「構えろ」

静かな鍛錬場に、私と、シンと、薄羽。
余りに広いので、彼の声は余計に響く。

「返事は」
「はあーい」

言われた言葉に無言で従っていたが、どうやらそれが気に入らなかったのか、シンに注意されてしまった。
私は「何だかシンって、口煩い学校の先生みたいだよなあ」なんて思いながら、とりあえず返事をする。

「語尾を伸ばすな」

すると、返って来たのは、またもや揚げ足を取るような台詞。
その言い方に少しカチンときた私は、「はいはい」と投げ遣りに返す。

「返事は一回」

それでもしかし、またもや言われてしまった、嫌味っぽい小言。
私は、「はい」と渋々返事して、目の前の大きな怪物に目を遣った。

全く、この堅物男と来たら…。

Just Marriage
021/シンデレラなんて大嫌い!

初めてシンとエスが対面しているのを目撃してから、一時間後。

「この野郎っ、烏賊焼きにして食ってやるからね!」

そう叫びつつ、鍛錬で烏賊にリベンジ戦を挑んでいる、この私。

壁際には、腕組みをして此方を見ているシンと、手を組んで祈っている薄羽。
エスは、一頻りシンをからかってから、何か思い出したようにまた何処かへ消えて行った。
ラークさんとリッたんも、忙しそうに仕事に戻ってしまった。

だから、今日も今日とて、私はいつものきつーい剣術のお稽古をしているのである。

だが、未熟な私にまだ巨大烏賊モンスターの相手は早いのか、身体はすぐにべしゃりと床に叩き付けられた。
しかも、尻餅を付いた瞬間、唾を吐くように、ぶっと烏賊墨まで掛けられた。
エスのせいでいつも以上に冷たくなってしまったシンの態度に、ただでさえ凹んでいる時に、これはちょっと腹が立つ。

初めての稽古では「烏賊を殺す」という事に抵抗を覚えた私。
しかし、これが幻影だと分かれば、それもまた別の話だ。

まあ、実際は以前シンが殺してしまった烏賊なのだろうけれど、過去の生き物だと分かれば、心の負担は俄然違った。
鍛錬の度に何かの命を無駄に刈り取る事は、したくなかった訳だし。

何より、町の人達が王不在の件を聞き、城に踏み入った時の事を思えば、最早、私にこの鍛錬の拒否権はなかった。
それに、私がこのお城から居なくなれば、皆が困るらしいのだ。

私を身を挺して庇ってくれた、シン。
色々と世話を焼いてくれる、沢山の人達。

彼らの為に、私は強くならなければならない。
その為に、一先ずは、この巨大烏賊モンスターを一人で倒せるようにならなければ。

「もういいだろう、少し休め」

頭からポタポタと墨を滴らせていると、シンの静かな声で休憩だと言い渡された。

彼が銀のポールに手を翳すと、すぐさま巨大烏賊の姿はふにゃふにゃと揺れて、そのままその場から薄くなって消えていった。
どうやらこの鍛錬場で出した幻影のモンスターは、態々最後まで倒さなくても、途中で試合放棄をする事が出来るらしい。
初日のシンはそんな事を教えてくれなかったので、それも最近知った事なのだけど。

私は、「今日も烏賊を倒せなかったか」と、座り込んだまま軽く一息吐いた。
すると、すぐさま心配そうな顔をした薄羽が傍まで駆け寄って来てくれた。
ふわんと香る、優しいお姫様らしいフローラルの香り。
彼女は、すっと真っ白な可愛らしいハンカチを取り出して、私の頭から滴っている烏賊墨を拭ってくれた。

「薄羽姫様、その様な事は無用です」

薄羽の厚意に、シンはぴしゃりと言った。
その物言いにむっとして睨み上げれば、腕を組んだままフンと鼻を鳴らして見下ろしてくるシン。

薄羽は、シンの言葉にも無言でにこりと笑って、私の顔中に付いている烏賊墨をハンカチと手で綺麗にしてくれた。
そのせいで、ハンカチだけでなく、彼女の真っ白で綺麗な手まで生臭い烏賊墨で汚れてしまった。

「あ、御免ね。
薄羽の手まで真っ黒になっちゃって」
「いいえ、いいえ、構いませんわ。
私は、こうやって咲雪様のお世話をする事だけが喜びですもの」

私の顔を拭ってくれていた薄羽の手を制しながら、私はゆっくりと腰を上げた。
ちらり、とシンの顔を窺ってみる。
しかし、彼は相変わらず無愛想な顔をして、私を一瞥するだけだった。

彼のこういうあからさまに冷たい所が、未だ私は好きになれない。
というより、私に対しての態度だけは、やはり色々と考えてしまうものがある。

シンが薄羽に向き直った。

「薄羽姫様、お手が汚れてしまっております。
此処はもう構いませんので、先に自室にお戻り下さい」
「まあ、まあ、シンヅァン。
手が汚れたくらいで、そのような事を。
もしや私を早々に追い払いたいのですか?」
「そうではありません。
ただ、私は薄羽姫様の事を思って申し上げているのです。
そのような下賤な妖怪の体液をいつまでも付けているのは、好ましくないでしょう」

薄羽に、早々にこの場を切り上げるよう勧めるシン。
彼の、薄羽に対する紳士っぷりといったら。
私と比べれば、相変わらず極端過ぎる程の差がある。

というより、私に烏賊墨が掛かりっぱなしなのは良くても、薄羽だったら駄目だとは、一体どういう了見だろう。
「烏賊墨が汚い」という認識があるのならば、頭から被ってしまった私にだってもう少し気を遣ってくれてもいいと思うのだけど。

私が人間だと知らない人達の前では、それなりに扱ってくれるシン。
でも、流石に薄羽程にはチヤホヤしてくれない。
どちらかと言えば、当たり障りの無い完結な会話のみで、適当に私を立てるように喋っているだけという印象が強い。
或いは、「はい」だの「いいえ」だの、そんな簡単な返事のみで終わらせる事だって多い。
彼は本当に、極力私に関わりあいたく無いらしい。

薄羽は、シンの提案を断るべく言った。

「有り難う、シンヅァン。
けれど私は、咲雪様と一緒に…」
「いいよ、薄羽」

何だかこの扱いの差が悔しくて、私は突っぱねるように彼女の言葉を遮った。

「貴女は先に部屋に戻って、綺麗にした方がいい」

言ってしまった瞬間、「しまった、これではただの八つ当たりだ」と思うも、一度出てしまった言葉は戻って来ない。

「ですが、汚れてしまっているのは咲雪様も一緒。
私でしたら構いませんわ」

本当に心優しい薄羽は、柔らかい笑みと一緒に、逆に私を気遣う台詞を吐いた。

その優しさに、私の心はチクリと痛んだ。
シンを介して、差のある扱いだと比べ、あまつさえ当たってしまった事が申し訳ない。

それなのに私は、心の何処かで燻る嫉妬にも似た感情が捨てきれなかった。

「薄羽は、ちゃんとしたお姫様だから駄目なんだよ」

感情に任せ、また彼女を突き放すような事を言ってしまった。
直接目を見る事は出来なかったから、視線は逸らしながらだった。

薄羽は少し困った風に、「まあ」と一言だけ言った。

けれど、そうなんだ。
私と違って、薄羽は正真正銘のお姫様なんだから。
私とてお城のトップではあるものの、それもただの飾り物な訳だし、本当は月とスッポン程の格差があるのだ。

だから私は、少々シンに辛く当たられても、何も言えない。
薄羽だけが大事に扱われていても、何も言えない。

況してや、薄羽は何も悪い事などしていないし、むしろ私には優しくしてくれるし。
そんな彼女に対して見当違いな嫉妬や羨望の想いを抱くのも、全て間違っている。
シンとて、私が此処に住み着く前も、こうやって薄羽を大事にしてきたに違いない。

ただ、私が「余所者」で「邪魔者」なだけなのだ。

シンが言った。

「とにかく、お戻りにならないと言うのならば、無理矢理にでも帰らせます」
「まあ、まあ、シンヅァン」

私の言葉で下手に自信を付けたらしいシンは、薄羽に部屋へ戻るよう強く促した。
薄羽は、細くて折れそうな首を少し捻って、眉尻もやや下に下げながら応えている。

「そんな事をしなくとも、私だって一人で戻れますわ」
「いえ、この際ですのでお供しましょう。
先日のように階段を踏み外されては困ります」
「まあ、まあ。
そんな嫌味を言うだなんて、意地悪なシンヅァン」
「意地悪ではありません。
これも薄羽姫様の事を思ってこそ」

断固として譲らないシンに、薄羽は観念した顔でくすりと笑った。
シンは、そんないじらしくも可愛らしい彼女の手を取り、「少し待っていろ」と、私に一言言った。

真っ白でふわふわしたドレスが似合う薄羽。
背が高くて、黒のロングコートも格好良く着こなすシン。

まるで、お姫様とそれを護る忠実なる騎士だ。
いや、二人は実際にそういう関係なのだろうけれど、それでも余りに似合い過ぎているそのカップルの構図は、何故だか私の心をぎりりと締め付けた。

彼らが鍛錬場から出て行けば、私はだだっ広い空間に一人取り残される事になった。
一歩足を前に出すだけで、無闇矢鱈に靴の音が辺りに響く。
かしゃん、なんて鎧の音も耳に付いた。

静かで、涼しくて、さっきまで居た烏賊のせいでちょっとだけ生臭くて、照明が少なく仄暗い、大きなお部屋。
そんな所で一人になってしまえば、また余計な事ばかりが脳裏を過ぎってしまう。
むしろ、冷静に事が考えられるようになったと言った方が、正しいのかもしれない。

成り行きとはいえ、私はこの妖魔のお城の後継者で、男役として通っている。
でも本当は、ただの弱い人間で、小さな女の子で、ここの人達とは全く何もかもが掛け離れている存在なのだ。

薄羽みたいに誰もが振り向く美人でなければ、大事にされるお姫様でもない。
人に慕われ、愛されるような物でもない。

だから、シンだって笑いかけてくれる訳がない。

王様の後継者だなんて肩書きは偽者だし、シンがこの前村人達の前で交わしてくれた騎士らしい約束も、実際に守られる事は無いのかもしれない。
ラークさんが優しくしてくれたり、リッたんが仲良くしてくれたり、エスが度々会いに来てくれたりするものだから、ついいい気になってしまって、そんな分かりきっていた事も曖昧になっていた。

私は、もっと自分を鏡で見るべきだったのだ。
何処にでも居るような顔をして、大してスタイルがいい訳でも無し、ただ元気だけがとりえな女の子。

だから、よりによってお城の中で一番難しい性格をしているシンが、私に優しくしてくれる筈はなかったのだ。
況してや、好きになってくれる筈も…、勿論、無い。

腕の籠手から出ている剣で床をがりがりと削りながら、私はまた一度溜息を吐いた。
シンが丁度立っていた場所には、一枚の真っ黒な羽が落ちていた。

彼が烏化身の妖魔だから彼自身の物なのだろうか、或いは彼が着ていたコートに付いていたものだろうか。
どちらか分からなかったけれど、私はそれにゆっくりと剣の切っ先を中てた。
すると、先程まで一緒に居た二人の姿まで思い出してしまって、それが同時に嫌な感情をもぶり返させた。

「馬鹿、みたい」

シンは、薄羽に対していつだって労う視線を送る。
もしかしたら彼は、本当に薄羽の事が好きなのかもしれない。

そうでなくても、彼が好きなタイプは、きっと薄羽みたいな誰もが認める美人な子だ。
私のように、何処にでも居るジャガイモっぽい女の子じゃない。
せめて私がもう少し可愛い顔で生まれていたら、彼の対応も多少は変わっていたかもしれないけれど、でも今となってはそれも考えるだけ無駄な事だ。

それに、私は人間だ。
初めて会った時、彼は人間を愚かな者だと蔑んでいた。
そんな偏見を持っている彼が、私を特別扱いしてくれるなんて、これから先、天地が引っ繰り返っても無い筈だ。

私は、中てた剣の先で、そのまま羽を真っ二つに切ってしまおうと力を入れた。

シンなんて。
シンなんて。
あんな奴、どうにかなってしまえばいいんだ。

そう呪いの言葉を脳内で反芻するも、悲しい事に、羽を両断する事は出来なかった。
私は、彼から落ちたその羽一つでさえも、どうにかする事が出来ないのだ。

羽自身に何かパワーがある訳ではない。
剣の切れ味が悪い訳でもない。
ただ、悔しい事に、彼の冷たい態度とは裏腹に、私の心は彼から離れられないのだ。

これは、恋なんてものじゃない。
絶対に、そうじゃない。
そう己に言い聞かすも、その羽を傷付ける事なんて、どうしても今の私には出来なかった。

ずっとずっと小さい頃、いつもお母さんに読んで貰っていた、優しい心を持ったシンデレラ。
皆に愛され、美しい容姿を持っていた白雪姫。
強くて頼りになる王子様を眠りながら待っていた、眠れる森の美女。

けれど、私はそんなお姫様なんて大嫌いだ。
大嫌い、大嫌い、大嫌い。
私がなれる筈もない、そんな可愛いだけの存在なんて、大嫌いだ。

一人心の中で呟いて、私はぐっと両手で目頭を押さえた。
大丈夫、泣かない。
悲しくなんて無い。
私はまだ頑張れる。

シンなんて、薄羽でも何でも好きでいればいいんだ。
お姫様らしいお姫様ばかりに、デレデレしちゃってればいいんだ。

私は顔を覆ったまま、きゅっと唇を噛み締めた。
けれど、自分で言ったものの、その響きはやけに悲しくて、切なくて、どうしようもなく心が痛く疼いて、目の奥がじんと熱くなってしまった。





TO BE CONTINUED.

2007.07.13


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