お互い出会うべくして出会った。
俺は、貴女と出会う為に、今まで生きていたのかもしれない。
きっと、これは運命だ。

ねえ。
だから、愛しい貴女。
俺を、少しの間だけでもいいから傍に置いて。

貴女を一生幸せにしてあげるから、俺を誰より近くに置いて。

THE CARD GAME
020/PRETTY WOMAN

ぶわぶわ、ぶわぶわ、ぶわぶわ。
大きな蝿が飛ぶような音が、飛鳥の頭の奥で響く。
全身は、持て余す事なくぎしぎし痛む。
けれど、それとは不釣合な、頬を通り過ぎていく爽やかな風。

「んー」

瞼の中に広がっているのは、真っ暗な宵闇。
光を求めてゆっくりと目を見開くと、すぐに真っ白な天井が映った。

そのまま少しだけ眼球を動かすと、ピンクのひらひらしたカーテンが見えた。
大きめの熊の人形まである。

何処かで見た事がある。
否、見覚えがあるというよりは、これは見慣れた光景だ。
只の既視感ではない。

紛れも無く、其処は宮前飛鳥の部屋だった。

「何だ。
全部、夢だったのか」

誰に聞かせるでもなく、飛鳥はぽつりと独り言を零した。

痛む節々を抱え、ゆったりと身体を起こす。
どうやら床の上に直接倒れ込んだまま、長時間が経っていたらしい。
背骨がこれでもかという程に軋む。

暑さのせいか、或いは緊張した夢を見ていたせいだか分からないが、額に汗がびっしりと浮かんでいる。
その上、いつも鼻をつくラベンダーのお香も、閉め切っていた訳でもないのに、辺りにこんもりと充満していた。
不快なもの続きで吐き気がする。

これらは全て、姉の趣味だ。
女らしくありなさいと言われ、勝手に揃えられた物ばかりで統一された、女らしい部屋だ。
飛鳥の嗜好など一切含まれていない。

可愛らしいドレッサーには座った事などないし、レース生地がついたチェックのクッションも気に入らない。
出来うるならば、全てシンプルで寒色一色で統一したいくらいだ。

飛鳥は、新鮮な空気を吸おうと窓に近寄った。
痛む体を我慢してガラス戸を開けると、ふわりと頬を撫でる心地良い風が舞い込んできた。
ほんの少しだけ、ラベンダーのにおいが薄れた気がした。

「随分と長い事寝てた気がするな」

飛鳥は、再び独り言を言った。

窓の下を見下ろせば、いつもの道路に廃品回収の男が歩いていた。
やや小太りで、汗っかきの男だ。
見ている此方が暑苦しい。

意識を失う前と、何ら変わりは無かった。
作業着を着た小太りの男が、全身、汗を掻きながら古紙を集めている。

意識が飛ぶ前も、この男は同じ事をしていた。
つまり、痛む身体とは裏腹に、時間は全く経っていないようだった。

飛鳥がおかしな夢を見る前と、何も変化のない風景、人、時間。
それが逆に違和感を感じさせる程に、全ては以前と変わらなかったのだ。

「こりゃ、本の祟りかな」

非現実的な夢を見たのかもしれない。
それも、特段におかしな淫らな夢を、ほんの一瞬だけ。

飛鳥は、開け放した窓から身を乗り出し、自嘲気味に笑った。
真夏だというのに、窓から入る風は、本当にそよそよと気持ちが良い。
沸いてしまった頭もクールダウン出来る。

その風に身を任せていると、廃品回収の中年の男が、不意に此方を向いた。

男は、二階に居る飛鳥を見上げて、にこりと笑った。
不思議と不快な感じはしなかった。
純粋に、ただ『働く小太りなおじさん』といったところだ。
それが何だか微笑ましくて、飛鳥も愛想笑いを浮かべて返した。

しかし、その時だった。

「本当、そうかもしれないヨ。
アスカ」

廃品回収をしていたその男が、耳障りのいい低い声で、飛鳥の名を呼んだのだ。

急な事に驚き、飛鳥は更に身を乗り出した。

聞き間違いだろうか。
この中年男が、今、自分の名前を呼んだ気がするが。

しかも、何処かで聞いた事があるような、甘ったるいあのトーンの声で。

飛鳥は男の言った言葉を再度聞き取ろうと、声を掛けようとした。
けれど、その男の姿は瞬時に消えてしまったのか、気が付いた時には散乱している本が散らばっているのみだった。

「い、今の声は…」

飛鳥は、不思議に思って何度も見直した。
しかし、もう何処にもその男の姿は見えない。
完全に姿を隠してしまっている。

どういう事だろうか。
やはり、ただの聞き間違いだろうか。

だとしても、何故、彼は姿を消してしまったのだろうか。
まるで魔術師のように。
或いは、道化師のように。

「もしかして、クラウン?」

まさか、と思いながらも、言ってみた。

いや、まさか。
まさか、まさか。
そんな筈はない。
夢だったのだから。

そうは思うものの、「もしかしたら」なんて考えまで浮かんで来る。

もしかしたら。

「that's right」

今度は、随分と発音のいい英語が聞こえた。
飛鳥のすぐ後方からだった。

勢い良く振り返ると、其処にはこの場に居る筈のない人間が立っていた。
先程の中年男が着ていた水色の作業着姿の銀髪の男、ジョーカーだ。

確かに、これは夢の中で見た男だ。
つい先刻まで見ていた夢の中の人物なのだ。

その男が、今、飛鳥の目の前に立っている。

この地に、この飛鳥の部屋に、かの男が。
それこそいつもの気怠そうな姿勢で、猫のように丸めた背で、ポケットには手を突っ込み、立っている。

「あ、あ、あんた!」

驚きの余り、思わずどもってしまった。
その反応を予め予測していたらしい男は、やんわりと笑って応えるだけだ。
首を僅かに傾げ、目を猫のように細め、それこそ無邪気な顔をして微笑んでいる。

「つれないな、アスカ。
感動のご対面デショ?」

茶化すように男が言えば、呆気に取られてしまった飛鳥は、何も返せなかった。
「どうして」とか、「何で」とか、言いたい事は沢山あるのに、それが喉から出て来ない。

その飛鳥の様子を楽しむかのように、男は少しずつ距離を縮めてくる。

「女のアンタを生で見るのは初だな」
「は?」
「ン、いいネ。
凄く可愛いヨ」

反抗出来ない飛鳥を余所に、男は厭らしく目を歪める。

少し長めの爪で、頬を引っ掻かれた。
ぞくり、とした。
しかし、そんな事をされても、未だ身動きがとれない体は、まるで魔法にでもかけられたように、ぴくりともしない。

「アンタ、もう俺の彼氏か彼女かなんて迷わなくていいネ。
女だったら彼氏になんかなれないし、否応無く一つに搾れるヨ」

益々粟立つ鳥肌。
矢庭に騒ぎ出した心臓。

けれど、恐ろしい訳ではなかった。
不思議と、あの鎌を持っていた時のように、命の危機も感じない。

ただ、無性に全身が高揚して、胸がばくばく高鳴って、忙しなく血潮が走り出している。

得体の知れない感覚に。
いや、もしかしたら初めて桃色の少女に会った時に感じたものと似ているかもしれないその感覚に、飛鳥はごくりと唾を呑んだ。

不可解な感に苛まれながらも、目の前まで近寄ってきた男の紅い双眼を凝視する。
人間離れした、美しいワインレッドの瞳だ。

その目を見詰めながら、やっとの思いで口を開いた。
唇は震えている。
声も、からからと掠れそうだった。

「な、何で」
「『何で』?」
「何で、此処に」
「アレ?
アンタ、まだ認識してなかったの?
俺はjokerって言ったデショ?
枠に捉われないし、存外しつこいの」

想像していた通りなのか、或いは余りに下らない質問をされたと思っているのだろうか、男は笑いながら問いに答えてくれた。
だが、その余裕めいた態度が癪に障った飛鳥は、むっと唇を尖らせた。

「そんな事より、ネ。
いいデショ?」

不機嫌になった飛鳥を丸め込むように、男はゆっくりと言う。
そのまま腕を回され、ふわりと抱き締められた。

耳元で息を吹き掛けられれば、背がぴくりと跳ねてしまう。
まるで、生娘の反応のようだ。

男の甘くて癖になる香水の香りが、部屋に充満しているラベンダー以上に漂っている。
何故だかやけに懐かしい。
たとえ夢の中といえど、つい先程まで嗅いでいた筈なのに。

ぞくりと下半身が疼いた。
けれど、それは以前とは若干異なった場所だった。

紛れも無く、先とは異なる、女である箇所だ。
男を受け入れる為に出来た、雌の体内の奥底だ。

「童貞は貰えなかったケド、virginは、ネ?」

「いいデショ?」と、男は強制にも近い懇願の言葉を吐いた。
有無を言わさぬ威圧感があった。
しかし、それは何故だか甘美なプレッシャーだった。

「それは…」

全身に痺れるような甘い疼きを感じ始めた飛鳥は、うまく返事をする事が出来なかった。
熱い。
体の奥の方が熱い。
顔まで熱を持っているようだ。
不思議と、男の顔が凝視できなくなってきた。

まごまごしていると、返事をしない飛鳥を「諾」と認めたのか、男は軽々と身体を抱え上げてきた。
そのまま、少女趣味の木製ベッドに横たえさせられる。
二人分の体重を支えて、ベッドがぎしりと悲鳴を上げる。

男は、飛鳥の上に跨り、己が着ている作業着を肌蹴させた。
白い肌が露になる。
彼はこんなにも艶かしい色香を放っていただろうか。

そう思った瞬間、男からぽたりと何かが落ちてきた。
丁度頬の上に落ちたので、それが生温かくてどろりとしている事は、すぐに分かった。

もしやと思った飛鳥が、その垂れてきた滴を手に掬って確認してみれば。
案の定、その指に付いていたものは、真っ赤な鮮血だった。

「血?」

ずるりと滑っていて、ほんのりと温かい。
まだ新しいものなのだろうか。

不思議に思った飛鳥は男を見上げたが、そこでそのまま言葉を飲み込んでしまった。
飲み込まずにはいられなかった。

今まで気が付かなかったが、良く見れば、その男は常より顔色が悪かったのだ。
浅く息をしているのか、肩も僅かに揺れている。
其処からじわりと服まで滲み出ている赤は、紛れも無く男の血液だった。
誰かの返り血などではない。

「ど、どうしたの、それ!」

驚いた飛鳥は、慌てて身体を起こした。
薄汚れた作業着に滲んでいる赤を、すぐ目前で確認する。
面積こそまだ広くは無いが、血液がじわじわと衣類を染め上げている様から、掠り傷ではないらしいと分かる。
しかも、止まる気配がない。

急激に不安になった飛鳥は、その傷をよく見ようと、更に男の上着に手を掛けた。
しかし、軽く男に制され、その手も中途半端に空を掴んでしまった。

「大丈夫、アスカ」
「でも」
「本当、平気」
「平気じゃないでしょ?
何言ってんの」
「いや、実はさっき、後ろからチョットいかれちゃってネ。
まあ、アンタに懐いてる俺を良く思っていない奴らが居るのは前々から知ってたし、予測してなかった訳じゃない」
「でも、あんた」
「大丈夫、本当に。
大丈夫だから」

それだけ言って、目を細めて笑う男。
それが儚げで、しかし余りに綺麗で、飛鳥はそれ以上反論できなかった。

ごくりと唾を嚥下し、男の両眼を覗き込む。
其処には、苦痛の色にも勝る、紛れも無い情欲が見て取れた。

「こんな傷、舐めてれば治るヨ」
「『舐めてれば』って…」
「それより、愛しいアスカ。
一緒にイイ事しよう。
ネ?」

そう続けた男は、被っていた帽子を脱ぎ捨て、飛鳥の頬に唇を落としてきた。

体温が低い彼の、ふんわりとした、いつものじゃれるようなキスだった。
アヒル口特有のぷにぷにした感触がくすぐったい。
つい笑いも込み上げそうになってしまう。
絆されそうになってしまう。

だが、聞きたい事が沢山あるのだ。

彼の背にある傷は、彼自身の言う通りに放っておいていい怪我である筈がない。
こうしている今も、流血は止まっていないのだろうから。

でも、もしこの傷が致命傷なのだとしたら。
生死を分かつ傷なのだとしたら。
流石にこの男も、こんな行為に走ろうとはしないだろう、とも思う。

それならば、やはり然程心配するものではないのかもしれない。
考え過ぎなのかもしれない。

そういえば、先程までの憤りが全て解決した訳でもなかった。
頭の中は、未だ色んな感情で一杯だ。
何から何まで分からない事だらけで、納得がいかない。
未消化のままだ。

それなのに、男の冗談粧した先にあるこの真剣さと、幸せな温もりは何なのだろう。
どうしてだろう。

彼に抱き締められると、二の句が告げなくなる。
この温もりが、これ以上考える事を許してくれない。
つい、甘い誘惑に絆されてしまう。

この行為の先を進めようとする男に、観念してしまいそうになる。

「私、女としては初めてなんだからね」

そう言えば、男は幸福を噛み締めるように再度笑みを作り、飛鳥に身体を沈ませてきた。
その瞬間、少しだけ鉄の匂いもしたけれど、いつも彼が付けている香水の香りが、それすらもすぐに消し去ってしまった。
やはり大した怪我ではないのだろうか。

飛鳥は、男の大きな背にゆっくりと腕を回した。
いつも触れていたその背は、妙に腕にしっくりと収まった。

そのまま、背にあるだろう傷跡を、服の上から探るように動かしてみる。
男は、小さく身動ぎした。
だが、それだけだった。

想像していたより、断然浅い傷なのかもしれない。
少なくとも、飛鳥はそう思えた。
男の言うように、大した事ないのかもしれない、などと。

「優しくしてよね」

ほんの少し茶化すように言ってみる。
流されているなあとは思ったが、この台詞がいの一番に舌から滑り落ちてきた。

男は、「了解した」とばかりに、飛鳥の着ているシャツに指を這わせてきた。
そのまま、女である証へと進めて行く。
女としては、未だ誰にも触れられた事がない場所だ。
心成しか、心臓が更に煩く鳴り始めた。

その時、ふと気が付いた。
飛鳥の左手に、何かが握らされていたのだ。
それは、半分に切られた、ハートのクイーンのトランプだった。

勿論、飛鳥が普段から常備していたトランプなどではない。
そもそも飛鳥は、トランプなどという洒落た物を買った覚えも無い。

では、これは何なのだろうか。

思い返せば、飛鳥があの世界を立ち去る時、最後まで握っていたのは、紛れも無く『クイーン』という称号を持った少女の手だった。
一緒に居たいと願ったのも、その少女だった。

けれど、その相手は今この場に居ない。
あるのは、無残にも半分に切られてしまったカードが一枚だけだ。

飛鳥は、一抹の寂しさを覚えた。
だが、不思議とそれ以上の思いは込み上げてこなかった。
まるであの少女に会っていた事だけが夢だったのではないだろうかと思った。
或いは、あの少女自体が幻だったのかもしれない。

今はただ、この目の前の男の存在に胸を高鳴らせている。
あの世界に居た時には感じた事のない感情が、胸に燻っている。

本来の『女』という姿に戻ってしまった、己の身体。
その体が今、自分にはない存在を欲しているのかもしれない。
たとえば、この銀髪の男などを。

現に、あんなにも焦がれた少女が居ない事より、今目の前にこの男が現れた事だけで、飛鳥の胸は一杯になった。
情欲に素直に、ただ流されるのもいいのかもしれないなあだなんて考えてしまった。

結局、男であった己は、ただ純粋に『雄』としてあの桃色の少女を求めたのだろう。
そして、女である今の自分は『雌』として、この男の体を求めてしまうのかもしれない。

人間の心など、性など、こうも簡単に移ろい易い。
体が違うだけで、感情がぐらぐら左右に傾く。

幾ら飛鳥が無知で気が利かない性質だとしても、二つに斬られたトランプが何を意味しているのか、それが全く分からない訳ではなかった。
それに、考えたい事は他にも沢山あった。
考えて、冷静になった頃には、後悔で泣いてしまうだろう件もあると思った。

けれど、それを許してくれない圧倒的な存在が、今、目の前にあるのだ。
自分は、この眼前の誘惑に流されずにいれようか?

これはただの現実逃避かもしれない。
あの桃色の少女に何か良からぬ事が起きてしまった可能性は高い。
その犯人が、目の前の男である可能性も高い。

それなのに、憎めない。
憎めないのだ。

「アスカ、何考えてるの?」

飛鳥の心中を察したように、男は、べろりと耳たぶを舐めてきた。

その感触に、飛鳥の背筋に電流が走った。
勢いで、手に握り締めていた紙切れも、そのまま床に投げ捨ててしまった。

端整な顔をして、欲情を丸出しにしている男のキスを迎え入れる。
その頃には、恋焦がれた少女の顔も、完全に消えてしまっていた。

「私、やっぱりあんたの方がいいのかもしれない」

唾液を交換する口付けの後に飛鳥が言ったのは、甘い科白だった。
言いながら、この言葉は嘘かもしれないと自分でも思ったけれど、それ以外に何も出て来なかったので、これこそが本音なのかもしれないと考え直した。

分からない。
分からないけれど、今はそれ以外の答えが出て来ないのだ。

後で薄情な自身を責め、悔い嘆くかもしれないと思ったたが、今だけは目の前の男の事以外、どうでも良かった。
この男さえ居れば、後はどうでもいいと思えた。

もしかしたら自分は、本当にこの男の事を…?

一緒に過ごした時間は、楽しかった。
嘘ではない。
価値観が合わなくて靄々した事もあるが、それはこの男の事を気に入っていたからこそなのかもしれない。

桃色の少女とは、一緒の時間を過ごす事がほとんど叶わなかった。
それが全てこの銀髪の男が仕組んだ事だとしても、それもまた自分の運なのではないだろうか。
天命なのではないだろうか。

この男と結ばれる事こそが、決められた事なのではないだろうか。

たとえこの男を選ぶ事が運命ではなかったのだとしても、きっとこの男ならば、その運命さえも変えようとするのではないだろうか。

ここまで愛されて、無碍に出来るものだろうか。
愛する事より、愛される方が余程いいのではないだろうか。
本当の幸せは、この先にあるのではないだろうか。

いや、自分も、憎からずこの男の事を想っている。
それならば…。

そこまで考えて、飛鳥は小さく首を横に振った。
考えても、正しい答えはやはり出て来ないと悟った。
これが願っていた結末かどうかは分からないけれど、それでも、もうこのまま流されてもいい。
むしろ、これで十分だと思った。

この男に全て奪われ、何もかも考えられないように無茶苦茶に壊され、愛して欲しいと願った。
せめて、今だけは。
全てを忘れるくらいに、何もかもを。

≪挿絵≫

飛鳥は目を閉じた。
目を閉じ、次に来るだろう慣れた快感を貪った。

男も、飛鳥の乱れた痴態に悦んだ。
まだ二十にも満たぬ若い身体を愛で、然も自分のものだと言わんばかりに愛玩した。
そして、ごろごろと猫のように擦り寄り、ただ至極幸せそうな顔をして、常の英語の台詞など呟いた。

「love me, only my honey」

それは二〇〇四年、八月六日の事。

飛鳥は、誕生日を迎えると、一回り年が離れた姉から、バースデープレゼントと称した贈り物を貰う。
飛鳥が嫌いな、分厚くて為になりそうな本だ。

だが、飛鳥は姉に見つからぬよう、その贈り物をこっそりとごみ箱に捨てる。
それは、毎年恒例の事だった。

しかし、どういう気紛れか、今年は飛鳥の部屋のごみ箱に、分厚い紙の固まりは放り込まれなかった。
その代わりに、その哀れな本は、近所の胡散臭い男が回収している廃品回収へと回され、世の為にリサイクルされるという道を辿った。

親の心子知らずとは全くこの事で、姉の親心も踏み付け扱い。
恩知らずな飛鳥は、いい事をした気さえしてひどく満足だった。

そんな宮前飛鳥、十七歳。
非現実的で快楽に溺れた、彼女の誕生日。

目の前には、底の無い愛を与えてくれた、恐らく、きっと、まだ分からないけれど。
それでも、愛しい愛しい、愛に捕らわれた道化師の男。

全ての答えはきっと、これから先に。





END.

2004.08.12


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