何も興味を示さなかった男が、初めて執着した。
来る者拒まず去る者追わずの無関心で気紛れな男が、依存という言葉を覚えた。
だけど、そんな想いを抱いたのも初めてだから、勿論、為す術も間違って。
手に入れたくて入れたくて藻掻いてるあんたの姿が、胸に痛いよ。
なあ、ジョーカー。
どうすんだよ。
あんたの宝物、他の人を好きになったみたいだぜ。
生憎な事に、その相手も憎からず想ってくれている。
どう足掻いても、どうしようもないくらいに。
どう頑張っても、奪う事が出来ないくらいに。
俺は、その三角関係の手助けまでしちゃったんだ。
あんたがそんなに本気になってるだなんて思わなかったし、何よりあの二人が想い合うだなんて事も分からなかった。
なあ、ジョーカー。
俺も、どうすればいいんだよ。
俺は、あんたの為に何をすればいい?
THE CARD GAME
013/HAPPINESS
「何してんだよ、ジョーカー」
「は?
ジョーカー?」
赤髪の少年ジャックに「家へ案内する」と言われ、人気のない道を歩いていた飛鳥は、素っ頓狂な声を上げた。
少し前を歩いていた少年の前方を覗き見れば、其処には間抜けにも地に尻餅をついた銀髪の男が一人、ちかちかと切れかけの街頭に照らされて呆然としている。
夕方特有の伸びた影が、より一層滑稽さを増さしているようだ。
男も、少年の声に反応したのか、ゆっくりと首を回して振り返った。
「アア、jack.
どうもこうもないヨ」
男は地に付いていた手を挙げ、心底疲れた表情を見せた。
しかし、次の瞬間には、その二つのワインレッドのガラス玉を大きく見開いた。
少年の背後に居た飛鳥の存在に気が付いたのだ。
「アスカ。
アンタ、やっと起きたんだネ」
男は、ゆったりとした喋り方から、一気に声のトーンを上げた。
先程まで纏っていた陰気な雰囲気も、まるで最初から無かったかのようだ。
銀髪の男の変わり身の早さに、少年は軽く溜息を吐いた。
それに気が付いているのかいないのか、男は座り込んだまま、此方へ来いと嬉しそうに飛鳥に手招きする。
子供が大好きな菓子を買って貰った時のような笑顔だ。
「何、ジョーカー」
「もう、つれないな。
clownって呼んでって言ったじゃん、アスカ」
「別に名前なんて何でもいいじゃん」
「良くないヨ、アンタにはそう呼ばれたいのに」
飛鳥は、腰に手を当てながら男を見下ろした。
別に呆れている訳ではなかったものの、実は飛鳥こそ機嫌が悪かったのだ。
昨夜、自分からその淫行場に踏み入れたとはいえ、この銀髪の男は、見ず知らずの女と己を有無を言わせず交わらせた。
抵抗もしようと思えば出来たのかもしれないが、それでもこの男が居なかったら、あのような事もしていなかったと思う。
三人で狂った乱交など、する訳がなかった。
しかも、少年の話から察するに、この男は普段から女遊びが激しいときた。
自分もその遊びの一人として勘定されているのが、今更ながら癪に障る。
しかし、男はその飛鳥の心内に、全く気が付いている風は無かった。
寧ろ、飛鳥の機嫌が悪い事にすら勘付いていないのかもしれない。
「どうしたの、アスカ?」
男は、ふんわりとした笑みを返して、嬉しそうに言った。
それに、流石の飛鳥も、調子を狂わされてしまった。
余りに邪気無く笑うものだから、怒るだけ無駄なような気がした。
それでも、気を害している理由はまだ他にもあった。
飛鳥にとって、口付けを交わす事は初めてだったのだ。
しかも、初対面でいきなりだなんて。
その件の事を、飛鳥は未だ納得していない。
然程知らぬ相手とキスをし、剰え承諾も得ず身体も交わすなど、この男にはデリカシーというものがないのだろうか。
自分の事は全て棚に上げ、一人悶々と考えてみても、答えは出ない。
どういうつもりだったのだと問い質してやろうと思っていたのだが、男のあどけない笑顔に今一つ怒りきれない。
況してや、互いの恋愛と情交に対する価値観が違う事は、何となく理解出来てしまった。
性に対する全ての感覚が違う。
片や女遊びは日常、片や全ての経験が初めて。
そんな者同士で言い合ったところで、分かり合えないのは火を見るより明らかだ。
憤りを感じたとしても、それも一方通行なだけだ。
そう悟った飛鳥は、ただ、つんと唇を尖らせた。
「別に。
それより、そのクラウンていうの、モデルネームってやつ?」
まだ残る苛立つ心は隠し通せなくて、少しだけ男を見ない風にして問うてみれば、やはり相変わらず上機嫌の声色が返って来る。
「ン、そうだケド。
jackに聞いた?
この世界の色んな事」
飛鳥の姿を確認しながら、誰もが見惚れる穏やかな笑顔を浮かべる男。
先程までの間抜けな面も嘘のようだ。
男の整った顔の内に有るのは、ただ心底慕う「恋慕」と「忠誠」の色なのだろう。
悪戯をした馬鹿犬がその事の重大さを理解しないまま飼い主に尻尾を振る様と、とても似ている。
飛鳥は「まるで忠犬ハチ公と恋に狂う人間を足して二で割ったようだ」とさえ思った。
或いは、もっと盲目的で清々したものかもしれないが。
すると、だらだらと続く会話に苛立った赤髪の少年が、その二人の間に割って入った。
「んな事はどうでもいいんだけどさ、ジョーカー」
男は、その少年にも柔和な笑みを浮かべて先を促す。
飛鳥の視線も、ちらとその小さな後頭部に移った。
「どうかした?
jack」
「いや、マスターを俺らの家に泊めたいんだけど、もう一人のジョーカーはいいって言うかな、と思って。
マスターとジョーカーは昨日タロンに泊まったんだろうけど、今日もって訳にはいかないだろ」
「ン。
そういや、もう一日経ってたネ。
時間の流れの早い事」
「話聞いてんのかよ。
そうじゃなくて、もう一人のジョーカーはいいって言うかな?
このままじゃ、多分、マスターは何処にも行く宛てがないだろうからさ」
「え、何?
私を何処かに泊めてくれるの?」
二人の噛み合わない会話に、飛鳥はずいと身体を乗り出して参加した。
男はにこりと笑って、その飛鳥の腕を掴みながら立ち上がる。
男からは、ふわりと甘い痺れるような妖艶な香りがした。
「別に俺は今日もアスカとtalonに泊まってもいいケド。
昨日は邪魔者も居たし、途中でアスカ気失うし、まだしたい事は…」
「無茶言うなよ。
マスター初めてなんだから、そんな酷使してやんなよ」
言いながら、男は長くて細い指で飛鳥の身体を撫でた。
もうすでに何かのスイッチが入ったのか、その仕種からは発情している様が見て取れる。
けれど、その手はすぐさま少年に振り払われた。
男も、簡単に降参する。
どうやらこの小さなおせっかい焼きも、存外、飛鳥の事を気にかけているらしい。
「マ、アイツらも文句言わないんじゃない?
泊まればいいヨ、アスカ」
男は、空いてしまった手をそのまま上空に上げながら、怠そうに大きく背伸びした。
そして、「どうする?」と言わんばかりに、ちらりと飛鳥に視線を遣る。
同じように、少年も飛鳥に答えを望む視線を送ってきた。
飛鳥は、首を小さく傾げた。
「あいつら?
あいつらって誰?」
「だからもう一人のジョーカーだよ、マスター」
呆ける飛鳥に、嗜める口調になりながら少年が言う。
「はあ?
『あいつら』とか『もう一人』とか、結局一人なのか複数なのか分からないんだけど」
飛鳥は益々頭を捻りながら二人を見た。
夕暮れの明かりが、男の銀の髪を美しい橙に染めている。
少年の真紅の髪を、更に鮮やかに映えさせている。
黒の髪をした飛鳥だけが、何の変化も無い。
「来れば分かる」
「ン、マアそういう事。
あんまり細かい事言ってたら、その可愛い唇、また塞いじゃうヨ」
腑に落ちない顔をしたままの飛鳥の頬を、男は爪で軽く引っ掻いた。
それに、飛鳥はまた胸を冷やされる事になった。
男の何気ない所作は、ほんの些細な事でも直ぐに官能に繋がらせる事が出来るらしい。
飛鳥の心臓は、矢庭に騒がしい鼓動を打ち始めた。
男の要らぬ科白と淫奔なちょっかいのせいで、また先日のような高揚を感じてしまったのだ。
飛鳥は、その動揺を男と少年に見透かされてしまうのが恥ずかしくて、顔を見られないように一人ずかずかと歩きだした。
下肢も中途半端に反応してしまったので、兎に角それも誤魔化したかった。
「ほらっ、行くなら行くよ!
こっちで方向はあってるんでしょ!」
「ハイハイ、今行きます」
張り上げた飛鳥の声とは逆に、男は小さく笑いながら返事をした。
しかし、少年は何故いきなり飛鳥が大声を出したのか理解が出来なかったらしく、一人困惑の表情を浮かべていた。
男は、その少年の面表にも笑みを返し、小さな頭を軽く撫でてやった。
「ジョーカー」
優しく頭を撫でられながら、ふと思い出したように少年が口を開く。
男は親のように優しく問い返す。
「ン?」
「本当にさっき、何してたの?
一人で道端に座り込んだりなんかしてさ」
男の服の裾を摘み、少年は相手の手を止めさせた。
男が少年の顔を覗き込めば、少年は赤い眼差しを心配そうに揺らしていた。
「ンー、何の事?」
「俺らが来る前に、地面に尻餅なんかついてたじゃん。
何かあったのか?
怪我は?」
年甲斐も無く気が良く回る少年は、男を心底気にしているようだった。
それに、男は少し考える仕草をして眉を下げる。
勿論、本当は考えている事など無いにしても、だ。
「アア。
さっきまで、とある子と居たんだけどネ。
思ってもない反撃食らっちゃって、逃がしちゃった」
「とある子?
誰だよ、それって」
「サア?
忘れちゃった」
「それって、もしかして」
「ま、それもアスカ見て幸せ戻ってきたから、もうイイヨ」
「は?
何だよそれ。
俺はなあ」
更に詰め寄って来た少年に、男はぽんと再度手を乗せながら、「まあネ」とだけ応えた。
そして、それ以上は口を開かず、相手にそれ以上言わせる事も許さず、飛鳥の後ろを追い駆けた。
取り残された少年が目を前に遣れば、日はほとんど沈みかけていた。
橙の光も段々と暗みを帯びてきて、もう今日も終わりにしようと遠くで烏が鳴いていた。
TO BE
CONTINUED.
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