「トランスセクシュアリズム」
心理的に自己を異性と同一化する性倒錯。
或いは、手術やホルモン療法による性の転換。
Just Marriage
018/everyone doesn't know what he is thinking.
一枚一枚書類を片付けていると、執務室の戸が三回ノックされた。
普通の者よりやや遅めのその叩き方で、相手が恐らく我が旧友だろうと分かる。
目を少し前方にやれば、ソファの上で何をするでもなく座っている、人間の小娘。
別に用も無いのならばさっさと帰れと言おうと思っていたが、何やら物思いに更けていたようなのでそれも止めておいた。
結局、ノックの主はラークだった。
俺の執務室に入って来るなり「どうやら大変だったようだね」と一言漏らしたので、此処に来る前に先刻の事も他の騎士に聞いたのだろう。
だが、奴はソファに寛いでいる小娘を目に入れるなり、意外そうな顔をして俺を見た。
多分に、俺とこの女の組み合わせが珍しかったのだろう。
実際、俺は剣術に付き合う以外でこの女と一緒に時間を過ごした事が無い。
俺はラークに向き合って言った。
「面倒事が増えた」
「でも、君の力でどうにかなったんだろう?」
「どうにかせざるを得なかっただけだ」
簡単に事情を話し、「お前が居なかったせいで無駄な労力を使ってしまった」と小言を零す。
しかし、ラークは俺を信用しているのか、或いは今回の件も大した事だと思っていないのか、いつもの愛好を崩さずに答えた。
小娘は、何も言わずに俺とラークの遣り取りをじっと見ている。
その眼差しに気が付いたラークは、人間の横にゆっくりと腰を掛けた。
「咲雪様、お怪我は?」
「うん、私は大丈夫。
けど、シンが」
「シンが?」
「シンが、私を庇って掌に怪我しちゃって…」
もごもごと口に何かを挟んだような言い方をし、女はちらりと視線を寄越してきた。
それに、ラークも一度俺を振り返ったが、すぐにまた女へと身体を向けた。
「それでしたら問題ありませんよ。
彼は、早々の事で死にはしません」
「大層な言い様だな」
旧友の言い分に、俺はすかさず口を挟む。
「おや、聞こえていた?
けれど、本当の事だろう」
ラークがあっけらかんと応える。
確かに、俺は懸念する様な大怪我を負った覚えは無いし、仮に重傷になったとしても、妖魔という生き物は大概の事には耐えられる。
況してや、今回はたかが十程の数の下級妖魔。
実際に避けられない命の危険だと判断すれば、容易に掃除出来る程度でもある。
勿論、矢が人間の小娘に射られた時も、態々手で掴む必要など皆無だった。
剣を抜く暇だって十分にあった。
だが、俺は敢えてそれをしなかった。
何故ならば、あの場で剣を抜かない事自体に意味があったからだ。
自分の身体を傷付けてまで、次期王の後継者を護る。
それに大いなる意味があると察した俺は、たとえ胸を槍で貫かれたとしても、剣を抜かない覚悟でいた。
妖魔にとって、血という物ほど意味を持つ媒体は無い。
相手に血を捧げるという事は、それだけ服従しているという意味を成す。
それ故、あの時、次期王の為に血を流す事を厭わず、逆にそれを甘んじて受けるという事は、一番手っ取り早く忠誠心を表す方法でもあった。
仮にかなりの傷を負わされたとしても、上級妖魔である己が数日で回復する事は難しくない。
「全く、厄介な事ばかり立て続けに起き過ぎだ。
こんな状態で、本当に城は立て直す事が出来るのか?」
甚だ疑問に思う事を、我関せずと涼しい顔をしているラークに零す。
先程の件は安い賭けだったが、功を奏して事は済んだ。
掌の痛みも、もうほぼ消え掛けている。
ただ、余り大きな動きをしていると傷が開いてしまうので、今日の内は剣を握るのも控えていた方がいいかもしれないが。
「大丈夫、打つ手であれば幾らでもある」
ラークは横に居る女に安心させるよう、緩慢と返してきた。
「むしろ、今回の件を逆に利用する事も可能だよ」
事実、「ラークの悪巧み」と形容した方が近いかもしれない策略を用いれば、多少の難は逃れられるのだろう。
ただ、今回の件で城下が騒がしくなっている事は目に見えているので、手だけは早めに打っておかなければならない。
当初の計画では、人間の小娘がそれなりに王らしく振舞える様になってから、ゼカトリア王不在の件と次期後継者の存在の報を城下に出す予定だった。
それまでは、城内の者だけで隠し、育て上げるつもりだった。
だが、それももう無理になってしまった今、必要な部分は変更し、急を要する所は早めなければならない。
これから数日…、否、数ヶ月は忙しくなるのかもしれない。
俺は、小さく嘆息した。
「エスクが居なくなって、多少は平和になったと思っていたんだがな」
懐かしい名を口にした。
エスクという名の、変節漢の愚痴。
今から数百年前、その者は「詰まらないから」というふざけた理由と共に、忽然と姿を消してしまった。
この城には、上等騎士、一等騎士、二等騎士と、上から三段階に位がある。
そのエスクという男は、俺と同じ王直属の上等騎士の一人でもあった。
とはいえ、俺は最初から上等騎士として優遇されていた訳では無い。
まだ仕官して間も無い頃、俺は上級妖魔である事を買われ、一等騎士から始まった。
その際、すでに上等騎士として城に仕えていたのがエスクだ。
その男は、皆が名を知り、誰しもが認める程の実力の持ち主だった。
当時、城の上等騎士は、エスクを含め三名居た。
その内の一人の下に付き、俺は執務を覚えていった。
エスクは、元より誰かを指導する事には長けておらず、何より持て余す程に破天荒な性格故、常に問題児として扱われ、特定の部下も持っていなかった。
しかし、力だけは群を抜いていたせいで、誰しもが太刀打ち出来ず、流石の王でさえも手を焼いていたと聞いている。
それから時も経ち、俺は昇進し、上等騎士となった。
同級となれば、エスクの素行の悪さがより目に付くようになった。
頭がよく回るラークでさえも、エスクの上手に出る事は一度も無かった。
エスクは厄介者だったが、それ以上に一目置かれる存在だった。
そんなエスクが、ある日突然、勝手な理由で全てを放り出して居なくなったのだ。
王は心底腹を立て、永久に城に足を踏み入れる事が出来ないよう、追って追放令を出した。
二度とこの城の土を踏む事は許されないと明示した。
だが俺は、元よりその男に多々面倒事を起こされ、尻拭いをさせられていた為、目の前から消えてくれた事に内心ほっとしていた。
すると突然、人間の小娘が「あー!」と大きな声を上げて立ち上がった。
その隣に座っていたラークも、些か驚いて目を見開いている。
「どうかされましたか、咲雪様」
「そう、エス!
エスだよ!」
「は?」
「そのエス何とかって人、もしかして色黒の垂れ目じゃない?
しかも、着物とか着ちゃって、声もハスキーで!」
女は、俺の執務用デスクのすぐ傍まで来て、掴み掛かる勢いで問うて来た。
けれど、俺はどうしてこの女がエスクの事…、況してや知る筈も無いその特徴を挙げる事が出来たのか理解出来なくて、ただぎゅっと眉間に皺を寄せた。
その上、「エス」という、王しか呼ぶ事を許されていなかった愛称付きときた。
奴は、同じ同僚にすらその愛称で呼ばせる事を良しとしておらず、ただ古い付き合いらしい王だけにその名を呼ばせていた。
故に、この目の前の小娘がそう呼称するのは、本来なら絶対に有り得ない事なのだ。
俺は困惑した。
「どうして貴様が」
「だって、見たもん!」
「見た?
何をだ」
「私、ずっとラークさんに聞こうと思ってたのに、色んな事が有り過ぎてとんと忘れちゃってた!」
人間の小娘が手を叩いて大仰に言う。
嫌な予感がした。
この娘が、エスクを見たというのだろうか。
何故、一体何処で?
もしや、奴自身がこの城に来たというのだろうか。
ラークも珍しくやや困った面をしている。
「エスクが、此処に来たのですか?」
「うん!
それでね、あのね、その人がね、エスって言ってね」
興奮しきったように、今度はラークの方へ身体を向け、動く口を止めない女。
ラークがその頭を撫でている。
「仰りたい事は、何となく分かりました。
咲雪様、もうその男に近付いてはいけませんよ」
「うん、だって見るからに変な人だったし」
「そうですか。
何か変な事はされませんでしたか?」
「されたよ!
何か目力でクラクラしちゃったもん!」
「目力ですか?」
「そう。
目を見てとか何とか言って、気が付いたら身体も動かなくなっちゃって…」
「成る程。
彼の妖術か、その類の技でしょうね」
まるで幼子を宥めるように、ラークは女の相手をしていた。
当の俺は、久方ぶりに訪れたらしいその男の存在に、眩暈すら覚えてしまった。
只でさえ大変な、この状況下。
そこにあの男まで帰って来たとなれば、事は無事で済む筈も無い。
そういえば、エスクは人間という種族が好きだと言っていた様にも記憶している。
それならば尚更、この騒ぎにあの男が黙って居てくれる筈も無い。
その後、一頻りラークにああだこうだと言った人間は、騎士の一人に呼ばれて執務室を出て行った。
どうやら、薄羽姫様が心配して城中を探し回っていたらしい。
同じ性別を持つ者同士、或いは単に気が合うのか分からないが、姫は人間の小娘を甚く気に入っているらしい。
ばたばたと騒がしく走る足音の後、遣って来たのは嵐でも去ったような疲労感だった。
「頭が痛い」
俺は、今すぐデスクに突っ伏してしまいたい一心で、額に手を遣った。
すると、くすくすと控えめな笑い声が耳に届く。
「相変わらず偏頭痛は治らないようだね」
「お陰様でな」
「おや、随分な言われようだ」
茶化してくる旧友は、面白い物でも見るかのように目を細めた。
妖魔は、動植物化身の生き物だ。
白猫が変化した妖魔である男ラークは、常に優雅な物腰だが、本来は誰かをからかう事が好きな曲者だ。
エスクの様な自分勝手な振る舞いや無茶な事は決してしないが、俺に限ってはどうも混ぜっ返すきらいがある。
「そもそも、どうしてあの人間の女を連れて来た?
王にするなら、態々女に男装させる必要も無かっただろう」
「そうかな?」
「当たり前だ。
百歩譲って人間を後継者に仕立て上げるにしても、男の方が後々便利だったろう。
しかも、エスクが目を付けたなら、余計に厄介な事になりかねん」
「はは、それは尤もだね」
俺は、これもいい機会だと、常時気になっていた事を問うた。
人間を王にした事はまだいいにせよ、女に男の格好をさせるなど、どう考えても理解出来なかったからだ。
「シン、私はね。
女性が男装した方が、中性的な美しさが出ると思うんだよ」
「中性的な美しさ、だと?」
「そう。
実際に人間の男を幾つか見たけれど、あれでは妖魔に扮装出来そうもない。
余り見目が相応しくないし、男性ホルモンの関係か、醜い部分が年と共に出てくるらしいんだよ」
俺の問いに、ラークは事も無げに言った。
だが、そう言われてみれば確かに、人間の男という物は、若干妖魔にはそぐわないように思えた。
妖魔の三大原則は、「強くあれ」「誇り高くあれ」「美しくあれ」だ。
それら全て厳守する事は、人間の男では多少役不足かもしれない。
その上、あの娘はどちらかと言えば、幼い少年のような面表をしている。
身体の線は細く、実際は女である事に変わりないが、それでも凛とした…、否、小生意気な眼は、時折強い意志を感じさせる。
勿論、一妖魔として、王後継者としては、もっと容姿の整った方が良かったのだろうが。
まあ、ラークの計も、強ち単に酔狂なだけではなかったのかもしれない。
「では、何故あの女にした?」
「うーん。
敢えて言えば、たまたま目に付いたから、かな」
「…本当か?」
「はは。
さあ、その辺はどうなんだろうね」
感心している矢先、またのらりくらりと意味有り気な言葉で交わすラーク。
この男は、とんだ業師であり、俺と同じ上等騎士に属する、誇り高き白い妖魔だ。
もう随分と長い付き合いになるが、それでも未だ掴めきれない性格をしているその男は、今日も美しく自若に笑っていた。
TO BE CONTINUED.
2007.06.18
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