに唆されたせいで動揺していないと言えば、嘘になる。
けれど、このまま一人で執務をこなす事も難しい。
懸念しているものは、さっさと消化させた方が後々面倒にはならないかもしれない。
向かう先は、まだ入った事もない、人間の小娘の自室だった。
俺の執務室から一階上にあるその部屋へと、迷う事無く足を動かす。
途中寄り道もしなかったせいで、その部屋へは存外早く辿り着いた。
不思議と、誰かと擦れ違う事さえなかった。
「居るのか?」
コンコンコンと三度ノックし、中を窺う台詞を掛けるも、返事は返って来なかった。
そのまま数秒待っても物音すらしないので、もしや過労で死にでもしていないだろうなと、再度ノックする。
しかし、相変わらず静かな其処は、幾ら待てど、うんともすんとも言う気配が無い。
些か不安になった俺は、不躾だと分かっていながらも、その扉をゆっくりと開けた。
留守ならば、それでいい。
出歩く程の体力が残っているのならば、それでいいのだ。
俺は、明日の事を思い、ただ様子を見に来ただけなのだから。
剣術を指導する立場として、気に掛けているだけなのだから。
そう自分に言い聞かせ、部屋の中に身体を入れる。
其処は、日が落ちたにも関わらず、明かり一つも付けてないせいか、やけに仄暗い空間だった。
一番に気が付いたのは、ふわりと香る薔薇の香だった。
ゼカトリア王が使っていたものを改めて調合し直しているのだろうが、それはやけに甘く俺の鼻を擽った。
先代の王の時は、薔薇の香をこんなにも芳しいと思った事は無かったし、何より他者を圧倒する美しさと威厳ある香りだという認識しかなかった。
勿論、王自身の薔薇も使っているのだから、今も何処か威圧的な感が残っているが、それでもそれ以上に甘美臭が酷く増している気がした。
初めて入った小娘の部屋は、年頃の女が好み易い様相だった。
淡いベージュの壁紙に、白の猫足ローチェスト、宝石を散りばめた煌びやかなドレッサー。
妖魔は耽美な物を好む傾向にあるので、男装しているこの娘が女らしい物を集めた所で、怪しむ者は居ない。
しかし、多分にラークの見立てだろうが、なかなかに女の嗜好を捉えているその装飾は、質素な物しか傍に置かない主義の俺には、ただ煩わしいだけだった。
「眠っているのか?」
一歩、二歩と足を進めると、目的の人物が、中央に控えているベッドに居るのを見付けた。
薄紫色のカーテンを引いた、豪勢な天蓋付きベッドだ。
ベッドヘッドには、繊細な細工まであしらわれている。
そのベッドに掛けられたシーツの中央が、不自然にもこんもりと山になっている。
恐らく、人間の小娘が休んでいるのだろう。
傍まで寄ると、すうすうと静かな寝息が聞こえてきた。
俺が居る事に気付いている風もなく、熟睡しているらしい。
だが、よく見ればその顔色は余り良くなく、眉が険しく寄っていた。
息も、耳を澄まして聞けば、やや不規則に乱れている。
やはり、今日は無理をさせ過ぎたのだろうか。
このままで、果たして明日は大丈夫なのだろうか。
娘の状態を確認する為、また一歩、近くに寄った。
シーツを適当に身体に掛け、泥のように眠っている人間の娘が近くなる。
覗いている掌は、年頃の女らしくもなく、肉刺(まめ)だらけになっていた。
起きるかもしれないといった疑念が無かった訳ではない。
だが、俺はその痛々しい手に、そっと触れた。
人間の体温は、妖魔に比べてずっと高い。
そのせいか、触れた指先からは、じわりと熱が伝わってきた。
己の指をそっと下にずらし、細いだけの女の手首を撫でた。
そこは、掌とは比べ物にならない程に柔らかく、滑々とした百日紅だった。
剣を握る前の掌は、この手首と同じだけの滑らかさを持っていたのだろうか。
或いは、それ以上だったのだろうか。
もし、もしそうだったのならば…。
そこまで考えた瞬間、妖魔としての性が、どくりと鎌首を持ち上げた。
俺は慌てて指を離し、女が眠っているベッドからも距離を取った。
何だ?
俺は今、何をしようとした?
自分でも解せない欲が目を覚まし、動転した俺は、ごくりと唾を呑みながら静止する。
たかが。
そう、たかが手に触れただけだ。
それも、年端も行かぬ、人間の小娘に。
思っていたよりエスクの言葉に翻弄されていたらしい俺は、冷静になる為、二、三度首を横に振った。
小娘の手首に触れたと同時、「成る程、エスクが言っていたように滑らかだ」と思い、そして一瞬ではあるが、それを我が物として征服する術は無いだろうか、等と考えてしまった。
何度見たところで、然して見栄えがする容姿はしていない、幼稚な小娘。
確かに眼差しだけは一人前の強い光を携えているが、それ以外は特に秀でた物は無い、何処にでも居る程度の女。
まあ、敢えて挙げるならば、鍛錬に対する姿勢とか、確固たる底意地とか、その類の物だけは一目置く価値はあるが、そうであってもそれらもその程度で、決してそれ以上の物では無い筈なのだ。
このまま此処に居ては、また訳の分からん感情に苛まれるやもしれん。
そう思った俺は、踵を返そうと、また一歩足を後退させた。
しかし、俺が完全に娘から距離を取るその瞬間に、苦しげな寝言が聞こえてきた。
「…シン」
後ろに下がろうとしていた足が、ぴたりと止まる。
「何だ」
返って来る筈が無いと分かっていても、それでも反射的に返事をしてしまった俺は、言ったと同時に己の馬鹿馬鹿しさを嘆いた。
だが、またその娘が口の中で何やら呻くので、俺は再度、「どうした」と、小さく声を掛けてしまった。
傍のローチェストに置いてあった置き時計は、宵入り前を指していた。
しかし、日はもう完全に落ちてしまったのか、女の頬には暗い陰りが落ちていた。
寝苦しいのだろうか、或いはただ暑いのだろうか、額には薄らと汗を浮かばせている。
髪の毛もへたりと肌に張り付け、開いた唇からは、また苦しそうな声が漏れた。
だから、それは一瞬の事だった。
その柔らかそうな唇が動いたと同時、俺は再度ベッドへ近付き、身体を屈め、そしてその苦痛に帯びた声を奪うように、口付けた。
直接触れてしまえば、女の浅い息が己の頬に掛かり、人間特有の火照った体温も、直に届いた。
たった一秒だったか、もっとそれ以上だったのか。
我に返った途端、俺は何かの衝動に任せて動いてしまった身体を、すぐに起こした。
だが、目を閉じている女は微動だにしない。
起こしてはいないようだった。
女が目を開かなかった事にほっとするも、自分でもどうかしていると思った俺は、自身の口元を強く拭った。
先刻の己は、ほんの一瞬ではあるものの、確かに何かに浮かされていた。
我が事だと言うのに、その自分の行動さえも理解出来なくて、今度こそこの場を後にしようと俺は戸へ向かった。
けれどその時、閉めていたドアが再度ノックされる音が響き、後方に居る女が一つ身動ぎをした。
TO BE CONTINUED.
2007.07.17
present for 沙柚様.
引用:畑正憲「ムツゴロウの青春日記」
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