絵本の中でしか見た事が無い様なお城に連れて来られたかと思いきや、気持ち悪い程の美形集団に囲まれて、告げられた言葉は、「この城を統治して下さい」だなんて。
しかも、妖魔だの麒麟だの訳の分からない存在を何だこうだと言われては、「妖怪と妖魔の違いって?」「そもそも麒麟って、何?」「もしかして、動物園に居る首長のあれか」とか、思ってしまうのは当たり前な訳で。
仕舞いには、窓から落ちて姿を消した、蝙蝠…、というか幽霊男。

ああ、もう。
何から何まで私を取り巻く物は、理解不能な事ばかり。

Just Marriage
009/王たる者の香り

「んんー」

唸りながら目を開ければ、一番に映ったのは、やや薄紫がかった半透明のレース布だった。
「あれ、これは何だ」と思って、じっとその正体を見れば、それはどうやらベッドに付いているカーテンらしかった。

「何だ、これは天蓋ベッドか」と納得し、一度目を閉じる。
だが、よくよく考えれば、何故私の家にそんな豪勢な物があるのかが分からない。

私は、すごい勢いでガバリと起き上がった。
余りに急に身体を起こしたので、一瞬くらりと眩暈もしたが、今はそんな事を言っている場合じゃない。

軽く痛む頭を抑えて、辺りをきょろきょろ見渡す。
やはり此処は私の部屋ではない。
ましてや学校や病院等でもない。

紛れも無く、昨日居た、嫌に非現実的なお部屋だ。

「うわ、マジで?」

正直、「目を覚ませば全て夢だった」なんて落ちを期待していたので、私はがっくりと首を項垂れた。

そういえば昨日、最後に見たのはラークさんだった。
厳密に言えば、ラークさんの腕の中だ。

けれど、辺りを探しても、今はそのラークさんの姿が見えない。
ただ、ベッドヘッドの近くにあるローチェストの上に、昨日ラークさんが持っていた小瓶だけが置かれていた。

これは一体何だったのだろう。
手に取って見てみれば、それには淡いピンク色をした透明の液体が入っていた。
瓶自体も丁度掌サイズの、丸っこい王冠の形をしている。
蓋の部分には、小さい赤と透明のビー玉の様な石が埋め込まれていて、とてもお洒落で可愛らしい。

「何か、香水みたい」

そう独り言を言って、一頻り眺めた後、私は瓶を最初にあった場所に戻した。
恐らくラークさんの私物だろうから、余り弄る訳にもいかない。

そこで、「さて」と一息吐いてみる。

何かしなければ。
何をすればいいのかは、分からないけれど。

とりあえず、ベッドから足を下ろした。
このまま一人寝ている訳にもいかないだろうから。

そこには、私が昨日履いていた筈のローファーがきちんと揃えられていた。
その周りには、赤い花弁も一緒に、まるで添える様に散らばっている。

こんな粋な事、私は十数年生きてきて一度も経験した事が無かった。
周りにそんな事をしてくれる人だって、一人も居なかった。

毎日毎日、朝起きて一番に目に入るのは黴た天井だったし、その次に見るのは、台所で新聞を読んでいる、頼り無くて禿たお父さんだ。
いや、仮にお父さんがいかしたフランス人やイギリス人だったとしても、こんな素敵な計らいは無かったと思う。

折角添えられたその花弁を踏まない様、ローファーに足を入れてみる。
やはりこれは、ラークさんがしておいてくれたのだろうか。
確かに彼であれば、それくらいお洒落な事も、さらりとして見せるのだろう。

私は、広すぎる部屋をうろうろと散策した。
見れば見る程に、イギリス王朝にでもありそうなサイドボードの様な棚とか、お姫様仕様のドレッサーとか、スツールとか。
そのどれもが、未だ嘗て絵本やテレビでしか見た事が無い様な代物だ。
もしかしたら、指紋でも付けてしまえば、何処からか警備員でも現れるのかもしれない。

そんな風に馬鹿な事を考えていると、丁度扉がコンコンコンと三度ノックされ、「咲雪様」という優しい声がした。

「はーい」

返事をすれば、其処から顔を出したのは、やはり白い髪が物凄く綺麗な美人な人、ラークさんだった。

ラークさんは、私の顔を見るなり、「よく眠れましたか」と、にこやかに笑った。
その言い振りはまるで、少女漫画に出て来る執事だ。
いつか憧れたそのシチュエーションに、私の胸もとくりと鳴る。

「うん、まあ、そこそこに」
「そうですか、それは良かった。
それでは、これから朝食でもいかがですか」

ラークさんのその一言に、「一晩は経っちゃってるんだな」なんて反芻する。
悲しい事に、これはやはり夢では無いらしい。
昨日は、愚かな事に「夢なら思い切り楽しまなきゃ」なんて考えもしたけれど、これが現実となれば話は別だろう。
楽しむ楽しまないとか言っている場合ではなく、「如何にして家に帰るか」が最優先だ。

とはいえ、優しい笑顔で迎えてくれているラークさんに、いきなりそんな事を言うのも憚られる。
家に帰りたいと訴えれば、彼は困るだろうか?
或いは、目の色を変えて怒るだろうか?
私の命も、今度こそ危険に晒されるのだろうか?
でも、昨晩、優しくあやして私を寝かしつけてくれたこの人が、そんなに怒るものだろうか?

此処に来てから、まだ一日。
何も分からない事ばかりだ。
一先ずは、彼の言うように、まずは朝食を頂いてから考えた方がいいかもしれない。

「うん」

言った瞬間、「いや、ご飯どころじゃないだろう」とか「何やってんだ、私は」なんて、内心自問自答してしまった。
私は、流されているのかもしれない。
この物凄く綺麗な顔をしている、優しい紳士に。
まるで「作られた美人」というか、「芸術品」というか、どうやればこんなに美人になれるのか、そこを詳しく聞きたいくらいだ。

そう一人安易に返事をしてしまった事に言い訳を付けていると、ラークさんは私に恭しく手を差し出してきた。
「お手をどうぞ」と言われているお姫様みたいだ。
いざこんな事をされると、妙に気恥ずかしい。
私は、ほんの少し顔を赤くさせてしまった。

しかし、手を乗せようか乗せまいかと間誤付いている私に、ラークさんは「おや」と声を上げた。

「いけませんね」

彼が言いながら、私の顔を見た。

何か不味い事でもしてしまったのだろうか。
不安になって、同じ様にラークさんの顔を見詰め返す。

ラークさんの銀淵眼鏡の奥にある薄い緑色の瞳は、すうっと透き通る様に存在している。
其処に、馬鹿面しちゃっている私が、はっきりと映っていた。
しかも、起きてからまだ一度も鏡を見ていないため、酷い寝癖を所々に付けてしまっている。

「あれを付けていないのですか?」

ラークさんは、後方にあるベッドの方に目配せした。
私は、「あれって?」と首を傾げ、ラークさんが言わんとしている事を考える。

けれど、幾ら考えたところで、私には全く思い当たる節が何処にも無い。
彼が何を訴えているのか、見当も付かない。
そんな私に、ラークさんは、「あの香水ですよ」と、もう一度、諭す様に言ってベッドを指差した。

そう言われれば、確かに私のベッドヘッド近くのチェストには、可愛らしい王冠型小瓶が置いてあった。
しかし、それを勝手に付けてもいいと私は一言も言われていなかったし、ましてやあれが香水だったのかもはっきりと分からなかった。

まあ、私が気が付く様にすぐ傍に置かれていたので、これってもしかして私の物なのかなあと気が付いても良かったのかもしれない。
それでも、何も言わずにそれを使うほど私も失礼な奴ではないし、好い加減な奴でもない。

「咲雪様には申し訳ありませんが、今日から毎日、あの香水を付けて頂かないと」
「へ、何で?」

ラークさんがベッド近くにある香水を手に取った。
そして、にこりと私に微笑み掛けてくる。

とはいえ、やはり彼の言っている意味が分からない。
腑に落ちない。

ラークさんは私の心内を読み取ったのか、困ったように眉を下げて笑った。

「今の咲雪様では、私共妖魔は、すぐに人間だと分かってしまうのです。
ですから」

「これを付けて頂かないと」と、彼が続ける。
そこまで言われても、まだ言っている意味が分からない。
人間だと分かる?
妖魔が?
だから何?

脳内に沢山の疑問符を付けて、「何で」と聞き返す。
彼は諭すように言った。

「妖魔というのは、割と鼻が利く方でして」
「うん」
「人間の独特の匂いを嗅げば、すぐに分かってしまうものなのですよ」
「うん?」
「昨日、話した内容を覚えていらっしゃいますか。
妖魔は、人間を捕らえる対象として見る事もある、と」

そう続けて、ラークさんはきゅっと指を捻り、小瓶の蓋を開けてくれた。
香水を宙にワンプッシュすれば、辺りに柔らかいにおいが拡がる。
その香りは、ピンク色した見た目を裏切らない、けれど甘すぎない薔薇の香りだった。
優しくて、でも何処か芯の強い、高貴な香りだ。

「まあ、シンの言った『捕食対象』というのは、少し大袈裟ではありますが。
要するに、妖魔は時として人間の血を吸う事があるのです」

くんくんと犬の様に香水の香りを嗅いでいると、ラークさんが私に手を伸ばしてきた。
けれど、そのシン何とかって人の名前を聞いた瞬間、私は昨日の話を思い出し、ばっとその手から離れてしまった。

確か、そのシン何とかって男は「人間は我らの餌だ」みたいな言い方をしていた。
しかも、その彼自身、かなり性格が悪そうだった。
それこそラークさんとは正反対な、嫌味で陰険で最悪な奴だった。
あの男なら、人間を殺して食べかねない。

ラークさんは優しい。
けれど、この彼も今は紳士面していこそすれ、本当はあの男みたいに人間を餌として見ているのかもしれない。
それならば、容易に触られるのも避けなければ。

ラークさんが、益々困った顔をしてみせた。

「咲雪様、そんなに警戒なさらないで下さい。
何も、私達は貴女様を取って食おうとしている訳ではありませんので」

本当だろうか。
先程、妖魔は吸血鬼のように血を吸うと教えてくれたのは、彼自身だというのに。

「実は、妖魔には、人間と同じ『食欲』『性欲』『睡眠欲』の三大欲求の他に、『吸血欲』という物がございます。
言ってしまえば、食欲と性欲の丁度間を取った様な欲求ですが、そんなに年がら年中欲する訳ではありませんから」
「…本当?」
「ええ。
たとえば、人間は誰かを好きになれば、その人と性交渉を交わしたいと思う様になるでしょう?
勿論、その相手に対して好意を抱かずとも発情してしまう事もあるのでしょうけれど、要はそれと同じ理論です。
大概が好意を抱き、欲しいと思った相手に吸血すると考えて下さって構いません。
その点、食欲というよりは、性欲の方が近いかもしれませんが」

淡々と説明され、納得していいものやらいけないものやら、何だか複雑な気分になる。

そもそも今の私は、百獣の王に牙を向けている子犬なのかもしれない。
もし本当に彼らが妖魔という生き物で、人間を過小な存在だとしか思っていないのならば。
私のような人間が到底敵う筈もない、並外れた力を持った何かなのだとしたら。

だからといって、今の私に何が出来るだろう?
仮に抵抗したとしても、抗う事も許されないのではないだろうか。

ラークさんから距離を取りつつ、葛藤する心に問答してみる。

ラークさんの言う事は、信用したい。
自分の命の安全を信じたい。

けれど、どう足掻いたところで、結局は食べられてしまう危険性があるにはある。
いつあっさりと殺されてしまうか分からない状態だ。

「簡単に言えば、妖魔は自分が気に入った対象を自分の物にしたくなってしまう訳ですよ。
そういえば、人間でも愛が究極になれば、その相手を食べたい程になってしまうと言うではないですか。
それと、ほぼ一緒です」

そう付け足して、にっこりと笑うラークさんに、どうしたものかと私は考える。
此処は、「はい、そうですか」と言って全面的に信じるべきか、或いは、「そんなもの信じられる訳ないでしょ」と大きな声で吼えるべきか。
どちらかと言えば、後者の方が今の私に近いのだけど、それをしてしまえば、その瞬間、目の前のこの人が豹変してしまうかもしれない。
そんな最悪な事は避けておきたいので、やはり此処は前者の方を取るべきなのかもしれない。

「じゃあ、この世界で誰にも好かれなかったら、私が食べられる事も無いって事?」
「極論を言ってしまえば、そうですね。
まあ、食べると言っても、妖魔は人間の肉を食らったり骨をしゃぶったりはしませんし、血をほんの少し吸うだけです。
それも、対象は人間に限らず、同じ妖魔同士でも欲すれば血を分け合ったりします。
ですので、昨日シンが言っていた事は、ほとんど過言ばかりですよ」

私を安心させる様にラークさんは言って、またいつもの笑みを見せてくれた。
でも、「誰にも好かれなかったら大丈夫」って、それって私が誰にも好かれる心配が無いと思われているのだろうか。
それはそれでショックなんだけどなあ。

すると、私の心を読み取るのが上手なラークさんは、「それ以前に」と更に続けた。

「咲雪様、貴女様は此の城の後継者。
ゆくゆくは王となるのですから、皆、恐れ多くて吸血しようとは思いません」
「本当…?」
「ええ。
吸血は、己より下位の者に感じる事がほとんどです。
自分の所有物として食らいたいという、征服欲の表れですし」

そう言われても、やっぱり納得出来ないものは出来ない。
嘘では無いと思いたいけれど、手放しでは信じられないし、喜べない。
何より、私の命の保障が今一不安だ。

だから、此処は聞けるものはきちんと聞いておこうと、私は一歩前に出た。

「じゃあ、それとあの香水と、何が関係あるの?」

ラークさんは少し驚いた顔を見せたが、すぐに常の表情に戻る。

「先程も言いました様に、咲雪様からは明らかに人間の匂いがするのです」
「人間の匂い?」
「ええ、そうです」
「それって、もしかして私、そんなに臭いって事…?」

一瞬、自分が臭いと言われたのかと思った私は、思い切り嫌な顔をして問うた。
だが、それをすぐに否定する様にラークさんは言う。

「いえ、臭いといった訳ではなく、自分達妖魔とは違った匂いなのです。
咲雪様には分からないでしょうが、人間特有の匂いというものがあるのです」
「人間特有?」
「そうです。
ですので、その人間臭を限りなく薄くする為に、特殊な香水を調合した物が、これなのです」

私の左手を取り、その手首に一度香水を振り掛けるラークさん。
また薔薇の香が強くなった。

「勿論、妖魔にもピンからキリまで居りますので、下級の者は騙せても、かなり位の高い特殊な妖魔は、騙せない事もあります。
ですので、安易に見知らぬ妖魔とは接触せずに私の傍に居て下されば、特に問題はありません」

香水が掛かった左手を離し、今度は右手首に香水を振り掛けられる。
甘い薔薇の香りが、私の全身を優しく包んでいく。

「つまりは、私が人間だって事を、ばれない様にしなきゃならないんだね」
「ええ、そうですね」
「そうすれば、私が人間として食べられる事も無いんだよね」
「ええ、ありません。
けれど、女性である事も隠して下さいね」

そう会話しながらも、私はラークさんに後ろを向かされた。
服の上から、足首や腰元に香水を振り掛けられる。
まるで至れり尽くせりだ。
急に恥ずかしくなって、私は「それって、昨日も聞こうと思ったんだけど、何で」と、振り返りながら尋ねた。

「それは、追々話しましょう。
外でシンが待っております」

ラークさんは、最後に私の項にまで香水を掛けてくれた。
もう身体の到るところから薔薇の香がする。
匂いが煩いくらいだ。

やはり私は薔薇だなんてキャラじゃない。
ラークさんみたいに美人じゃないし、そんな女の子らしい性格だってしていない。
それなのに、ラークさんは「よくお似合いです」とだけ言って、目を細めて笑ってくれた。





TO BE CONTINUED.

2007.05.12


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