カシオペア座の隣の星が瞬いたら、それが合図。
下剋上解禁の合図。

ああ、今夜は誰が居なくなる?
居なくなる前に、殺してしまえ。
居なくなる前に、奪ってしまえ。

さあ、マスター。
今宵は、我らに貴女の位を与え給え。

THE CARD GAME
019/DELTA

「何でアンタがココに居るの?」

銀髪の男ジョーカーは、乱暴に刃を振りながら、鎌に滴っている血液を飛び散らせた。
びちゃびちゃという音と共に、真紅の液体が辺りに広がる。
その内の数滴が、その端整な男自身の顔にも、ぱたぱたと散った。

顔を手の甲で拭いながら、男はぎろりと眼前の人物を睨む。

此処は、飛鳥がこの世界に来た場所。
噴水が見える公園だ。
しかし、その当初の時とは異なり、今はただ真っ暗な宵闇に包まれていた。
昼間の穏やかで暖かな雰囲気とは打って変わって、空気はとても冷たく、静かだ。

そのような中、一人佇むように二人を待ち構えている人が居た。
銀髪の男が一番毛嫌いしていた人物、桃色の少女ハートのクイーンだ。

銀髪の男は、すこぶる機嫌が悪かった。

「あの星が出ていたので、誰かが居なくなると分かりました。
勿論、方角からして、それがマスターである事も。
けれど、貴方が傍に居るのですから、必ず無事に此処まで辿り着く事も、容易に想像つきました」

生臭い臭いが充満する中、小鳥が囀るような、この場に似つかわしくない声色を出す少女。
飛鳥は、その可愛らしい声を耳にした瞬間、ばっと身体を持ち上げた。

「クイーンっ!」

恐怖で凍り付いていた飛鳥の心臓に、温かな。
むしろ、熱く滾る血が巡っていった。
恋焦がれていたその存在に、胸も矢庭に高鳴りだした。

全身に電流を流したように、全ての機能にスイッチが入る。
嬉しさと動揺が入り混じって、声は上擦っていた。

飛鳥は、抱えられていた男の肩から飛び降り、少女に走り寄った。
そして、心底嬉しそうにその細い手を握り、満面の笑みを浮かべた。

夜中なので冷えてしまったのだろうか、或いは長時間この場に居たのだろうか。
少女の指先は、とても冷たかった。
何故だか、それすらも飛鳥にとっては愛しかった。
彼女を象るものなら何でも良かった。

「クイーン、会いたかったよ。
御免ね、あの時は何も言わず出て行っちゃって」

飛鳥は、少女の顔を覗き込みながら詫びた。
今までの想いが破裂して、全身から零れて溢れ出そうだった。

「それから、会いにも行けなくて。
会いたかったんだけど、私。
でも、会えなくて」
「勿体無いお言葉。
構いません、マスター」

少女はふわりと微笑み、首を横に振った。
その優しい笑顔に釣られ、飛鳥もまた共に破顔した。

白くて華奢な彼女の手を、愛を請うように己の唇まで持っていく。
少女のひんやりとした手の甲が、唇にとても気持ち良い。
滑らかな肌も、先日の初めての同衾を思い返させる。

悪いと思っていたのだ。
一度関係を持ったまま、何も言わず出て行ってしまった事を。
会って謝らなかった事を。

確かに、この己の想いに応えてくれない少女に苛立ちもした。
思わせぶりな事ばかり言って肝心な言葉をくれない彼女に、憤りを感じた。

けれど。

どうしても忘れられなかった。
ずっと、気がかりだったのだ。

銀髪の男の家で生活するようになってからの日々。
昼間、銀髪の男はほとんど家に居なかったので、飛鳥はほぼ赤髪の少年と生活していた。
勿論、幾ら一緒に時間を過ごすといっても、一日中べったりとくっついている訳でもないので、一人何かを考える暇はあった。
その度、飛鳥は考えてしまっていたのだ。

甘い香りと共に、台風のように過ぎ去っていった、一夜限りの情事を。
それを齎してくれた、儚くも美しい少女の事を。

飛鳥は、かの情事があった日以来、桃色の少女クイーンに会っていなかった。
連絡は一度も無かったし、此方から会いに行こうにも、何処に行けば彼女に会えるのか分からなかった。
不思議と、初めて出会ったその場所に何度足を運んでも、彼女の姿を見る事は無かった。

だから余計に、その想いは募っていった。
考えないようにしようと努めていても、ふとした瞬間に彼女の顔が脳裏を過ぎる。
あの時の甘やかな時間を思い返してしまう。

結局、彼女に対する恨み辛みは消えてしまった。
確かに少し寂しい気もするけれど、それ以上に彼女が愛しかった。

その飛鳥の心情を察したのか、銀髪の男は吐き捨てるように言った。

「言う事きけない悪い子ダネ」

あからさまに機嫌が悪いその声色は、異常にトーンが低い。

「次にアスカの前に現れたら、殺っちゃうって言ったのに」

鎌を握り締めている手に、力が入っている。
銀の髪からは、ぱたぱたと血液が滴っている。

けれど、その男の科白に、飛鳥は甚く気分を害してしまった。

「ちょっと待って。
それってどういう意味だよ、クラウン」

「姿を現せば殺してしまう」だなんて、少女に課せられたそのような条件を、飛鳥は初めて聞いたのだ。
二人がそんな約束をしていただなんて知らなかった。

飛鳥は、この桃色の少女の事がずっと心残りだった。

例えば、儚き花を見た時。
街中を歩いている男女を見た時。
彼女を連想させる何かがある毎に思い返し、ひっそりと溜息を吐いていたのだった。

銀髪の男からの深い想いを考えれば、その少女の事を言える筈がなかった。
飛鳥は、男が自分によくしてくれている事は痛い程に分かっていたし、勿論、それ程に愛されている事も、男が人一倍嫉妬深い事さえも、重々承知していた。

それ故、飛鳥は幾ら少女に想い焦がれても、一目だけでもいいので会いたいと思っていても、それを口にする事はなかったのだ。

今まで想い人に会えないのは、ただ自分のタイミングが悪いせいだと思っていた。
少女を捜しているだなんて事、男には悪くて言えなかった。

それなのに。
それらは全て、最初から男が図っていた事だなんて。
裏で男が手を引いていただなんて。

この男のせいで、こんなにも不可解な靄を抱えていただなんて。

飛鳥は、腸が煮えくり返る思いで、詰問するように男を睨み付けた。

男と暮らすようになってから、毎晩同じシーツに包まれ、何度となく体を交わし、その度に男に愛の言葉を紡がれた。
だが、どんなに男に愛されても、どんなに可愛がられても、それに素直に応える事が出来なかった。
体は開いても、心の扉は開けなかった。

「愛してる」と、ただその一言を返せば良かったのかもしれない。
簡単に口に出来るその五語の言葉を吐けば、男も喜んでいたのかもしれない。

しかし、桃色の少女が脳裏に残っている間は、そんな事など言えなかった。
嘘を吐いているようで、全ての人を裏切っているようで、自分を偽っているようで。
どうしても、それが出来なかった。

ずっと、その男の想いに応えられなくて申し訳ないと感じていた。
愛の言葉を返す事が出来なくて、後ろめたかった。

それなのに、彼は裏切っていたのだ。

もう、こんな男に罪悪感を感じるのも馬鹿馬鹿しい。

「さっき、あんたは一人ルール無視できる立場だって言ったよね?
もしかして、あんたはそれをずっと利用して、クイーンを脅してたって言うの?」

威嚇するように言う。
男は戸惑い、一度言葉に詰まったようだった。

「アスカ、俺は」
「見損なったよ。
そもそもさ、やっぱ人殺しは人道外れてるでしょ。
さっきのは何かよく分かんないけど、でもこれは違うんじゃない?
クイーンを殺すだなんて、あんた間違ってるよ。
何もかも、全くあんたの私事じゃないか」

気が付けば、飛鳥の中で、先程までの恐怖が消えていた。
少女の手を握っているだけで、何処からともなく勢いが湧き出てきたのかもしれない。
或いは、か弱い少女を目の前にして、保護欲を掻き立てられているのかもしれない。

男はやや唇を震わせ、また何か次の言の葉を紡ごうとしたが、それもすぐに止めた。
反論する気がなくなったのだろうか。
それとも、ぐうの音も出なかったのだろうか。
無言のまま、手にしていた鎌をおとなしく腰下に巻き付けている。

まだ刃に残っていた血液が、ぼたりと一つ地に落ちた。

「マスター、彼だけは本当に何のルールも通用しません」

何も答えようとしない男の代わりに、少女が淡々と答えた。

「辛うじて彼も上位の者に対する敬意の念はあるのかもしれませんが、禁忌があるのは我々ナンバーズのみ。
彼はこの世界の死刑執行人ですから、人の命も思いのままなのです」

それだけ説明して、少女が男を睨む。
それでも、彼女の小さな手は、きゅっと飛鳥の袖を掴んでいた。

飛鳥は、「死刑執行人?」と山彦返しのように返した。
今度は、少女が答える前に男が口を開いた。

「そう、アスカ。
いわゆる、アンタらにとっての『死神』ってやつ。
アア、そういやjackはまだ子供だから、この世界の本当の事も言ってなかったかもネ。
昔過ぎて、余り記憶にはないけれど」

男は、薄く笑いながら言葉を吐いた。
其処には、今まで共に暮らしてきた温かな雰囲気や切なげな表情など微塵も感じさせない程に、感情が一切籠もっていなかった。
能面でも被っているようだ。

運命の時を報せる星の輝きが淡くなりつつあった。
月は、恐ろしい速さで傾いていった。
それとは反して遥か遠くからは日が覗き、辺りもぼんやりと明るくなっていく。

不自然な程に時間が急速に過ぎていく。
その日差しのせいで、男の顔は徐々に白くなっていった。

「此処はね、アスカの夢の中なんかじゃない。
此処は人間界と冥界の狭間。
魂の抜けちゃった人が、冥界にいく準備をする為、一旦骨休めするトコなの」

男が言う。

「何だって?」
「マア、皆が皆、来れる訳じゃないんだケド。
即行あの世に逝っちゃう人がほとんどだし。
その点、アンタらは皆、選ばれた人って事になるのカナ」

そこまで言った頃には、その男の顔は完全に逆光で見えなくなっていた。
飛鳥は、告げられた事実に若干たじろいだが、手に残る少女の感触が僅かに気を保たせてくれている。

きゅっと繋ぐ手に力を込めれば、相手も同じように握り返してくれる。
それがとても心強かった。

先程まで肌寒かった気温は、程好い温度まで上がっていった。
水の音も、何処からともなく聞こえてくるようになった。

「つまり、この公園であの世に逝くか、現世に戻るか決まるの。
誰の手にもかからず此処まで辿り着いて消える事が出来たら、現世に戻れる。
住人に殺されたら、天国か地獄、そのどちらか。
俺に殺されたら間違いなく地獄へと、ネ」

男の背に背負われた鎌の刃が、光を受けてきらりと反射した。
その光の具合をもってしても、変わらず男の表情は見て取れなかった。

口調からして、語尾の方はいつもの楽しげな調子ではあったが、果たして顔まで機嫌がいいとは限らない。
銀髪の男『ジョーカー』という男は、そういう男だったのだ。

「さあ、アスカ。
このまま此処に居たら、もう直、向こうに帰れるヨ。
けど、その前に答え出して行きな。
俺とその女、どっちがイイの?」

そこまで言った男の最後の方は、もう笑っているのか、泣いているのか、怒っているのかさえ分からないトーンになっていた。
楽しそうに聞こえるが、何処か切なそうにも聞こえた。

その声色が、飛鳥のなけなしの良心を、ちくりと刺す。
男と暮らしていた時の思い出も、朧げに脳内を巡り出した。

差すような太陽の日差しが、飛鳥の水晶体に直接入って来る。
どうやら、別れの時間はそこまで来ているらしい。

そう察した直後、飛鳥の耳に、この世界に来た時と同様の奇怪な耳鳴りがした。

「私は」

男に対する恐怖はなくなれど、決断を迫られて身体が強張った。
極度の緊張で、喉が張り付いた。

どちらを選べばいいのだろうか。
どちらを選んでも、どっちみち結ばれる事はないのかもしれないけれど。

しかし、正しい答えを選ぶべきだ。
少女の為にも、銀髪の男の為にも。
何より、自分の為にも。

そう考えると、先を安易に言う事も出来ない。

耳鳴りは益々大きくなる。
飛鳥の腕を握る少女の手も、ほんの少し強くなった。

「私は」

飛鳥は、痛む喉を必死に震わせた。
先程貼り付いていた虫が、また奥で暴れているのかと思う程だった。

引いていた汗が、再び全身に戻ってきた。
だが、それが恐怖の為なのか、緊張の為なのか、或いは愛しい人を選べる歓喜のものなのか、飛鳥には全く分からない。

「私は」

不思議と、涙まで出て来た。
その涙と共に、走馬灯のように男との日々が頭を巡った。

思い返せば、此方の世界に来てから、辛い事ばかりがあった訳ではなかった。
確かに、想い人にずっと会えなかったのはもどかしかったけれど、この男の愛情が嫌だった訳ではない。
むしろ、本当は嬉しかったのだ。

少年も交えての三人の生活だって、本当に心から楽しいと思えた。
まだ幼いくせに、何かと世話を焼きたがる少年と喧嘩をしたり、その仲介に男が割って行って来たり。
時には、皆で何処かへ出掛ける事だってあった。

本気で笑ったり、泣いたり、怒ったり、また笑ったり。
現世で過ごした日々とは全く異なった、目まぐるしい毎日。
仕舞いには、今まで生きてきた中で一番充実していた日々だったと断言できる程になっていた。

だから、そんな沢山の楽しい毎日を与えてくれた男を心から憎むだなんて。
やはり、それは出来そうもなかった。

からからに乾く喉を震わせ、叱責し、一つの答えを導き出そうと、飛鳥は口を開けた。
その途端、視界が段々と狭くなってきた。
視界が狭くなれば、同じように頭の中も真っ白になった。

その飛鳥の脳内に、ぼんやりと一人の姿が思い浮かんだ。
理屈もなく、その姿が思い描かれた。
本能だと思った。

だから、その人の名を言おうと思った。
色んな想いがあるけれど、やはりこの人を選ぼうと思った。

たとえ後悔する事になったとしても、それでも、これこそが自分の中の本当の答えだと思ったのだ。

「クイーンが。
私は、クイーンが好き」

かの美しい男ではなく、やはり優しい桃色の少女が。
最初に恋した彼女こそが、私の大事な最愛の人であるに違いない。

言った瞬間、後悔は無かった。
これでいいと思った。

きっと、きっとそうなんだ。
きっと。

自分に言い聞かせるように、何度も彼女の名を脳内で反芻する。

だが、やっとの思いで口にしたと同時、きらりと飛鳥の目の前が光った。
突然の事だった。

瞬時にして広がったのは、赤と黒、そして銀色だった。
飛び散る深紅に、黒の鎌。
最後に煌いたのは、揺れる銀の糸。

それらの艶やかな色彩を目の端に捉えた時、飛鳥の全身に鈍い痛みが走った。
その痛みに耐え切れず、身体はゆらりと斜めに傾いた。
全てがひっくり返っていくとさえ思った。

ああ、地面が近付いてくる。

そう思った時には、もう飛鳥の視界は真っ暗だった。
だが、その手に暖かい温もりだけは、確かに始終残っていた。





TO BE CONTINUED.


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