もし貴方が妖魔なんかじゃなかったならば。
私と同じ、人間だったならば。
或いは、私が貴方と同じ美しい妖魔だったならば。

そんな事を考えても無駄だっていうのに、考えずにはいられない。

だって、貴方は人間の事を毛嫌いしている。
愚かな生き物だって思っている。
例えば、私がその辺りの動物や昆虫を扱うそれ以下に、全く見向きもしない程に。

そんな私を、貴方が好きになる筈なんてない。
分かっている。
分かっているけれど、一度始まったこの気持ちは、悲しい事に止められない。

だからこそ、
もし貴方が人間だったならば。
或いは、私が妖魔だったならば、と。

Just Marriage
022/Heart Break

シンが薄羽を連れて鍛錬場を後にし、残されてしまった私は、言いつけ通り一人待っていた。
シンは、然程時間も掛けず、十分も経つ頃にはちゃんと帰って来てくれた。

シンと二人きりの、剣術のお稽古。
彼と関われる事なんて滅多に無い私は、ここ数日、それが結構楽しかったりもした。

けれど、その日の稽古は、もういつもみたいに楽しいとは感じなかった。
ただ、シンの顔を見る度に、ずきずきと胸が痛んで仕様が無かった。
薄羽の事を思うだけで、嫌な感情が湧いて苦しくなった。

だって、何だかもう本当に…、馬鹿みたいだ。
私一人、惨めなだけだ。

そのまま稽古も無事終わり、私は自室へと続く廊下を黙々と歩いて帰った。
手には、一つの真っ黒な羽を握っていた。
鍛錬場に落ちていた、シンの羽だ。

私は、結局この羽を剣で真っ二つに切る事も、捨て置く事も出来なかった。
ただ、此処まで持ち帰ってしまった。

勿論、その事がシンにバレては気持ち悪がられると思ったので、こっそり隠しておいた。
でも、これでは何だか、憧れの先輩が飲んだ後の缶ジュースをこそこそ持ち帰っている、ストーカー女子高生みたいだ。
いや、私もまだ女子高生ではあるから、強ち間違ってはいないけれど。

自室の扉に手を掛け、静かに空ける。
その直後、私は驚いたような、呆れたような、曖昧な声を上げる羽目になった。

「帰ったんじゃなかったの?」

私がいつも使っている、大きなベッドの上。
其処にどかりと足を伸ばして寛いでいた人物が居た。

不法侵入者のエスだ。

「帰るだなんて一言も言った覚えは無いけどね」
「そうだっけ」
「それより君、凄く烏賊臭いんだけど、その全身に纏っている汁は何?」

数メートル離れていても、彼には烏賊墨の匂いが分かってしまうのだろうか。
蝙蝠のくせにやたら鼻が利くエスは、ふかふかの枕をクッションのようにベッドヘッドに立て掛け、手を頭の後ろで組み、事も無げに言った。

けれど、その言葉で先程の事を思い出してしまった私は、うまく返す事が出来なかった。
そんな私に、質問の答えを待たずして、「そういえば」とエスは続けた。

「実は今日、柚子団子と柘榴団子が新発売でね。
うっかりその事を忘れていたから、慌てて買いに行ってたんだ」

彼の横には、成る程、ベージュにも近い黄色の紙製包みが置かれている。
恐らく、その中に彼が言っている団子が入っているのだろう。

「そう」

その団子が入った包みに目を遣ってから、私は一つ相槌を打ち、戸を閉めるべく再度後ろを向いた。

本当は、只でさえ落ち込んでいる時に、更に疲れを持ってくるだろうエスの相手はしたくなかったのだけど、追い返すだけの気力も到底残っていなかった。
すると、閉めようとした自室の戸が、手を遣る前に一人勝手に閉じてしまった。
まるで、幽霊か透明人間の仕業のようだ。

驚いた私は、目をくるくるさせながらエスの方を振り向いた。
彼は、いつもの飄々とした顔で私を見ていた。

「何?」
「いや、ドアが勝手に閉まったんだけど」
「ああ、僕が閉めたの」
「エスが?
どうやって?」
「妖術で」
「…妖術?」
「そ。
僕は風を操るのが得意でね。
上級妖魔と一部の中級妖魔は、火、水、土、風、その何れかの自然現象を操る事が出来るんだよ。
知らなかった?」

エスは、団子の包みをお腹の上に乗せ、その紐を解きながら教えてくれた。

そう言われれば、確かに以前そのような説明をラークさんにもして貰った覚えがある。
中でもラークさんは水を扱うのが得意との事で、中庭にある噴水を使って色々な水芸を見せてくれた。

「ちなみに、先代の王は土だったかな。
なかなかねちっこい術を好む奴だったよ」
「ふ、ふーん」

ちょっと感心して応えれば、ちょいちょいとエスに手招きされた。

私は、ほんの少し警戒しつつも、それでも言われた通りに彼の元へと足を進めた。
彼は、包みから出したピンクの団子を手にしたまま、ベッドをポンポン叩いている。
隣に座れ、と言いたいらしい。
けれど、汚れてしまった鎧の格好のままでシーツの上に上がる事は憚られて、私はベッド近くの横にしゃがみ込むだけにしておいた。

「そういえば、何でエスってお城から追放されたの?」

そう問えば、エスはピンクの団子を早速頬張りながら、ちらと私の顔を見た。

「私、それ聞いて無かったと思うんだけど」
「ま、大した事じゃないよ。
上等騎士の執務が退屈で逃げ出したら、ゼカトリア王を怒らせて、二度と城に近付くなって言われただけ」
「何、その不良児みたいな」
「でも、その後も普通に何度か来た事あるけどね。
先代の王とは、付き合いも長かったし。
彼は、誰よりもプライドが高く、意固地で素直じゃない奴だったけど、何だかんだで面白い男だったよ」

彼が説明してくれた追放の理由が余りに稚拙過ぎて、私は呆れてしまった。

しかし、まあそれも彼らしいと言えば、彼らしいのかもしれない。
今朝、シンに追放令を出せと言われ、断ったのも間違いでは無かったようだ。
実は、手放しにエスを信じてしまったものの、彼が物凄い犯罪者だったらどうしようかと、そんな不安が無かった訳でもないのだ。

「それより、随分と泣きそうな顔をしているね」

内心ほっとしていれば、エスはぐいと私に身体を寄せてきた。
けれど、その突然寄った距離よりも、彼に言われた内容にドキリとして、私は思わず身体を強張らせた。

「べ、別に、泣きそうになんか…」
「シンと何かあったのかな?」
「シンは関係無いよ!」
「でも、君が凹む理由を、僕はそれ以外知らない」

口の中でむぐむぐと団子を咀嚼しながら、エスは言う。
私は、動揺した心を隠す為、少し声を張り上げながら反論した。

「別に、シンなんか何も関係無いし、それ以前に全然凹んでなんかいないし」
「恋の悩み?」
「だからっ、人の話をちょっとは聞いてよね!」

元々他人の話を聞かない性分らしいエスは、私の事などお構い無しに再度問うてきた。
頭にかっと血が上るのを感じた私は、半ば喧嘩腰で抗議する。

「シンなんて、どうでもいいし!
興味ないし!」
「ふーん。
君は隠しようも無い位、シンに惚れていると思うけど。
どうしてそれを否定するの?」

余裕顔をしたエスは、新しい団子を一本手に取り、垂れた目をすっと細めて笑った。
その眼に、自分でさえも分かっていない心の奥底を見抜かれたように錯覚した私は、ドクンと胸を跳ね上がらせた。
それだけではない。
先程の胸を痛める光景も、再度脳裏に蘇った。

薄羽の手を取り、優しい言葉を掛けるシン。
薄羽に労わりの眼差しを送るシン。

まるで愛しい恋人に対してするその扱いは、酷く私を苦しめた。
少なくとも、シンが気になって仕方が無い私にとっては、紛れも無い毒だった。

「シンは、そもそも薄羽の事が好きな訳だし」
「は?」
「そんな人の事なんて…、私、どうでもいいよ」

言いながら、私は自分自身にもそれを言い聞かせた。

そうなんだ。
シンはきっと、薄羽の事が好き。
特別な女の子だと思っている。
彼の態度を見ていれば、嫌でもそれは分かってしまう。

シンの私に対する振る舞いと言ったら、もう本当に薄羽と同じ女子かと疑う程に格差がある。
勿論、召使の女の子達に対しても、彼は余りいい態度を取らない。
というより、最初から眼中に無いのかもしれない。

だから、その分、彼の薄羽だけに対する特別扱いは、悲しいくらい目に余るものがある。
蝶よ花よと猫可愛がりするというのは、まさにこの事だろうかと思う程だ。

「薄羽姫、ねえ」

私の言った言葉に、エスは小さく唸るように零して、二本目の団子を平らげた。
そして、三本目にも手を掛け、じっと私を見下ろしてきた。

どうしてエスは、私にこんな事を聞いてくるのだろう。
何でシンに対する恋愛感情を認めさせようとしているのだろう。

紛いなりにも、エスは私を「好きだ」と言った。
「ただ気に入っただけ」という軽い気持ちの表現だったのかもしれないけれど、それでも彼はそう言ったのだ。

普通ならば、自分が恋をしている相手に、他の人へ目を向ける後押しみたいな事はしない。
少なくとも、私ならそんなおかしな事、絶対にやらない。

それなのに、エスは私にシンの事を聞いてくる。
恋を自覚しろと頻りに言う。

「でもさ」

何を考えているのか分からない顔で、エスが続ける。

「君がシンを好きだと認める事と、薄羽姫の存在は、全く関係ないでしょ?」

あっけらかん、と言いのける。
でも、そのような事を言われても、「はい、そうです」だなんて、簡単に言えない。
自分でもまだ納得しきれていないこの感情なのに、あっさり肯定するなんて無理な話だ。

何より、私の事を好きだと言ってくれた相手の前で、「他の男の人に心を寄せています」と宣言するだなんて、そんな無神経な事、私には出来ない。

エスの考えている事が全く分からなくなってしまった私は、きゅっと眉間に力を入れ、口を開いた。

「エスだって、私の事…」

好きだって、言ったじゃない。
それなのに、私が他の人を好きでも、構わないって言うの?

そう問おうとして、私は口を噤んだ。
その先を言おうとした瞬間、エスの纏った雰囲気ががらりと変わったからだ。

決して怒っている訳ではないのだろうけれど、妙に感じる威圧感。
それに、びくりと肩を震わせた私は、そのまま言葉を飲み込まざるをえなかった。

「もしかして君って、僕の慕情を言い訳に、何か遠慮してる?」
「遠慮なんて…」
「もし遠慮しているならば、そういう下手な気遣いは止めてよね。
逆に傷付くから」
「…エス」
「確かに僕は、君を好きだと言ったけどね。
でも、僕は君が誰を好きであろうと、自分の気持ちとは無関係だと思ってる。
僕は、君が好き。
君は、また違う誰かが好き。
それでいいと思ってるし、どういう状況になっても自分の慕情に何の遠慮もする気はないよ。
何より、君が他人を好きだという、そんな些細な事で諦めるくらいの軽い感情は持たない主義だよ、僕は」

エスは、私の心の内を覗くような眼差しから、咎める物へと変えていた。
いつも飄々としているエスが目に力を入れ、人を馬鹿にするみたいに見下ろしてくれば、それだけで背筋がひやりとした。

実際、彼は私の心情を簡単に読み、それをそのまま口にしたに違いない。
そして、私を逃げさせないように、釘を刺すかの如く、更に言葉を続ける。

「そもそも、君が何にウダウダ迷っているか知らないけどね。
欲しい物は欲しいと素直に言わないと、手に入らない時もあるんだよ。
それを、しかと念頭に入れておくんだね」
「エス、私は…」
「誰かに遠慮したり、引け目を感じたり、そんな面倒なだけの高等な心情、人間が抱かなくてもいいよ。
君は、素直が一番。
愛している物は、自信を持って愛すればいい。
たとえシンが、薄羽姫を好きだと言ってもね」

エスの科白は、所々に棘があったものの、やけに私に強く響いた。
いや、もしかしたら、棘があったからこそ深く突き刺さったのかもしれない。

誰にも何にも臆する事無く、自分の感情だけを大事にして突っ走る、自分勝手で破天荒な男。
でも、それはそんな彼だからこそ言う事が出来る言葉なのかもしれなかった。

私には、エスのように強くあり続ける事は、きっと出来ない。
負け戦だと分かりながらも闘うだなんて、きっと出来ない。

「団子、食べる?」

押し黙った私に、エスは四本目のピンク団子を出してくれた。
恐らく、柘榴が練り込んでいるせいでそんな色になったのだろう。

しかし、私はその団子ではなく、まだ開けられていない包みを指差した。

「柚子の方が、いい」
「ああ、こっちね。
はい、どうぞ」
「有り難う」
「それでも食べて、嫌な事は忘れるがいいよ。
きっと美味しいよ」

また新しい団子を頬張りながら、エスは私の頭をくしゃくしゃと撫でる。

嫌だなあ。
烏賊墨も被っているから、変な癖が付いて固まっちゃうんじゃないのかな。

エスの所作に、そう思いながら、私は手渡された柚子団子の包みの紐を解く。
それから、姿を現した艶有る黄色い団子を口に入れ、先程言われた言葉を胸の内で反芻した。

確かに、私はシンの事が好きなのかもしれない。
自分の気持ちなのにすぐに納得せず、何度も何度も否定したりしたけれど、やっぱりシンの事が好きなのかもしれない。

いや、実際、悲しいくらいに好きなんだ。
今までと違うタイプだから、ずっと分かり兼ねていたけれど。
でも、馬鹿みたいにその心は、シンばかりを追ってしまっていたんだ。

最初は、「格好いい人だな」という下手な一目惚れから始まり、次の瞬間には「最低な男だ」という嫌悪感に変わり。
しかし、毎日繰り返される剣術の稽古で、強そうな怪物を一発で倒してしまう強さを見た。
村人達がお城まで抗議に来た時には、頼りになる姿を見た。

他にも、ぶっきら棒な中にも面倒見のいい一面や、口煩いけれど真面目な所や。
そういう彼を形容する人となり全てが、私を捕らえて離さないのだ。

自覚してしまえば、その感情は益々強い色を帯びて私の中にすとんと落ちてきた。
けれど、悲しいかな、その恋心も叶う事は絶対に無いのだ。

人間嫌いなシン。
薄羽を大事にするシン。
そんな彼が私に目を向ける日だなんて、これから先、幾ら待った所で来る筈も無いのだから。

シンの事が好き。
悔しいけれど、凄く凄く好き。
エスに後押しされてエンジンが掛かってしまったこの気持ちは、もうきっと止める事が出来ない。

だけど、その感情もいずれ諦めてしまわなければならないのだ。

シンに対する恋心。
それが紛れも無く確かな物だと分かった瞬間、改めて経験したのは、どう足掻いても覆せない失恋だった。





TO BE CONTINUED.

2007.07.15


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