予感など無い。
運命の調べは、刻一刻と流れていく。

エロス
002/オールディーズに呼び込まれて

恋人である豊とロッカールームで別れてから、蛍は同じ科の友人達と一緒に帰宅することとなった。

帰路のフォーニアの通りには、華美過ぎないお洒落な外観が並んでいる。
ブリックの連なる建物は、絵画のように優雅だ。
この街並みを、蛍はとても気に入っていた。

「ホタル、浮かない顔をしているね」

隣を歩いているデレックが、心配げな顔を見せた。
彼はチェロ奏者である。

「そう?」

軽くとぼけて返すと、バイオリニストのアビーが代わりに答えた。

「ええ」
「ホタルは最近、上の空。
心ここにあらず」

共に歩くローズマリー、イアンまで言う。
蛍は人知れず溜息を吐いた。

最近の課題曲の不調続き、恋人とのマンネリズム。
何が悪いのか、どうもうまくいかない事ばかりだ。
日本に戻る日は少しずつ近づいているというのに、向こうに帰ってからも、果たして万事やっていけるかどうか。
その心内が顔に出ていたのか、友人達にも心配されているようだ。

ふと、友人のイアンが足を止めた。

「ねえ」

イアンは何かイタズラを思いついたような顔をしている。

「どうしたの、イアン」
「いい事、思いついた」
「いい事?」
「そう。
皆、この話に乗っかるかい?」

イアンがさも得意げに言うものだから、好奇心旺盛なローズマリーが食いついた。

「何、何?
イアンはホタルが元気になる何かを思いついたの?」
「勿論だよ。
アビーもデレックも、便乗するよね?」

心配性のデレックは、イアンの言葉に僅かに顔を顰めた。
普段、言葉が少ないアビーも気遣わしげにしている。

イアンが更に続けた。

「皆、どうしたんだよ。
ホタルを元気づけるためだよ」
「それって、本当にホタルの為になるもの?」
「ただ、イアンの悪ふざけなんじゃないよね?」

心配性の者達は気が進まないようだったが、イアンの勢いは止まらない。
ローズマリーとて、イアンの提案を楽しそうに聞いている。

イアンが言った。

「浮かない気持ちなら、大きな声を出したらスッキリするさ。
ほら、見てみなよ」

イアンが、分かれ道の先にある裏路地を指差した。

「ここからちょっと行った所に、誰も住んでいない古い屋敷がある」
「え、お屋敷?」
「今から皆でそこに行って、中を冒険してみようよ。
いわゆる、肝試しってやつだよ」
「えええー!」

ローズマリーが嬉しそうに軽い悲鳴を上げた。
反して、デレックとアビーは益々渋って見せる。

「そんな事をして、ホタルが元気になる訳ないじゃないか」
「分からないよ。
大声を出すことは、時に必要だよ。
ホタルみたいに、日頃大人しい日本人は、特にね」

イアンが、軽く蛍の肩を抱いた。

蛍は、彼の言うことがその通りだと頷けなかった。
洋館に肝試しに行ったところで、気分転換になるとは思えない。
そもそも、幽霊や化け物といった類のことは苦手だ。
出来るものなら、避けて通りたい。

「イアン、申し訳ないけど…」

蛍が断りの台詞を口に出した瞬間、好奇心旺盛な少女のローズマリーが、ぐいと手を引っ張った。

「ホタル、行きましょ」
「えっ」
「アビーもデレックも、怖いなら来なければいいんだわ。
私達は、楽しんで来るんだから」

ローズマリーにぐいぐいと引っ張られる。
行く気など全くなかったというのに、強引な力に体がよろめいてしまう。
彼らの言うように、日頃は大人しく、ましてや控えめな日本人である蛍には、強力な誘いを突っぱねることが難しい。

「ホタル、大丈夫?」

デレックが心配げに眉を寄せた。

蛍は、苦笑いを返した。
肝試しでこの悩みが全て解決するとは思えない。
だが、せめて断れないというのならば、イアンが言うように気晴らしになるくらいは願いたいところだ。

結局、蛍は発案者イアンとローズマリーに連れられて、噂の洋館に同行する羽目になってしまった。
辿り着いた目的地は、肝試しを行う為に存在するような、重厚な佇まいの洋館だった。

深みのある赤と、濃い茶色のブリックで出来た壁。
その壁には、生気を失った蔦が張り付いている。
軒下には、厚さの違うブリックで、歯型の軒飾りがある。
二階には大きなアーチ型の窓があり、ひんやりとした影を落としている。

貴重な歴史的建築なのかもしれないが、決して気味のいいものではない。
ただの迷信や噂話だとしても、亡霊が何処からか呼ばれて出て来そうな雰囲気だ。

「本当に行くの?」

蛍は、心配になって確認した。

「ここまで来て行かない訳はないでしょ。
ねえ、イアン?」

イアンよりも乗り気になっているローズマリーが、意気揚々と門扉に手を掛けた。
随分と錆びついた鉄の扉が、重苦しい音を上げる。

庭の中には、枯れた木々が点在していた。
日当たりは良くないようで、地面はどこか湿っており、青々とした緑はほとんど見えない。
あるといえば、薄茶色の雑草と苔くらいだ。

錆と苔に覆われた、アンティークオーナメントもあった。
欠けた女神像が零している微笑みは、悲しさを湛えている。
今はただ不気味な置物にしか見えないが、数年、数十年、或いは数百年も前は、立派なガーデンオブジェだったのだろう。
過去、このような立派な像を飾ることが出来るほど、この洋館の持ち主が資産家だったことが推測できる。

庭を突っ切ったデレック、ローズマリー、蛍の三人は、大きな建物の扉の前まで辿りついた。
張り出し玄関にある戸の淵には、細かな植物を掘った金具が取り付けられている。
扉自体は厚みがあり、柔い力では開きそうもない。

「さあ、行くぞ」

生唾を飲み、デレックは重い戸に手を掛けた。
ローズマリーは、蛍にしがみつきながら目を輝かせている。

デレックが全体重をかければ、僅かに戸が開いた。
何年も何十年も人の行き交いがなかったらしい洋館が、大きな呼吸をした。

蛍たちが居る外気を大きく吸い込み、風を巻き込む。
そのまま蛍たちの体は、取り込まれるように傾いた。

一歩足を踏み込めば、木材張りの床が、ぎしりと音をたてた。
古く籠った黴の臭い。
薄い靄のような埃。

「凄い、な」

デレックが呟いた。

開けた戸から一筋入った光で、建物内の様子が僅かに窺い知れる。
あちらこちらが傷み、中には原型を崩してしまっているものも少なくない。

床板は所々穴が空いており、地から冷たい空気が流れ込んで来ている。
壁紙は破れ、斜めに傾いた立てかけられた絵画も、ほとんどが本来の姿を失っている。

蔦の葉が窓を覆っているせいで、室内から外の様子も確認しにくかった。
小さな隙間から、中庭に小さな墓石が一つあるのが辛うじて見えたが、果たしてそれが本当に墓石かどうかも定かでない。

少し進めば、二階へと続く階段があった。
その横に、ひっそりと全身鏡が設置されている。
繊細な茎に、薄く可憐な花弁が巻かれた薔薇の飾りをあしらったアンティーク鏡は、真鍮製だろう。
ただ、右片方の淵だけが取り外されており、まるでその右側には対となる鏡が他に存在しているように見えた。

そういえば、最近似たような鏡を見たことがある。
ただ、何処だか思い出せないが。

ケースカバーを抱え直した蛍は、その大きな鏡に近付いた。
見れば見る程、既視感を覚える。
表面には薄らと埃が被っているが、顔を近付けてみれば、薔薇の飾りに露で濡れているような艶が見える。

怪しいまでに、美しい。

「何してるの、ホタル」

鏡に釘づけになっていると、ローズマリーが「置いて行くよ」と急かしてきた。
振り返れば、彼らはもう奥へと続く廊下を進んでいた。

「待って」

そう言って追いかけようとした時、ふと鏡の中の影が揺らめいた気がした。

ぞくりとして、また鏡のある方へと振り返る。
古くも、美しい鏡。
埃被って濁った鏡面に、自分の姿が映っている。
それ以外には、何も見えない。
誰も居ない。

先程の影の揺らめきも、自分の錯覚だったのだろうか。

蛍は、胸の前で小さく手を組んだ。
この洋館の中に、本当に亡霊が居る筈がない。

そう思い込もうとするものの、この辺りの不気味な雰囲気が、恐怖を掻き立てる。

蛍は、そっと鏡に触れてみた。
積もった埃を、指先で簡単に拭う。
薄汚れた鏡面のせいで、顔色の悪い自分の顔だけが見えた。

そのまた先に、しなやかな体をした猫の姿が見えた。
猫の瞳が、ちらりと蛍の方へと向いている。

目が合った瞬間、猫はぱっと逃げ出した。

「あっ」

その後ろ姿を追い、蛍が声を上げた。
すると、鏡の板面がぐにゃりと曲がり、触れていた蛍の腕を強く掴んだ。

鏡の中の、猫が鳴く。
まるで蛍を誘う声だった。





TO BE CONTINUED.

2015.01.14


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