アスカの右手には、スペードをかたどったタトゥーが一つ、この世界に来てから入っていた。
本人は余り深く考えていなかったようだけれど、この世界に居る為には、それは必須の証。
パスポート。
≪挿絵≫
けれど、ある日。
何も予兆が無く、突然それが消えた。
消えてしまった。
どうしよう。
どうしよう。
アスカが帰ってしまう。
それとも、もしや行ってしまうのだろうか。
恐い。
恐怖を感じた事など、過去数える程しか無かったというのに。
それなのに、身体が急に震えだす。
せっかく手に入れたのに。
せっかく見付けて、やっと自分のものに出来そうなのに。
ずっと、ずっと探していたのに。
アスカだけを待っていたのに。
身分違いの恋と謳われても、決してその心が自分に向く事などなかったとしても。
それでも、何ら構わなかった。
だから、お願い。
置いて行かないで。
僕を、置いて行かないで。
どうか僕も連れて行って。
THE CARD GAME
018/死神の鎌
「shit.
やっぱり来たか」
銀髪の男ジョーカーは、飛鳥を片手で抱え上げ、走りながら舌打ちした。
その体勢のまま、がさがさと草を掻き分け、人気の無い森の中を走る。
腰には、自分の身長程もある漆黒の鎌を巻き付けている。
鎌は美しくも怪しい、大きな鋭利な刃を付けていた。
「ジョ、じゃなくて、クラウン。
あんた、何処行ってるの」
その激しい振動に、気持ち良く眠っていた飛鳥が漸く目を覚ました。
しかし、頭がうまく回らないせいで、ただ重たい瞼を開いて、周りを見回すのが精一杯だ。
辺りは真っ暗で、遠くの方からは梟らしき声がしているのが分かった。
その中を翔っているのか、流れるように緑と茶色が通り過ぎていく。
上を見上げると、紺色の夜空に幾数もの星が輝いている。
何故だかそれが、いつもに増して美しく見えた。
中でも、カシオペア座の横の一際青白く瞬いた光は、思わず魅入ってしまう程だ。
「アア、気が付いたの?」
男は、一切スピードを落とす事なく、担いでいる飛鳥に言葉を掛けた。
随分と早く走っているようだが、息切れはほとんどしていない。
しかし、いつもののんびりした口調ではないので、切羽詰っている事だけは飛鳥にも何となく分かった。
だからといって、何故こんなに夜遅くに男が己を抱え、急いで何処かに向かっているのか?
飛鳥には、それが分からない。
寝起きなせいで、ぼやんとした疑問符は常以上に大きい。
その時、ばさりと大きな木の葉が飛鳥の顔を覆った。
「ぶっ。
ちょ、ジョーカー!」
抗議の声を上げる。
銀髪の男は、すぐさま「御免ネ」と言った。
「けど、急いでるからソレくらいは我慢して。
それから、こんな時に言うのも何だけど、俺を呼ぶ時はjokerじゃないデショ」
注意されて、「ああ、そうか」と反芻する。
そういえば、『ジョーカー』でなく『クラウン』と呼んで欲しいと言われていたのだった。
飛鳥は、未だ男の事を『クラウン』と呼びきれていない。
意識している時はきちんと『クラウン』と呼ぶのだが、不意に出て来る方は大概が『ジョーカー』だ。
別に、その呼称で呼ぶ事に抵抗がある訳ではないのだが、つい忘れてしまう。
特に、自分以外の者が皆『ジョーカー』と呼んでいるものだから、尚更だ。
耳に慣れ過ぎてしまった。
それに、いい訳がましい気もするが、『クラウン』より『ジョーカー』の方が呼びやすい気もする。
ひゅうひゅうと、風を切る音が耳を通り抜けて行く。
それに混じって、男も風のように走り抜けていった。
通り過ぎる冷たい風が、飄々とした男の常にはない焦りを教えてくれる。
けれど、未だに頭がきちんと働かない飛鳥は、揺れる身体に身を任せながら、相変わらずゆったりと尋ねた。
「ねえ、どこ行くの?
そういえば、ジャックは?
此処、何処?」
確かつい先程まで気持ちよく眠っていた筈だ。
しかも、この銀髪の男にめいいっぱい愛された後で、疲労困憊しきった体をシーツに沈めながら。
それなのに、この状況は何なのだろう。
一緒に暮らしているジャックも、一体何処に行ったのやら。
「今はそんな事言ってられない。
アンタ、このままじゃ死んじゃうヨ」
「は?
死ぬってあんた、ベッドは?」
思っても無い返事に、飛鳥は思い切り素っ頓狂な声を上げ、噛み合わない問いを再度返した。
しかし、その問いに答える気は無いのか、男はただ黙々と走り続ける。
飛鳥は、何が何やら理解出来ず、狐につままれた気分で、ぽかんと口を開けた。
すると、その弾みに何処からか小さな羽虫が口内に入り込んで、べたりと喉に貼り付いた。
「う、えっ」
げほげほ、と噎せる。
銀髪の男は、それすらも無視する。
「アスカ。
アンタ、jackにこの世界の事どう説明して貰ったか知らないケド、このままじゃ死ぬかもヨ。
俺が言うんだから、それも間違いないと思ってヨネ。
アンタは帰るか、行くか、そのどちらかだ」
「し、死ぬうー?」
一応返答してみるが、飛鳥は喉で違和感を与えてくれる虫にえづいていた。
口内には、げじげじとした感触と、少しの苦みが広がる。
どうやら無駄に味わって、剰え飲み込んでしまったらしい。
気持ちが悪くて、涙目になってしまう。
「簡単に言えば、アンタはこの世界に居られなくなったの。
だけど、まだアッチの世界に行くには早過ぎる。
アッチに行けば、もう会えないだろうし、それじゃ俺が困るんだ」
「あっち?
ちょっと待ってよ。
何の事?」
飛鳥の疑問などさておき、銀髪の男がさっさと話を進めて行く。
これでは、益々頭が混乱するだけだ。
自分自身で脳内を整理する為、飛鳥は考えてみた。
きちんと返事をしてくれない銀髪の男は、頼りにならない。
彼が言う『この世界』とは?
『アッチ』とは?
それらは一体、何処を指しているのだろうか?
赤髪の少年は、『この世界』が飛鳥の夢の中だと言っていた。
だから、この世界の住人は、全て飛鳥の駒なのだとも言っていた。
だとしたら『アッチ』とは、夢から覚めた現実世界の事なのだろうか?
「此処って私の夢の中でしょ?
それって、現実の世界にまた戻るって事?」
行きついた答えが正しいのかどうか問うてみる。
相変わらず喉はいがいがしていた。
相当しつこい虫のようだ。
こんがらかるこの現状で唯一現実味を帯びているのが、不快極まりない口内だけだ。
その瞬間、ざっと二人の目の前に、大きな影が遮った。
全身を黒の布で纏った、大きな人だ。
それがゆらりと動き、二人にじりじりと寄ってきた。
けれど、後ろを向くように俵担ぎされていた飛鳥は、その人影に全く気付かなかった。
ただ「物音がするな」程度には思ったけれども。
「shit」
男は再度小さく舌打ちをして、腰に巻き付けていた大きな鎌に手をかけた。
そして、飛鳥に当たる事がないように、目にも止まらぬ速さで鎌を振った。
当の飛鳥は、その時に初めて男が鎌なんて物騒な物を持っていた事に気が付く程度だった。
目の端には映っていた筈なのに、それを凶器だと頭は認識していなかった。
闇夜の中、鈍い音が響く。
その音の直後、真っ赤な鮮血が辺りを濡らし、四方八方に飛び散った。
一瞬にして、生臭いにおいが漂った。
「なっ、なな、な、何?」
その余りに衝撃的な音でやっと完全に覚醒した飛鳥は、びくりと身体を強張らせた。
直後、影はずしんと音をたて、その場に倒れた。
「ひっ」
得体の知れない物音に、飛鳥は小さく声を震わせた。
恐る恐る、其方を振り返ってみる。
地面には、倒れた大柄な人間がいる。
あらゆる場所に、赤い液体が散っている。
自分を抱えている男も、自分自身も、何かで濡れている。
「何、これ」
触ってみると、ぬるりとして温かった。
血液だった。
飛鳥は、また喉を鳴らして悲鳴を上げた。
背筋に、ぞくりと鳥肌が立った。
どうやら先程の音は、男が誰かを斬りつけた音だったらしい。
けれど、おかしな事に、たった一人斬り付けただけにしては、自分達は随分と返り血を浴びている。
飛鳥も、銀髪の男も、全身ぐっしょりだ。
目の前で倒れている人間よりも、遥かに血で濡れている。
恐らく、銀髪の男が人を斬ったのは、先刻が初めてではないのだろう。
飛鳥が眠っていた間に、同じような事が何度もあったのかもしれない。
幾人も殺されたのかもしれない。
そう考えただけで、恐ろしくなった。
この男は、人殺しだったという事だろうか?
それも、全く躊躇などせず、いとも簡単に誰かを殺めるような、残酷非道な性分をした…。
背に冷たいものが伝った。
酷く困惑しているのに、体の芯が一気に冷えた。
飛鳥の動揺など露知らず、男は倒れた影を足蹴にし、再度走りだす。
「此処の世界では、人殺しはtaboo.
tabooを犯したら、死刑執行人に地獄に落とされると言われているんだヨネ」
すると淡々と、けれど唐突に、銀髪の男は何かを説明し始めた。
飛鳥の強張った体から何かを察したのだろうか。
「な、何?」
飛鳥は、男を極力刺激しないよう、静かに応えた。
本当は、今すぐ「人殺し!」と叫んで逃げ出してしまいたかった。
いとも簡単に人を殺めた人間に、そしてその殺人鬼に触れているというこの現実が、何とも言い表しがたい程に恐ろしかった。
だが、きつく抱えられた状態では、うまく身体を動かす事は叶わない。
逃げられそうもない。
もしかして、自分も殺されてしまうのだろうか?
銀髪の男が続けた。
「ケド、その禁忌が許される日がある。
例えば、殺してしまいたい相手が此処の住人じゃなくなろうとしてる時。
それが今なんだ」
「へ?」
「だから、アンタは命を狙われてるんだヨ」
「どういう意味?
さっぱり分からないんだけど」
「アンタは今、此処の住人じゃなくなろうとしてる。
此処の世界では、人を殺ったら同じsuit内に限り、自分がその相手のrankになり変わる事が出来るんだ。
勿論、自分より下位の者を殺して入れ替わろうとする風変わりな奴なんて、早々居ないけどネ。
だから、命を狙ってくる奴らは、専ら下位の人間だと思っていい」
男は、ゆっくりと穏やかに説明してくれた。
そして、他人の血液で濡れてしまった飛鳥の下肢を、簡単に手で拭ってくれた。
その手付きと口振りが余りに優しくて、労りを感じてしまって。
飛鳥の強迫観念は、若干遠ざかっていった。
どうやらこの男は、飛鳥の命を狙っている訳ではないらしい。
多分に、その逆だ。
彼は、飛鳥の命を護る為、飛鳥を傷付けようとした人間達を逆に始末してくれているらしい。
けれど、銀髪の男が残忍な性分をしている事は違いなかった。
幾ら優しく話し掛けられても、今この触れている男が誰かの命を奪っただろう事は、紛れも無い事実なのだ。
いかなる理由があるにしても、完全に恐怖を忘れ去るのは、やはり無理な話だった。
「下剋上って事?」
飛鳥は尋ねた。
「そう。
masterの座、つまりアンタのspadeのaceの位を狙っている奴は、最高で十二人居る可能性があるって事。
アンタより下位の者がアンタを殺して、自分こそが上に立とうとしてネ」
静かに、それこそ落ち着いた声色で、男は諭すように言う。
その裏側に、少しだけ寂しそうな色が隠れている事に、飛鳥は気付かなかった。
男も、飛鳥に己の顔が見えないのをいい事に、思い切り眉を顰めていた。
「でも、あんたも十分マナー違反してるんじゃない?」
男が説明してくれた事に、おずおずと反論してみる。
「その鎌でさっき人を、こ…殺したし」
『人を殺した』というところは強調しないように、小さな声で言った。
人殺しなのは、この男も一緒だ。
「そういえばタロン以外でもヤったでしょ、私と。
確か、タロン外で誰かとそういう事をするのも、違反なんじゃなかった?」
思い出したかの如く、タロンでの決め事も付け足した。
確かに、桃色の髪をしたクイーンが説明してくれたのだ。
かの場所以外では、情交を交わしてはいけない、と。
それもこの世界の規則なのだとしたら、人殺し以外でも、ルール違反を十分に犯して来た事になる。
たとえ、死刑執行人とやらに地獄に落とされる程ではないにしても、規範を破っていた事は確かだ。
その件に、今の今まで不思議に思わない事はなかった。
だが、敢えて問い質す事でもないような気がしたので、問い詰めて聞かなかった。
それに、あの少女の言っていた事が嘘だとは思いたくないけれど、それでも間違っていた可能性はあるのだ。
現に、あの赤髪の少年ジャックも、白黒のジョーカー達とタロン外で交わっていた。
普段余り人に気を遣う性分ではないくせに、下手に色々と配慮して言葉を発した分、飛鳥は複雑な気分になっていた。
何とも落ち着かない。
歯切れが悪い。
男は、ふっと自嘲気味な笑みを作った。
「アスカ、俺のsuitをご存じでない?
俺はjoker.
card gameしてる時、jokerって唯一ruleのない役だったデショ?」
そう言って、男は、ひゅんと風を切り、鎌にこびり付いている血液を払い落とした。
それでも、振り切れなかった液体が、後からぽたぽたと地に滴り落ちていた。
二人の身体も、拭いきれない量の赤い汁が染み込んだままだ。
その時すでに、男が向かっていた目的地はもう目の前にあった。
期限も迫っている。
かの場所に近付けば近付くほど、別れの時も早くなる。
未だ現状を把握しきれていない飛鳥とは反して、男は一人、そう思っていた。
TO BE
CONTINUED.
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