異世界への扉を開いたのは、未だ嘗て無い格好をした美形のお兄さん。
彼は、優しい笑顔で私に言った。
「共に来て下さいませんか」と。
Just Marriage
002/マイ・キャッスル
外に出てみれば、存外風は冷たかった。
上に羽織る物なんて何も持って来ていなかったから、仕様がなく制服のシャツを立てる。
けれど、色んな場所から冷たい空気は入ってくるし、ほとんど意味なんて成さなかった。
「お母さん」
呟いてみても、目の前のお母さんは返事なんかしない。
ただ、冷たい石の下に埋もれて沈黙を守るのみ。
傍に添えられている花は、誰が持って来たのだろうか。
あの後すぐ様何も持たずに家を出て来た私は、その純白の生花を見詰めた。
「どうしよう」
穢れなんて知らない美しい花弁が、冷たい風に揺れている。
幾らそれを見ていても、語りかけたとしても、そこからは何も見出せないし、聞き出せない。
お母さんが何かを言っている風にも思えない。
せめて、こんな時くらい幻覚でもいいから私の前に現れてくれればいいのに。
今までにそういった類を事を、辛い事がある度に何度も思ったけれど、その願いが叶った事は一度としてなかった。
むしろ、ほんのちょっとした奇跡すら起きなかった。
それこそ本当に、私だけ神に見放されているのではないかという程に、たった一度も。
泣きたい気分だった。
強くあれと常に思っているからこそ、お父さんの前では気丈で居たけれど、今くらいは泣きたい。
誰も居ないところくらいでは、普通に泣いたり、怒ったりしたい。
しかし、それすらもこの真冬の風は許してくれなかった。
潤んでしまった瞳をすぐに乾かしてしまう、乾いた冷たい風。
背骨すらぎしぎし言わせる、冷え切った風。
人前で泣いたりするのが嫌いな私だけど、それでも今くらい泣かしてくれてもいいのに、それさえ許してくれない。
「こんな人生になるなんて、思ってもなかったよ」
私は、墓前で何もせずに、ただ独り言を零しながら座り込んでいた。
石に刻まれた母の名前に、僅かに苔の様なものがこびり付いている。
雑草は余り生えていない。
季節が季節だから、枯れてしまったのかもしれない。
そう言えば、いつからお母さんのお墓の掃除をしていなかっただろう。

「逃げ出したいですか」
その時、急に後ろから、年若い男の人の声が聞こえた。
低すぎず高すぎず、とても上品なトーン。
驚いて、すぐに私はその後ろを振り返る。
「逃げ出したいですか、お嬢さん」
そう言いながらその場に立っていたのは、一人の男性だった。
優しい目をして、鼻筋だって通っている。
口調こそ普通だが、明らかに日本人じゃない。
背だって高かった。
けれど、それ以上にその容貌自体が凄かった。
さらさらと流れる真っ白な糸の様なショートの髪の毛。
身に纏っているのは、その髪の色を生やす、薄灰色のロングコート。
銀縁の眼鏡もかけている。
まるで、モデルの雑誌からでも飛び出してきた様な…、いや、むしろこれは「ビジュアル系」というのだろうか。
けれど、紳士っぽい感じが十分にある。
ただ、ここは日本の墓地。
こんなにも目を惹く人にとって、存在する場所は大いに間違っている感じはあるけれど。
「は?」
私は、その余りな格好をした人物に、それだけしか返せなかった。
おそらく、随分と素っ頓狂な声になっていたと思う。
けれど、それを意に介さず、その男の人はにこりと私に笑いかけてきた。
やはりとても綺麗な笑顔。
この世にこんな美人が居るだなんて知らなかった。
格好は…、まあやっぱり変だけど。
「いきなり後ろから申し訳ございません。
ただ、貴女様が余りにも悲しそうだったので」
そう言って、男は非礼を詫びる様に片手を胸に当て、軽く礼をしてくれた。
まるで、貴族様のようなご挨拶。
けれど、またそれが悔しいくらいに様になっていた。
見惚れていると、彼はまたにこりと笑って、ゆっくりと此方に近付いてきた。
その動作一つ一つまでが凄く綺麗で、私は時が止まってしまうのではないかと思った。
「あ、あの」
「本当に悲しそうな顔をしていらっしゃる。
咲雪様」
距離にして僅か一メートル。
それくらいまで男は近付いてきて、相変わらず優しい瞳で私を見詰めてきた。
よく見ると、片方だけ覗いているその瞳は、淡い透ける様な緑色をしている。
ずっと見ているだけで、吸い込まれそうになるほど綺麗なガラス玉。
それを縁取る睫毛だって長くて、真っ白に映えている。
同じ人間だなんて思えない。
まるで作られたお人形さんみたい。
そう。
例えばフランス人形とか、そういった類の。
そこで、ふと私は気が付いた。
さっき、この人は私の名前を呼ばなかったか、と。
「貴方、私の名前」
「ああ、これは続けてご無礼を。
私の名前はラークです。
貴女様のお好きな様にお呼び下さい」
「い、いや。
そうじゃなくて」
全然噛み合わない会話に、ラークさんという人は相変わらずしゃがみこんでいた私に視線を合わせてきた。
そして、呆気にとられていた私の手をとり、その綺麗な唇に私の手の甲を付ける。
私は、外国被れの求愛行動にも似た挨拶に、更に慌ててしまった。
こんなに綺麗な男の人を見たのも初めてなのに、そんな人にただの手とはいえ、口付けられるなんて。
そんな、そんな馬鹿な。
これは夢じゃなかろうか。
「ああああああ、あの」
「咲雪様、我が麗しき君。
どうぞ、このラークめと一緒に来てはくれないでしょうか」
「えええええ、えっと」
「お願いです」
しかも、どんどん勝手に進められていく話。
それに、やっぱり噛み合わない会話。
むしろ、私は気が動転しすぎてしまって、言いたい事が全く言葉にならなかった。
正しい日本語なんて喉から出てこないし、漏れてくるのは呂律の回らない意味不明な単語と、頭からは沸騰間近な熱い湯気。
顔なんてものの見事に真っ赤になってしまって、茹蛸状態間違い無しだ。
「すすすすす、すみませんが、あの、あの、私」
「ああ、重ね重ね申し訳ありません。
詳しい話もしないで、勝手に自分の言いたい事だけ言ってしまって」
「あう、あう、その」
「ですが、私も此処に長時間居る事が余り出来なくて。
失礼だとは思うのですが、まずは向うにいって詳しくお話を致します。
まあ、事後承諾とはなるのですが」
そう言って、ラークさんは口付けていた私の手をそのまま引っ張って立たせてくれた。
何が何だか分からない。
この人、目を見張るほどに物凄い美人だけれど、何だかそれ以上に頭がおかしいのかもしれない。
服だってちょっと時代錯誤だし。
髪の毛もおかしな色にブリーチしてるみたいだし。
「あの、ラ、ラークさん」
「では行きましょう、貴女様の城へ」
「いや、だからね、私…って、城?」
城だって?
今、本当にこの人おかしな事言わなかった?
そう思うのも束の間、私はラークさんに不意に抱き寄せられた。
ラークさんの片手が私の肩に触れている。
頬には、衣服越しに彼の胸。
それと同時に香ってくるのは、海の様な透き通った深い香水の匂い。
この状態は何だろう。
私もしかして、この美形だけど時代錯誤なお兄さんに求愛されているのかな。
でも、ちょっと待って。
私にはまだ顔も名前も知らないけれど、フィアンセが居て。
その人のお金でお父さんを食べさせていかなきゃいけない訳だし、こんなところで現を抜かしている場合なんかじゃ無い。
けれど、それとは相反して、胸はどきどきと高鳴りを始めていた。
心なしか、眩暈まで。
視界だって、どんどん真っ暗くなっていくし。
仕舞いには、先程まで目の前にあったお墓が、一つも見えなくなっていく。
どうしよう。
どうしよう。
私、とんでもない人に、物凄い眩暈がする程の恋をしちゃったの?
そう思ったのも束の間。
それは、全く持って気のせいだった。
だって、本当に視界は歪んでいたのだ。
真っ暗になったかと思うと、私達の周りに紺色の渦が近付いてきて、それに飲み込まれると思った瞬間、無重力の世界に放り出された様な心地になった。
足場が無い。
ラークさんも気が付けば居ない。
けれど、倒れるなんて事もない。
何だか身体だけが、ふわりふわりと浮いている感じ。
そんな変な感覚に流されていると、一度は閉ざされた視界が、段々とはっきり蘇って来た。
真っ暗な藍色の中に、ぽつりぽつりと色と光が灯っていく。
まるで、目を瞑ったところに仄かな光を入れられた様に、それらは淡いピンク、目を刺す様な明るい黄色へと変わっていく。
それから、薄くて綺麗な薄緑。
これは、ラークさんの瞳の色かな。
「さあ、着きましたよ、咲雪様。
此処が、今日から貴女様のお城でございます」
気がつけば、浮いていた筈の体がしっかりと地に付いていた。
足場を確認してみると、自分の学校指定のローファーと紺のハイソックスが見えた。
しかし、その足が踏みしめているのは、先程まで自分が居た墓地なんかじゃない。
コンクリート、いや、石の様な。
大理石みたいな、大層お金がかかっていそうな床。
だから、そこで私はふと我に返ってしまったのだ。
え、大理石だって、と。
「えええええっ」
余りの事に、私は根限りの声を上げた。
周りを見渡しても、明らかに先程とは全く違う世界。
立派な石作りの柱に、壁無しの渡り廊下。
それこそラークさんが居ても何も不思議じゃない、何処ぞの豪勢なお城の様な場所。
周りには、イギリス庭園かと突っ込みを入れたくなる程の綺麗な緑。
その突飛な光景を目の前にして、「ちょっと寒いかな」なんて立てていた襟も、ふにゃりと力なく曲がってしまう。
「どどどどど、何処よ、此処」
「まあ、立ち話も何ですし。
とりあえず、私の執務室にでも行きますか。
咲雪様に合う紅茶をお淹れします」
慌てふためいて、もう何が何だか理解出来ない私を余所に、いつの間に脱いだのか、ラークさんは先程まで着ていた灰色のコートを片手にかけ、空いている方の手で私を手招いた。
そのラークさんが呼んでいる方向には、大きな真っ白な塔。
いわゆる、絵本でしか見た事が無いお城が存在していた。
もしかして、今、私達は、その渡り廊下にでも立っているのだろうか。
でも、私はさっきまで確かに墓地に居て、恥ずかしい事に独り言まで言っていて。
それがこんな所にワープしちゃっただなんて、普通じゃどう足掻いても有り得ない。
これは、本当にどうにかなっちゃったのかもしれない。
私は何処かに頭でもぶつけて、夢でも見ているのかもしれない。
そんな風に呆けていても、彼は全く気にしない風で「此方へ」と、再度私を呼んだ。
何が「此方へ」だ。
なんて一人心の中で突っ込みながら、それでも一人立ち尽くしていても仕様がないから、彼が連れて行こうとしている方へ足を進める事にした。
夢を見ているにせよ何にせよ。
いや、夢なら夢で、むしろいっその事、この状態を思い切り楽しむべきだと思う。
目の前には、超が付く程の美形のお兄さんだ。
これは、もしかしたらお母さんがくれた一種の幻影なのかもしれない。
不謹慎な事を思いながら、少し吹っ切れてしまった私は、「はーい」と返事をし、彼に駆け寄った。
その時、ふと気が付いたのだけれども、さっきまでの「知らない人と結婚しなければならない」というどんよりとした気分も一緒に、何処ぞに吹っ飛んでいった様だった。
TO BE CONTINUED.
2005.10.20
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