うっかりしていた。
あんなにもインパクトのある男を忘れていただなんて。

一騒動有り、シンの執務室に付いて行った後、薄羽に一度「御免ね」と謝って。
そこで何だか一気に疲れてしまった私は、自分の部屋へと向かって行った。

けれど、私はすぐさま後悔する事になる。
そう。
「もっと薄羽とお喋りして時間でも潰せば良かった」とか、そういう小さくて、大きな後悔を。

Just Marriage
019/セクハラ妖魔の来訪

「やっほ、サッキー」

自室の扉を開けた瞬間、目に付いたのは、天蓋ベッドに腰を下ろしているガタイのいい男だった。

色黒の肌に、身体の割には少し小さめの派手な着物。
胸には黄色の晒し、忍者が穿いている様な外股が開いているなパンツに、革のロングブーツ。
長い黒髪はポニーテールにし、色気がある垂れ目には、真っ赤な隈取。

名前は、確かエスク。

「で、で、で、出たな!」
「いきなり何?
幽霊を見たみたいに言ってくれちゃって」

その不法侵入者を指差して、私は開けたばかりの戸の一歩後ろに後ずさった。
けれど、その男は愉快そうに笑って、しかも相変わらず痺れるくらいにハスキーな声で悠々と言った。

私は、わなわなと体を震わせた。

「だって、貴方とはもう関わらない様にって言われたもん!」
「へー、誰に?」
「ら、ラークさんに!」
「ああ、あの猫にね。
彼、元気?」
「え、ええ?
ま、まあ、元気は元気そうだけど…」

マイペースで話し掛けて来るその男に、私はつい調子を狂わされて応えてしまった。
幾ら「近付くな」と言われていても、寄って来られれば避けられそうも無い、得体の知れない雰囲気を持っている男、エスク。

その男は、ベッド近くのローチェストの上に置いておいた王冠型の香水にふと目を遣り、やや怪訝な顔をした。
私も、彼の言った「猫」という単語の意味がうまく分からなくて、同じ様に顔を顰める。

「それより君さ」

香水を手に取り、彼は中身がちゃぷちゃぷと液が波打つ様を見た。

「ゼカトリア王の香水なんか付けだしたの?」

色が黒くて節ばった指で、透明の小瓶の中に入った淡いピンク色の液体が揺らされている。
私は返答に困った。

「え、えっと」
「折角美味しそうな匂いがしてたのに、勿体無いなあ。
まあ、僕にしてみれば、一度人間だと分かった以上、もう意味は無い様な物だけどね」

どう返していいものやらまごついている私に、事も無げにその人は言った。
それに、ラークさんが言っていた言葉を再度思い出した私は、慌てて声を上げた。

「や、やっぱり私を食べるつもりなんでしょ!
鬼!
悪魔!
変態!
それ以上近寄らないでよね!」
「食べない食べない、化け物じゃあるまいし」
「嘘!
ついさっき、美味しそうって言ったばかりじゃない!」
「只の喩えだよ。
僕は君の首筋をガブっと噛んで、ちょっと血を貰いたいだけ。
後、ついでにセックスもあれば、尚嬉しい」

男は、ほっとする様な、しない様な、何とも言えない返事を寄越してきた。
頭からバリバリと食べられない保障を付けてくれた事に関しては良かったのだけど、最後にさらっと付け足した言葉は聞かぬ振りも出来なかった。

ああ。
そう言われれば、確かに前回、変な魔法を掛けられた際、やけに首付近ばかりを扇子で撫でてきた様な気がする。
あれは、もしかしたら、私の太い血管でも探していただのろうか。

「嫌だ嫌だ嫌だ、絶対に嫌だからね!」
「ふーん、そう。
それは残念」

映画に出て来るドラキュラを想像してしまった私は、ぶんぶんと顔を横に振って全身で拒否した。

すると、そんな私の反応も予想済みだったのか、彼は意とも介さない相槌を打った。
そして、手にしていた香水をローチェストの上に戻し、今度は懐から黒い扇子を出す。
その扇子は、以前も持っていた和紙製の扇だった。

「じゃあ家に帰してあげようか、此処から」

扇子を広げ、すっくと立ち上がる男。
私は、何か変な事をされるのかともう一歩後ろに下がったが、唐突に言われたその言葉が引っ掛かり、それ以上後退する事は出来なかった。

何故ならば、彼は今の私が一番欲している事を、さも簡単な様に言ってのけたのだ。

「本当?」
「うん、別にいいよ。
それなりに人間界に行く伝手はあるし、僕は余り興味ないからね、この城がどうなろうとも」

目の前の男に対しての恐怖感や危機感は、確かにあった。
前回が前回なので、もしかしたらまた変な事をされるかもしれないという疑う心はきちんとあった。

しかも、吸血がどうだと妖魔の人は簡単に言うけれど、果たしてそれがどれだけの物なのか私は知らない。
ほんの一舐め二舐めなのか、或いは献血程度なのか、それとも致死量に至るまで吸ってしまうのか。
その辺りの細かい所が把握出来ていないので、下手にこの目の前の男の誘いに乗ってしまっては、命の危険に晒されるかもしれないのだ。

何より、このエスクという男は、どうも全てが胡散臭い。

だが、もしこの男の言う事が本当ならば、私は日本に、そして家に帰る事が出来る。
今頃心配して止まないだろうお父さんを安心させる事も出来る。

ラークさんは「麒麟が居ないと戻る事は出来ない」と言っていた。
でも、その「麒麟を見付ける術は持っていない」とも言っていた。

それならば、いつ叶うか分からないその約束を宛てにするより、この目の前の舟に乗った方が幾らか見込みがあるのではないだろうか。

そう瞬時に考えてしまった私は、魅惑な誘いに引き付けられて、一歩、二歩と前に出てしまった。
後ろ手でゆっくりとドアを閉め、男との距離を近くする。
彼は、そんな私を嬉しそうに見ていた。

「でも…、そうしたら皆はどうなるの?」
「皆?
誰の事さ」
「このお城の皆だよ。
私が急に居なくなったら、皆は困らないのかな」
「さあ?
後継ぎである城主が居ないと分かれば、下級妖魔とかその他の妖怪共諸々が城に攻め入ってくるんじゃない?」
「な、何で?」
「だって、妖魔っていえば、あらゆる種族のトップに君臨する者だよ。
そのトップの種族の本拠地である城に主が居ないって事になれば、下剋上も起こしたくなるさ。
身の程知らずな下級妖魔とか、種族自体の上下関係を覆そうと思っている下等な妖怪共とかね」

エスクという男は、私が近寄っても特段何をするでもなく、ただにこにことしていた。
真っ黒な扇子を緩慢と扇いで風を受ける様は、垂れ目のせいだろうか、或いは声のせいだろうか。
やはり何処と無く格好いい…、というより、やけにセクシーだ。

「そうなったら皆、やっぱり困るんじゃない?」
「んー、まあ戦にはなるだろうね。
僕には関係ないけど」
「貴方も同じ妖魔でしょ?」
「だから?」
「同じ妖魔として、戦争は嫌だなーとか思わないの?」
「いーや、別に。
僕には関係ないって言ったでしょ」

彼が言う言葉は全て、妖魔に対して、そしてこのお城に対して、とても冷たい物だった。
シンやラークさん、リッたんや薄羽は、少なくともこのお城を愛しているのだと思う。
けれど、この目の前の男からは、その類の愛情が全く感じられない。

「そういう問題じゃないと思うけど…」
「まあ、僕は昔此処に仕えていたからね。
その分、この城の面白みの無さって奴を心得てるんだよ」
「それなら余計、皆が傷付いて嫌だとか思わないの?」
「ああ、そういう事ね。
生憎、傷付いて可愛らしく泣いてくれる知り合いなんて、僕には居ないよ。
あいつらだったら、何がなんでもどうにかするだろうしね。
ただで死ぬような馬鹿だって居ないでしょ」

そう言えば、この男はお城の元騎士だと言っていた。
という事は、この人もシン達と同じ様に、毎日仕事をしていたのかもしれない。
たとえば、あの鬼の様に溜まった書類の整理とか、色んな所の偵察や監督とか…。

いや、前者だけは、全く想像出来ないけれど。
真面目に書類と睨めっこしている姿は、想像できない。

「そんなのって…」

そこまで返し、言葉に詰まる。

目の前の男は、案外、薄情なんだな、と思った。
たとえ、彼の言うように、シン達がただで死ぬような弱者ではないとしても、こうも簡単に斬り捨ててしまうとは。
あんまりなのではないか、とさえ思った。

何だか複雑な気分になる。
確かに私は今すぐお家に帰りたいし、お父さんに会いたい。
婚約話はまだ抵抗があるけれど、それでもそれ以上にたった一人の家族であるお父さんを安心させたい。

けれど、今此処で私が帰ってしまえば、お城はどうなるんだろう。
ラークさんやリッたん、薄羽はどうなるんだろう。

シンは、また怪我をするのだろうか。

「とにかく、僕には興味無い事だよ。
君の存在以外はね」

本当に興味のなさそうな言い方をする、この男。

王不在だと分かったお城が崩れていく様を想像して、私のなけなしの良心がちくりと痛んだ。
最悪の結末を迎えたお城を思うと、最早、他人事だとは思えなかった。

「…やっぱいいよ。
私、此処に居る」
「へー、何で?」
「皆に迷惑かけたくないじゃない。
それに、戦争なんて…、気持ちのいい物じゃないよ」

愉快そうな、しかし射る様な眼差しを向けてくるエスクに耐えられなくなって、私は俯きながら答えた。

その答えが果たして自分の本心なのかどうかは分からないけれど、此処で家に帰る選択肢を選ぶほど不義理な事は無いと思ってしまったのだ。
もし私が帰った後、代わりの人間をまた連れて来る事が可能なのだとしても…、私はつい先程、このお城の後継者だと名乗ってしまったばかりでもある。
一度顔が割れてしまった以上、今更他者での代替は不可能な気がする。

「最初に無理矢理いざこざに巻き込まれたのは、君の方だよ。
別に責任なんて物もない筈」
「でも、いいよ。
私は、この世界が落ち着くまで、此処に居る」

それに、私は誰かが傷付く所は見たくなかった。
血を流す様な事はさせたくない。
今此処で私一人が我慢すれば…、いや、実質的にはお父さんにも耐えて貰わなければならないのだけれども、でもそれだけで事が済むのならば、安い話だ。

戦争ともなれば、きっと沢山の人が死んでしまう。
幾ら妖魔が頑丈だからといって、シンも「不死ではない」とはっきり言っていたし。
人間ほど簡単に死ぬ事はないとしても、死なない訳でもないのだ。

だから、そんな皆の命と引き換えに自分の我儘を通す程、私は自分勝手な事をする訳にもいかなかった。
確かにお父さんの安否は気になるけれども、エスクの「それなりに人間界に行く伝手はある」という話が本当ならば、彼に頼んでお父さんに言伝を残す事も可能かもしれないし。

そう思って顔を上げれば、私のすぐ目の前に男のドアップの顔があった。
視界一杯に広がる、垂れ目男の不敵な笑顔。

がしりと腕まで掴まれて、「しまった、もしかして罠だったのか」と思ったのも束の間、私は凄い力で引っ張られ、いとも簡単にベッドの上に放り投げられた。
余りに勢いよく投げられたので、柔らかいマットがボヨヨンと身体を弾ませる。
私は、「これはまた前回と同じ展開だろうか」と、とにかく目力ビームだけはされない様に、ぎゅっと目を瞑った。

しかし、いつまで経っても自分以外のベッドの軋みは無く、男が上に被さってくる気配も全く無かった。
どういう事だとおそるおそる目を開ければ、いつの間にやら彼は化粧台スツールを傍に持って来て、其処にどっかと胡坐を掻いて座っていた。

「逃げようと思えば逃げられるのに、何で妖魔になんか協力するの?」

さも不思議だと言わんばかりに、彼が言う。

「わ、分からないよ。
けど、何か嫌だから」
「嫌だから?
それだけの理由?」
「そうだよ。
それに、何か問題があるっていうの?」
「へー。
サッキーって思った以上にいい子なんだね」
「なっ、いい子って…。
変な事言わないでよ」
「君のそのはねっかえりな所が、また堪らなくいいね。
やっぱり僕は君が好きだよ」

拍子抜けした私は、何とも言えない心地で男を見た。
けれど、その男は相変わらずにこにこしたまま扇子で自分を扇いで、事もあろうか余裕ぶった告白までしてきた。

とはいえ、その口調は有り得ない程に軽かったので、果たしてその告白が本当の物なのかさえも分からない。
本気で反応していい物やら、冗談で受け流すべきやら、全く判断が出来ない。

私は、恥ずかしくなって抗議した。

「さっ、サドなんじゃないの?」
「あれ、今頃気が付いたの?
僕の名前にもちゃんとサディスティックの頭文字、エスっていう響きが入ってるじゃない。
まあ、スペルは全然違うけどさ。
だから、また言わせて貰うけど、君は僕の事をエスって呼んでよね」
「変態なんじゃないの?」
「有り難う、褒め言葉として取っておくよ。
可愛いね、サッキーは」

完全に男のペースに嵌められて、心の内でじたばたと抵抗してみるも、やはり相手の方が一枚上手らしい。
たとえ彼の…、エスの冗句だったとしても、見れば結構いい男な奴に愛の言葉を紡がれて正常で居られる程、私も遊び慣れている訳ではない。
垂れた色気のある目で可笑しそうに笑われて、かあっと頬に熱が集まるのを、私は感じてしまっていたのだ。

そのせいで、私はうっかり考えもしなかった。
この妖魔が…、そう、エスが、何故この私を取り巻く事情を知っているのかを。





TO BE CONTINUED.

2007.06.21


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