とある日の出来事だった。

突然私に告げられた婚約話。
けれどそれは、予想だに出来ないもう一つの世界の始まりでもあった。

Just Marriage
001/Girl From Tokyo

「お前が小さい頃から、十八歳になったら嫁にやるって約束してしまってたんだよ。
悪いが、咲雪
わしの為だと思ってここは一つ、嫁にいってはくれないか」

何て無責任な。
それでもって、何てお馬鹿な、今更な古典的なお約束。

知ってた?
馬鹿って、誰かが「馬」か「鹿」か見分けがつかないものを見た時から生まれた言葉なんだって。
確か、秦の始皇帝とかが絡んでた様な。

私は一人心の中で突っ込みを入れてから、今自分の前で珍しくも正座なんかしてお願いしてきている我が父親を見た。
普段から特別頼りになる親だとは思っていなかったけれど、若干ハゲている頭が今日は更に寂しそうに見えるものだから、何とも悲しくなる。
それでもって、ぎらぎらとテカっている鼻の頭とか。

おそらく、自分の娘であってもさすがにこの縁談の話は申し訳ないと思ったのだろう。
脂汗といっていいのか、単なる過剰な新陳代謝か。
微妙なところではあるのだけれど、それなりに心痛ませている様子は、一応伺える。
それに、我が父ながら、何だか情けなくなった。

「あー、お父さん。
まー、その…、あー、この際その約束の有無についてとやかく言わない事にするよ。
けど、何で?
お母さんは何も言わなかったの?」
「母さんは。
丈華は…、丈華には内緒でしてしまったのだよ。
すまん、すまんな咲雪」
「あー、そう。
そうなんだ。
お母さんにも内緒だったんだ、そうなんだ」

ま、そりゃそうだよね。
今頃、お母さんが生きていたら、こんな身勝手な娘の縁談話、蹴散らしてくれていたに違いない。
そう一人言ちて、私は「もういいよ」と、お父さんの肩をぽんと叩くのが精一杯だった。

私、樹咲雪は、今年で十八歳になった。

遡る事、十八年前の丁度今日。
樹浩一郎と丈華の間に生まれた、一人娘である私。
冬生まれで、けれどそんなものなどものともしない、美しく咲く花のような雪になれば…という意味で名付けられた名前だ。

髪は昔っから焦茶色で。
というより、生まれもっての色素の薄い髪質で、自慢ではないけれど肌も割りと白かった。
顔だって特別に「可愛い」とはいえないかもしれないけれど、それなりに普通だと思う。

つまりは、概ね名前負けはしていない筈。

けれど性格は、根の優しい父と活発な母との間を二つ足し、うまく二で割った様にはいかなかった。
誰がどう見ても母親譲りだろうという、どちらかといえば男勝りで元気のいい性格。
あっさりしてるし、細かい事をぐだぐだといつまでも考えるのは嫌い。

とはいっても、失恋をすれば何度も凹んだりしたし、友達と詰まらない喧嘩をして眠れなかった夜もある。
要は、人並みの、何処にでも居るタイプなのかもしれない。
むしろ、もしかしたら自分で「さっぱりした性格」だと思いたいだけなのかも。

髪は、周りの友達を真似て、それなりに胸の辺りまで伸ばしている。
化粧だってそこそこは嗜むし、今時の女子高生はしているつもり。

やる事はやって、外見もそれなりで。
言ってしまえば、やっぱり何処にでもいる女の子なのかも。

少し他と違うところがあるとしたら、五年前に母親が病気で他界したことくらい。
それでも、そんなエピソードなど何処にでも転がっている話だし、特にこれと言って特別視するようなものでもないのも知っている。
父子家庭なんて、今時珍しくない訳だし。

「で?
何処の人なの、その私の婚約者とやらは」
「ああ、承諾してくれるか、咲雪」
「いや、いいとはまだ言ってないんだけど。
けど、困るんでしょ?
その縁談を断ったら」
「そうなんだよ、分かってくれるかー、咲雪。
父さんなあ、この話がなくなっちゃったら、お前と首を括らなきゃならないんだ。
お前の春から入学する大学に払ってやるお金もなあ、なくなっちゃうんだ」
「いわゆる、資金調達の為の結婚なの?」
「そんな嫌な言い方しないでくれよ、咲雪。
父さんはなあ、お前の為を思っていい結婚相手を…」
「そもそも幾ら支援してくれるの、その人。
借金もなくなるの?」
「まあ、一生食って行けるだけは」
「そう、分かった」

そこまで聞いて、私はもう一度納得した様にお父さんの肩を叩いた。
そして、誰にも聞こえない様に小さく溜息をつく。

その嘆息が聞こえていたのかいないのか、お父さんはハゲきってない頭を床に擦りつける様にした。
いい年した親父の土下座なんて、見たくも無い。
けれど、今はこの人にとってこれが唯一出来る事なのだろうと思うと、可哀相で咎める気も起きなかった。

実は、我が家には抱えきれない程の借金がある。
人のいい父親が、言い方を変えればただの馬鹿とも言うけれど、友達の借金の肩代わりを幾つもしたまま、その全ての債務者に逃げられた。
なんとも滑稽で愉快な話だけれど、そんなものはやはり他人事だから言える事で、当の本人になってしまえば、やはり苦しいものは苦しかった。

だから、今現在我が家が経営難な事くらい分かっていた。
分かっていたからこそ、この縁談の話も、時代錯誤だと思いながらも、無碍に断る事は出来ない。
何せ、食い扶持がかかっている。

でもそこで、ふと私は考えた。

ちょっと待てよ。
今思えば、私の大学進学を良しとしてくれたあの時すでに、父親は私の縁談話を進めていたのではないだろうか?
現に、お父さんは「母さんには内緒にしていた」 だなんて言ってたし。

お母さんが亡くなったのは、もう五年前。
借金返済の為に縁談話をしていたのは、お母さんが生きている頃。
つまり、五年以上前。
私の大学進学が決まったのは、つい最近。

お父さんは、縁談話で借金が返済できるのを前提に、私の大学進学を許可してくれたのではないだろうか。
という事は、お父さんは私に結婚の約束を納得させる為に、敢えて大学進学を許したのだろうか。

そうは思いたくないけれど、強ちその可能性も低くはなかった。

まあ、自分の大学はさておいて、この父親ときたら一度思いつめたらどうしようもないのだ。
お母さんが居なくなった時も、幼い私を残して首を吊ろうとした程の人なのだ。
ここで「イエス」と返事しなければ、また責任を感じて自殺を試みる事間違い無しな事くらい、成績不良な私でさえ分かってしまう。

「分かったよ、お父さん。
私、誰でもいい。
お嫁に行くよ」
「咲雪」
「だから安心して。
それより、久しぶりにお母さんのお墓参り行きたいんだけど、いいかな。
ちょっとご飯遅くなるけど…、今行きたくて」
「あ、ああ、構わん。
父さんも一緒に行こう」
「ううん、いい。
今日は一人で行く」

そう言って、私は少し泣きそうな父親の伸ばしてきた手を制した。
そして、
「今日、カレーにしよっか。
好きでしょ、お父さんツナ入ったやつ」
と、無理に笑顔を顔に貼り付けた。

本当は、吐き気がするくらい嫌だ。
見ず知らずの、もしかしたら何処ぞの中年や肥満症の男が自分の夫となるかもしれないだなんて、耐えられない。
どうせ、借金返済を理由に結婚話をしてくるような男なんて、そんな奴らばかりだ。

それでも、私はそれ以上にお父さんが好きなのだ。

どうしようもない父親だけど、人が良くって、馬鹿間違いなしな人だけど。
それなのに、そんな父親を今ここで更に落胆させるのが嫌だったのだ。

「咲雪、やっぱり父さん断っ…」

突然、お父さんは意を決した様に顔を上げてきた。
無理に私が笑っていた事に気がついたのかもしれない。

けれど、本当に此処でこの縁談を断ればどうなるかなんて分かりきった事。

そうだな。
明日の新聞にでも載るかもしれない。
親子二人首吊り心中、とかって。

「いいよ、お父さん。
その話進めていい」

だから、私はその父の言葉も遮った。
そして、「しっかりしてよ」なんて言いながら、床にナメクジ状態の身体を引っぱり起こしてやる。

そのナメクジ人間といえば、全身から汁やら何やら出していて、本当情けないったら。
普通の女子高生なら、毛嫌いして近寄りもしないだろう。

けれど、こんな人でも、私の大事な大事な世界で一人のお父さん。
それは分かってる。

それに、あの時お母さんに誓ったもの。

「じゃ、行って来るから。
すぐ帰るし、変な気起こさないでよ」

こんな情けない、けれど可哀相な姿を見て、言える筈もないじゃない。
私にだって、自分の未来を決めさせてよって。

私が支えてあげなきゃ、一人で何も出来なくなてしまった頼りない中年男。
その人の前では、私は出来ればちゃんと最後まで笑顔で居たかった。
幼い心にかつかつで残っている思いやりと情を振り絞ってでも、最後まで笑顔で、ただひたすらにいい子で居たかった。

そう、お母さんとの約束を。
死に間際に言われた「お父さんを頼むわね」って約束を、ただそれだけを守る為に。





TO BE CONTINUED.

2005.03.23


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