今日も同じ日が来るとして、明日も同じ日が来るとは限らない。
明日も同じ日が来るとして、来年、再来年も同じとは限らない。

そう思っていたのは、若きあの日。
今はただ、見えない光の欠片を探している。

エロス
001/前兆ドレンテ

「きみは、魂と共に生きる調べを聴いたことがあるか」

そんな不可思議な問いを音楽講師から投げかけられたのは、今朝のことだった。

何故、そのようなことを突然問われたのか。
考えてみても、答えは明確だった。
蛍が、ここ最近の課題をうまくこなすことが出来ていないからだ。

蛍は、二十年間生きて来て、沢山の良い曲を聴いてきた。
感動する調べは大いにあった。
「これぞ名曲」といわれる出会いもあった。
大好きなオペラの中で奏でられる曲は、空で歌える程だ。

だが、講師が言う「魂と共に生きる調べ」というものは、どうもピンと来なかった。

西野蛍は、三ヶ月前に地元の芸科大学の姉妹校グリフィス・ユニバーシティに留学してきたばかりだった。
蛍が通っていた芸科大学は、あらゆる芸術面に力を入れている。
文芸の言語芸術科、美術や建築の造形芸術科、音楽の音響芸術科、演劇・映画の総合芸術科など、幅も広い。

幼少の頃よりフルートを習ってきた蛍がこの大学を選んだのは、ひとえに音楽の道を追求したかったからだ。
自分に特別な才があると自惚れてはいないが、出来れば大好きな音楽の道に進みたかった。
将来、何らかの音楽に通じる就職先を見付けることが出来れば、幸せだと思った。
芸術で成功する者など一握りだということも分かっていたが、何も挑戦しないまま諦めることも出来なかった。

そんな思いを抱えていたからか、大学二年生の冬、担当ゼミの教員より「ステップアップのためにイギリス留学をしないか」と声を掛けられた時は、舞い上がるような気持ちだった。
留学先は、音楽で有名な姉妹校だ。
留学したからといって必ず音楽の道が開けるとは限らないが、少なからず何か得ることが出来ると思った。
だから、それに賭けた。

だが、いざ来てみれば、理想と現実はかけ離れていた。

カリスマ性溢れる講師。
前衛的な同級生。
あらゆる条件が揃った環境。

全ては音楽の為にあるような場なのに、蛍の音楽スキルは上がることなく、平行線のままだった。
日本に居た時には感じなかった、何か得体の知れない大きな壁にぶつかった。

その壁を越えたくて、毎日欠かさず練習をしているし、図書館の様々な資料も読み漁ったが、いつまで経っても先が見えてこない。
それどころか、日に日に壁が強大になっている気さえした。

そもそも自分には、音楽など向いていなかったのだろうか。

不意にそう考えてしまうことも、多くなった。

これを機に、すっぱりやめてしまった方がいいのだろうか。

悲しいけれど、そんな現実が脳裏を過る。

勿論、留学先の講師から出された課題曲が、まるきりこなせていない訳ではない。
及第点くらいは出ている。

だが、何かが足りない。

低い音を出す度に、鈍い音色になってしまう。
艶が出ない。
不合格ではないけれど、満足がいかない。

もうどうすればいいのか、分からなかった。
考えれば考えるほど、深い迷路に嵌っていくようだ。

学生達が行き交うロッカールームで、蛍は先の見えない未来に嘆息していた。
ふと視線を横に移せば、薔薇モチーフのアンティーク全身鏡の中に、自分自身の姿が見えた。
フルートが入った大きなケースカバーを抱え、陰鬱な表情を浮かべている。
疲労しきったその目は、決して希望溢れる音楽家のものではない。

もう一度小さく息を吐き、蛍は視線を落とした。
すると、視界の端に、プレーントゥの革靴が見えた。

「西野」

靴の主に名前を呼ばれて、顔を上げる。
目の前に立っていたのは、キャンパスノートを持った蛍の恋人だった。

「暗い顔してるな」

爽やかな笑顔で指摘されて、蛍は苦く笑って見せた。
上手に微笑みたいところだが、今はそんな余裕がない。

「また、課題がうまくいかなくて」
「ああ、例のやつ?」

蛍の悩みなどお見通しだったのか、恋人である豊は片眉をひょいと上げた。

「別に、その課題曲にこだわる必要はないんだろ?
他のものに変えて貰ったら?」

軽く言う豊に、蛍は唇を結んだ。

確かに、今思い悩んでいる課題曲にこだわる必要性はないのだろう。
他のものに変えて貰うことは、とても容易だ。
一言、講師にお願いすれば良いだけなのだから。

だが、それは逃げているようで、嫌だった。
出来ないものを出来ないままにしておいて、傷に目隠しをするだなんて、それでは何のためにイギリス留学までしたのか分からなくなるからだ。

豊は、いつも簡単に言う。
苦手なものがあるならば、出来るものにチェンジすればいい。
得意なもので補えばいい、という考えだ。

彼の言っていることは、間違っていないと思う。
それも、一つの方法だろう。

佐々井豊は、いつだって明るく、前向きで、人を惹きつける。
地味で真面目な蛍とは、真反対に居る人間だ。

彼は蛍と同じ大学に通っている一つ年上の先輩で、造形芸術科の建築コースに通っている。
この度、同じタイミングでイギリス留学をすることが出来たのは、本当に幸運だった。
初めての外国生活を順調に送ることが出来たのは、順応性がある彼が傍に居てくれたからだ。

そもそも、こんな世渡り上手な男性と蛍が付きあうこと自体も、不思議だった。
豊の方から接近してこなければ、一生知り合えなかった部類の人間だと思う。

そんな彼とは、芸術に関する思いが、少々異なっている。
深く思い悩むことがなく、ポジティブな豊は、嫌なことも上手に避けていく。
得意なもので補っていく。

蛍には、それが出来ない。
そのようなやり方は自分自身が許せないし、そもそもそのような術もない。

「妥協して違う音に逃げるだなんて、真の芸術家ではないから」

心の内にある思いを、ぽつりと返す。
すると、目の前の恋人の眉間に皺が寄った。

「また、それか」
「え」
「西野はいつも、芸術家はこうあるべきだとか、どうするべきだとか、そういうのばっか。
それってさ、努力した末に出来なかった奴のことも考えて言ってる?
仕方なく妥協せざるをえなかった人もこの世に居るの、分かってる?
もしかして、心の底ではそういう奴らを見下してるんじゃないの?
もしそうなら、そんな考え方はやめた方がいいよ」

彼は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
その表情を見た瞬間、「しまった」と思った。

また、やってしまった。
彼の機嫌を損ねたかった訳ではないのに。

ただの、小さな弱音だった筈なのに。

彼は、蛍が芸術とは何たるかを語ると、嫌な顔をする。
嫌なことにもストイックに突き詰めていく蛍の考えが、少々合わないらしい。

その芸術性の不一致だけが原因ではない。
最近では、些細なことで口論することが増えている。
いわゆる「マンネリズム」というものだろうか。

好んでそのような状態になっている訳ではないのに、どうもうまくいかない。
出来るならば、仲良くしていたいのに。

蛍の思いを跳ね除けるように、豊は視線を外してしまった。

「妥協することが芸術家じゃないっていうなら、俺は芸術家じゃないんだろうな」

まるで吐き捨てるように、豊が言う。

もちろん、そんなつもりで言った訳ではない。
彼のやり方を貶したかった訳ではない。
絶対にない。

蛍は否定した。

「そういう意味じゃないの」
「もう、いいよ」

弁明など聞きたくないのか、彼はぴしゃりと言い切った。
そして、そのまま蛍に背を向けてしまった。

「佐々井先輩」

慌てて恋人の背中を呼び止める。

弁解が許されないのなら、せめてこの険悪な雰囲気だけでも緩和させたい。
喧嘩をしたい訳ではないのだ。

「今日は、一緒に帰れる?」

仲直りの切っ掛けが欲しくて問えば、豊は「んん」と曖昧に唸った。

「ごめん」

振り返り、豊が言う。
その言いぶりに、迷いは見えない。

「今日は忙しいから」

それだけ告げ、恋人は完全に行ってしまった。
その背中は行き交う学生達に混じって、たちまち見えなくなった。

どうして、こうなったのだろう。
何もかもが、うまくいかない。

一人になった蛍は、ケースカバーを抱え直した。
恋人を追う気力は、もう無かった。





TO BE CONTINUED.

2015.01.13


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