恋は盲目。
痘痕も笑窪。
それはまるで、真っ暗闇な甘い罠。
Just Marriage
017/ノンストップ・ラブ
「御免なさい」
「全くだな」
「それと、有り難う」
「礼を言われる様な事をした覚えは無い」
「うん、有り難う」
むすっとしたままのシンの後を付いて行く。
彼は、数階分の階段を上り、ラークさんの部屋に取り付けてあった物と良く似た、けれどほんの僅かに色が濃い木製の大きな扉の前まで来た。
初めて立ち止まる其処はどうやらシンの執務室だった様で、彼はノックも無しに無言でその戸に手を掛けていた。
「入ってもいい?」
まだ傍から離れたくなかった私は、恐る恐る尋ねた。
おそらく、断られるだろうと思っていた。
けれど、「勝手にしろ」と、シンにしては珍しく色好い返事が返って来た。
怒りの余り、どうでも良くなっているのだろうか。
いずれにせよ、此処でまた余計な事を言えば、また喧嘩になるかもしれない。
私は、黙ってシンに続き、部屋の中に足を踏み入れた。
部屋内は、ラークさんの執務室とは打って変わって、随分と簡素な空間だった。
ラークさんの部屋はゴシックが効いた中世ヨーロッパ風な雰囲気で統一されていて、色も淡い茶色やベージュ、白の物が多かった。
高そうで品良い小物も、所々に飾ってあった。
だが、シンの執務室は彼の性格故か、無駄な物が一つも無く、テラス際に置かれた机や棚が辛うじて焦茶色なだけで、後はほぼ色身が無かった。
机の前に置かれた客用ソファは真っ黒で、シンが普段座っているのだろう机に取り付けられた椅子も黒。
ポールハンガーも、シンプルな黒。
勿論、そのポールハンガーに掛かっている衣服も黒、シン自体も黒。
何から何まで真っ黒だ。
壁こそ白だからいい物の、余りにその面白みの無い部屋に、私は目をぱちくりとさせてしまった。
置物や飾り物も、一切無い。
あると言えば、机の上に有り得ないくらいに積まれた膨大な紙の山。
よくぞここまで重ねて倒れない物だと感心したくなる程だ。
シンは、私の存在を気にする様子もなく、自分の執務用の席にさっさと座ってしまった。
「手、見せて」
シンをぱたぱたと追い掛けて、気になっていた事を早速要求する。
けれど、その私の言葉が意外だったのか、彼は眉を顰めて「大事無い」と、一言だけで終わらせようとする。
「でも、すっごく血が出てたし」
「これくらい明日にでもなれば治っている」
「嘘。
そんな軽い傷じゃないでしょ」
「嘘など言うか。
貴様は何も知らんのか」
無理にでも見てやろうと手を伸ばせば、嫌そうな顔をして私を見上げるシン。
しかし、此方もここで引く訳にはいかなかったので、強引にその手を取り上げた。
見れば、血はもう止まっているにせよ、鋭利な刃ですっぱりと切れた、痛々しい傷。
彼が掴んだ矢の切っ先は、思っていたより尖っていたらしい。
シンは、掴まれた手をそのままに、一度小さな溜息を吐いた。
「妖魔の回復力は、人間と比べ物にならない程に早い。
たとえ致命傷を負ったとしても、大抵は数日すれば治る事が多い」
「え?」
「そもそも、妖魔には寿命も無い。
首を刈るか、或いは大概の事が無い限りは、永久に生きる事が可能だ。
年もある程度の頃合から取る事は無くなる」
「え、ええ?」
「俺も、この姿形になって数百年は優に経つ。
貴様とは比べ物にならん程に永く生きているつもりだ。
だから、この傷も明日には勝手に治る。
放っておけ」
「えええー?」
彼が説明してくれた内容に、私は思い切り素っ頓狂な声を上げてしまった。
それと同時に、掴んでいた彼の手も思わず離してしまった。
だが、その反応は予想済みだったのか、シンは座っている椅子に深く背を凭れさせ、ただ静かな眼差しで私を見る。
「し、シンって、お爺ちゃんだったの?」
「人間の価値観で訳の分からん表現をするな。
貴様に比べれば、多少永く生きているだけの事」
「だ、だって。
じゃあ、妖魔の人口って凄い多いんじゃないの?
寿命が無いのなら、増える一方でしょ」
「寿命が無いのと同時、基本的に妖魔は子孫を残す事が出来ん。
全ての妖魔は、ある日突然動植物が変化してこの世に生を受けているだけだ」
淡々と説明してくれるシン。
そうか。
シンってば、もうお爺ちゃんもビックリなくらいの年寄りなんだ。
もしかして、そのせいでチョット古臭い喋り方なのかな。
そう思いながら呆然としている私を他所に、シンは机の引き出しを開け、白い布を取り出した。
怪我をした場所に巻きつけるつもりなのだろうか。
いくらすぐに傷が塞がるとしても、完治するまで色々と不便な事があるのは確かだ。
私は、慌ててその手伝いをしようと再度手を伸ばした。
だが、それすらも軽く制されてしまった。
「いいから、貸して」
どんなに妖魔が優れた治癒力を持っているとしても、今更遠慮負けする訳にもいかない。
私は、ほぼ強奪とも言える勢いでその白い布を奪い、彼の手に巻き付けた。
本当は綺麗に消毒して、ちゃんとした包帯で手当てした方がいいのだろうけれど、彼の話が本当ならば、妖魔の人はそんな事さえ無駄なのかもしれない。
確かに、ふと目を移せば、先程まであった筈の頬の小さな傷の色も、やや薄らいでいた。
とても浅い傷だったので、もう治りかけているのだろう。
この目の前の人は、私と同じようでいて、全く異なっていて。
見た目は人間と何ら変わりがないのに、その中身は余りに違い過ぎている。
人間は怪我をすると、治癒まで随分時間がかかる。
寿命だってある。
だから、子孫を繁栄させる為に、子作りだってする。
それが、当たり前だと思っていた。
人間以外のどんな生き物も、同じだと信じていた。
「妖魔ってさ…」
おかしな生き物だと思う。
規格外の生命体だと思う。
そういえばラークさんは、私達人間とは違って「吸血欲」もあると言っていた。
それは、「食欲と性欲の丁度真ん中辺りに存在するものだ」とも。
でも、子供を作る事が出来ない妖魔。
そんな彼らに性欲があるというのは、少し矛盾していないだろうか。
「妖魔って…、ムラムラしないの?」
ぽろり、と純粋な疑問が口を突いて出た。
人間と違い過ぎる、その生き物の欲求の一つ。
色々と理解に苦しむ部分がある。
私は、きゅっと巻いた布を蝶々結びにし、シンから手を離した。
シンの手は、本当に生きているのかと疑いたくなる程に、温度が足りなかった。
そういえば、他の妖魔の人達も、若干温度が低かった様に記憶している。
何故かしらリッたんはその時々によってびっくりするほど熱かったりもするけれど、でも基本的には皆、私より随分低い。
死人の様に全く体温が感じられないという訳ではないけれど、ほんの少しだけひんやりしているというか、或いは、常に空気と同じ様な適温というか。
命の短い小動物であればあるほど体温は高いものだと、以前、学校で習ったような気がする。
細かい事はよく分からないけれど、もしかしたら長寿のせいで妖魔は低体温なのだろうか。
本当、妖魔は色々と異なる部分が多過ぎる。
「貴様はまた、下品な言い方を」
すると、シンは呆れた様な声色で返してくれた。
心底私の言った事が信じられないとでも言いたげだ。
けれど、私が色々と不思議に感じるのも、無理は無いと思う。
だって人間と妖魔って、一から十まで、もう何から何まで違うっぽいし。
私は続けた。
「だってさ、性欲が無いと、そういうエッチな事はしないじゃない?
子供が作れないんだったら、欲求不満も無さそうだし」
「それとこれとは別だ」
「別?」
「妖魔には、人間の三大欲求と同じ様な物はある。
ただ余り意味を成していないだけで、妖魔になる以前の動植物だった本能なだけに、変わりは無い。
純粋に相手を求めれば、それも自然に湧く感情だろう」
ラークさんと同じような話をしてくれたシン。
妖魔の欲求は、食欲、睡眠欲、性欲、そして吸血欲。
人間の私は、妖魔にとって獲物も同然。
それを防ぐ為に、先代の王様を匂わす香水を使えとか何とか、その様な事も言っていたな。
「それに、妖魔は他者を支配したいという願望が強く現れる傾向にある。
それ故、性欲や吸血欲を為して相手を自分の物にしたいと思う事が多い。
尤も、吸血によって己の力を増幅させる事も可能だがな」
その説明に、吸血って輸血と同じ様な物なのかな、と私は一人納得した。
もしくは、栄養ドリンクとか、サプリメントの類なのかもしれない。
そんな風に考えていると、シンは「貴様は、本当に無知な奴だな」と付け足して、机の上に置いていたらしい眼鏡を耳に掛けた。
意外な事に、彼は目が悪かったらしい。
傷は勝手に治るくせに、目は悪くなったらそのままなのだろうか。
つい気になった私は「もしかして老眼なの?」と聞こうとしたが、それもすぐに止めた。
それを言っては、また何やらどやされるか分からない。
今回は黙っておこう。
しかしその時、はたと気が付いた。
お城には、薄羽以外にもお姫様が数人居る。
彼女達は皆、お城の端っこにある墓地で眠ってしまっているのだそうだ。
その事実はつい先日ラークさんに聞いたばかりなのだけど、彼曰く、王様は亡くなる際に全てのお姫様を強制で眠らせたとの事。
私から言わせれば、まさに強制心中みたいな感じだ。
けれど、何故だか薄羽だけは王様も眠らせなかったそうで、今となっては、彼女だけがこのお城でお姫様として生活しているのだとか。
凄く可笑しな話だけれど、その理由を皆に聞いても、誰しもが何故だか分からないと言っていた。
勿論、眠らされているお姫様も起きようと思えば、自らの力で起きる事が出来るらしい。
ただ、どの子も随分と王様を好いていたらしく、自分の意志でその強制睡眠の魔法を解いてはいないらしかった。
だから、私は薄羽以外のお姫様には、未だ一人も会っていない。
妖魔は、魔法が使える。
全員が全員という訳ではないらしいけれど、少なくとも位の高い者は十中八九使うそうだ。
王様がお姫様達を眠らせたのも、その魔法を使っての事らしい。
ラークさんは「魔法と言うより、私達は妖術と表現するのですが」と、以前教えてくれたのだけど、生憎人間の私にはその差が上手く分からない。
不思議な魔法である事に変わりはない。
ちなみに、ラークさんは水を扱う術が得意との事。
彼は、パチンと軽く指を鳴らして、中庭にある噴水から噴き出している水を真っ二つに割り、それを瞬時に凍らせて見せてくれたりもした。
それは、本当に最高級のマジックのようだった。
私は、開いた口が塞がらなかった程だ。
しかし、魔法を使い、ほぼ不老不死とも言える人間離れした妖魔に生殖活動が出来ないとなれば、お姫様達の存在は謎だらけになる。
たとえば、薄羽を含めるお姫様達と先代の王様との関係は、一体どういったものだったのだろうか、とか。
子孫を残す事が出来ないのならば、どうして彼女達が存在するのだろう、とか。
「ねえ、じゃあついでに聞くけどさ」
私は身を乗り出した。
シンは、眼鏡のレンズ越しに私を見た。
「このお城には、お姫様達が何人か居るじゃない。
けど、妖魔って子供を作る事が出来ないんでしょ?
それなのに、何で?」
先代の王様も妖魔だった筈だ。
妖魔には、子供を作る事が出来ない。
それなのに、沢山居るお姫様達。
彼女達が王様の血の繋がった娘でないのならば、一体何なのだろう。
私の湧いてきた疑問に、シンは「考えてみろ、簡単な事だ」と、形のいい薄い唇を動かして言った。
けれど、ただでさえ不可思議な妖魔の事を、純人間な私が分かる訳も無い。
シンは、また一つ溜息を吐いた。
何だか人を小馬鹿にしたみたいな嘆息だ。
しかし、身体を私から机の方へ完全に向け、傍に積み上げていた紙を一枚手に取った後、彼はすぐにその謎解きの答えをくれた。
「貴様ら人間で言うところの、養子だ。
ゼカトリア王は、美人と名高い女を収集する趣味があったからな」
その回答が余りに簡単だったので、私も「ああ」と、些か拍子抜けしつつ納得してしまった。
言われてみれば、確かにそれは人間の私でも容易く導き出せる答えだった。
シンの言う所が本当ならば、先代の王様は随分と癖のある女好きだ。
もしや「娘」というのは口実で、実際はお姫様達を「女」として寵愛していたという事だろうか。
そういえば、薄羽も「王の傍に居る事だけが、私達の仕事」などと言っていた。
そんな台詞が出るという事は、もしかしたら薄羽も王様と何らかの関係があったのかもしれない。
とはいえ、そんな下世話な事をほわほわした彼女に直接問うのも憚られるので、真偽の程を確かめる事は出来ないかもしれないが。
シンは、今度こそ何も言わなくなった私を無視して、紙に書かれた蚯蚓が這った様な文字を黙々と目で追い掛けていた。
そのモーションが、まるで「もうこれでお喋りは終わりだ」とでも言っている風だったので、私もシンから離れて、一人来客用ソファの方へと移動した。
ソファは、三人掛け用の黒い皮張り製の物だった。
深く腰を下ろせば、シンが普段付けているらしいウッディの香水の香りが僅かにして、思わず口元も緩んでしまった。
シンは、私が勝手に座って居付いた事に関して、何も言わなかった。
私の傍に来る様子も見えない。
ただ、黙々と自分の仕事を片付けている。
シンは、ラークさんみたいに御持て成しとかしてくれないんだなあ。
まあ、それも当たり前かもなあ。
ソファに落ち着いたものの、すぐさま訪れる静寂。
手持ち無沙汰になった私は、ちらりとシンの顔を見遣った。
彼は、私の存在が空気だとでも言わんばかりに、ひたすら書類と睨めっこをしている。
その何かを考えている様な伏せた眼は、やっぱり悔しいくらいに格好良かった。
口だけは頗る悪いけれど、それ以外はほぼパーフェクトな人だ。
何より、先刻の門でのプロポーズ紛いな言葉は余りに過激過ぎて、年頃の女の子には卒倒物だった。
きっと、シンは凄く真面目な人なんだと思う。
だからこそ、あんな言葉も普通な顔してさらりと言えたのだろう。
しかも、皆に憧れられる程に強くて、格好良くて…。
あ、嫌だ嫌だ。
私、今日で何回「格好いい」って言葉遣っちゃってんだろう。
けれど、すらりと高い身長とか。
人を射る様な強い眼差しとか。
低くて、耳に心地良い声とか。
胸がきゅんと痛くなる様な、落ち着いた大人な香りとか。
一度意識すれば、悲しいくらいにいい所ばかりが目に付いてしまう。
つっけんどんな物言いでも、何だかんだで面倒見が良くて。
いかにも騎士らしいプライドと強さを持っていて。
そんな所も、下手に軟派な男より断然いいと思う。
おそらく、女の子にもモテるんだろう。
ストイックな感じなので、余り相手にしそうもないけれど。
それに加え、中でも私の事だけは人一倍嫌っているみたいだけれど。
つんとした整った顔は、私を見る度に顰められる。
今だって、書類に目を通す振りをして、極力私を視界に入れない様にしているのかもしれない。
唯一の救いは、今すぐ此処から出て行けと言われない事だけだ。
でも、出来ればそんな塵や空気の様な扱いではなく、もう少し、ほんのもう少しでいいから、優しくして欲しいなあ、などと思ってしまう。
どうやら私は物の見事に、むしろ簡単過ぎる程に、目の前の人が気になりだしたらしい。
切っ掛けは予測出来ない落とし穴に落ちた様な、小さな事ではあったけれど。
それでも、今までの印象が悪かった分、その感情は私の中で大いに膨らみつつあるのだった。
恋は盲目、痘痕も笑窪。
この日、私は生きてきて一番真っ暗闇だろう甘い罠に掛かってしまった。
TO BE CONTINUED.
2007.06.17
present for ハニ様.
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