私は、クイーンの体内からずるりと音をたて、自身を引き抜いた。
彼女は「あっ」と小さく鳴いた。
自分の吐き出した精が、彼女の下肢から溢れて垂れているのも分かった。
けれど、もうさっきみたいな昂ぶりは、全く感じなかった。
だって、彼女は最後まで応えてくれなかったんだ。
私のこの切実なる想いに。
渇望しているこの渇きに。
それが堪らなく辛くて、痛くて、もどかしくて。
私は、脱ぎ散らかしていた衣服をさっと纏い、彼女を振り返らずに部屋を後にした。
何だか失恋したみたいだった。
けれど、こうなる事が分かっていたのか、心は確かに痛んでいるのに、何処か頭は冷静だった。
あの少年も言っていた。
「自分達は只の駒」だと、「マスターの駒」なんだと。
それは、こういう事を指していたのかもしれない。
どんなに想っていても、愛していても、自分達は感情すら持たない、只の一つの道具だと。
そう言いたかったのかもしれない。
つまり、結局は全て独り善がり。
私の、愚かな空回り。
だから、最後まで彼女は何も言わなかったんだ。
何も。
何も、言わなかったんだ。
THE CARD GAME
008/覗き
飛鳥は、音を極力立てないように、障子の戸を静かに閉めた。
別に誰かが寝ている訳ではないし、静かにする事を強要されている訳でもない。
だが、そうしなければいけない気がした。
ひたりひたりと足音も控えめに、先程来た廊下を忍ぶ足取りで歩き、待っているだろう赤髪の少年ジャックの元へと戻る。
胸には、もやもやした霧が掛かっていた。
この部屋に来る以前の時とは明らかに違う、いやに煩わしいものだった。
その不快感に、飛鳥はきゅっと眉を寄せる。
出来た眉間の皺と一緒に、醜く黒い感情も滲み出てきそうだった。
「何だってんだよ」
そう一人零して、胸を掻き毟る。
けれど、行き場の無い想いは、苛々と際限なく溢れてくる。
その憤りの正体を、飛鳥は知らない。
否、知りたくも無かった。
その時。
「ホラ、もっと」
「あっ」
斜め奥の少し開いた戸から、聞いた事がある男と、艶めかしい女の嬌声が耳に届いた。
その声に、飛鳥ははたと足を止めた。
ゆっくりと振り返り、今一度そっと聞き耳を立ててみる。
「何してんの?
もっとダヨ」
「あっ、いいっ。
いいのっ」
今度ははっきりと、男女の声と淫らな水音が聞こえてきた。
どうやら情事の真っ最中らしい。
女の艶かしい喘ぎと、それを煽る低い男の声が行き交っている。
「もっと腰使ってヨ」
「あ、ああ。
ジョ、カァ」
ジョーカー?
飛鳥は、その女の言葉に、ぴくりと肩を震わせた。
先程まで進めていた足も、ぴたりと止めた。
すると、それと同時、治まっていた筈の下肢も、何故だかずくりと疼き始めた。
本日二度目の昂ぶりだった。
しかし、その昂ぶりは、桃髪の少女に出会った時の高潮感とは似て非なるものだった。
たとえば、少女に対しての感覚が、自分の身体を彼女に埋め込みたいというものだとすれば、今回は自分の体内に。
もしくは、下肢の方に何かが足りないような。
肉と肉の間に、何かを埋め込まなければならないような、そんな奇怪な感覚だった。
「ああっ、いいっ」
不可解な欲に苛まれていると、女の喘ぎ声が一層大きく響いた。
その声が、酷く飛鳥を興奮させる。
しかし、僅かに残る理性で己を叱責し、足を無理矢理動かそうと努めた。
この場に呑まれてはいけない。
それでも、その気持ちとは相反するように、ずくりずくりと体内が波打って反応する。
「あ、もっと!
もっとよ、ジョーカー」
女の喘ぎが甲高くなるにつれ、理性もどんどん掻き消されていった。
彼の銀髪の男の呼称を聞かされる度に、淫らな欲が大きくなった。
何より、男となってしまっている身体が、その部屋との距離を縮めていった。
いけない事だと分かっている。
これ以上近付いてしまえば、後戻り出来ない事も分かっている。
覗きだとて、趣味な訳ではない。
それでも、本能の趣くまま、じりじりと声が聞こえる部屋へと、己の身体は寄って行く。
「もっと腰振って。
じゃないと、俺イけないデショ」
「あ、あっ、あっ」
飛鳥が近寄るに連れて、男女の声は更に大きくなっていった。
その声一つも取り零さないように、慎重に、足音を立てないように、ゆっくりと。
飛鳥は、息を殺して歩を進める。
戸のすぐ傍まで来たら、その緩々とした動作で、僅かに開いている隙間から目だけを覗かせてみた。
ごくりと生唾が喉を通り過ぎた。
その唾を嚥下する感覚が、更に己を昂ぶらせた。
「あ、はっ」
飛鳥が覗いた、銀の障子の向こう。
其処には、案の定、一組の裸体の男女が交わっていた。
飛鳥の鼻に、つんと独特な匂いが届く。
この部屋の香に入り混じってはいるが、その情事特有な香りは、確かに鼻に煩かった。
長い髪を振り乱し、豊満な肉体で男の上を跨ぎ、腰を振っている金髪の女。
そして、胡座を掻いてその腰を支えているのは、飛鳥の脳裏に先程まで残っていた銀の髪の男、ジョーカー。
「あいつ、何やってんだ」
その二人を確認してから、目を少しばかり怪訝に細めて、飛鳥は小さな声で呟いた。
「さっきは、私の事好きだとか何だとかほざいてたくせに」
そう呟いた瞬間、飛鳥の中には何とも言い難い新しい苛立ちが生まれた。
仕舞いには、先程まで脳裏を占めていた筈の少女の面影も簡単に消え、目の前の者達の存在で一杯になった。
急に針を振り切った憤懣のメーターは、頂点まで上っている。
だが、それと同時に、先から得体の知れない感情に振り回されるばかりな己に、酷く嫌悪した。
まず最初に感じたのは、少女に対する慕情。
男としての性。
けれど、空回りな片恋。
そして、今は銀髪の男に対する、嫉妬にも似た感情。
今までに感じた事のない心情ばかりが、立て続けに起こる。
飛鳥は、それらの不快な想いを行き過ごそうと、ぎゅっと目の前の唐紙を握り締めた。
そうでもしないと、何かが胸から溢れて発狂しそうだった。
しかし、そのせいで、飛鳥が凭れていた唐紙の襖は、がたんと大きな音を立ててしまった。
私憤の為に、障子を強く握り締め過ぎたのだ。
どうしよう。
覗いてたの、ばれたかもしれない。
ひやりとした余り、飛鳥の身体はみるみる冷めていった。
どうしよう、どうしようと、同じ言葉ばかりが繰り返され、大して役に立ちもしない言い訳が頭の中を駆け巡る。
目合いを他人に覗かれて、平気な人間など早々居ない。
きっと、銀髪の男と、そのパートナーである女も、例外ではない筈だ。
飛鳥の存在を知れば、出歯亀だと責めて来るだろう。
「あっ、あっ、ジョーカ」
けれど、懸念していた音も耳に入らなかったのか、女の喘ぎ声は先程と変わらず、止む様子を見せなかった。
それどころか、激しさを増しているようでもあった。
どうやら、杞憂だったらしい。
飛鳥は、ほっと小さく息を吐き、その場にずるずると腰を下ろした。
胸に手を当てれば、心の臓が忙しく鳴っていた。
今度こそばれない内に、さっさとこの場を離れた方がいい。
中に居る人物達に勘付かれては、些か困る。
覗きだなんて、みっともない上に卑怯である。
何より、悪趣味だ。
反省した飛鳥は、ゆっくりと立ち上がり、一歩後方に後退りした。
そして、最後にもう一度気付かれていない事を確認する為に、その襖の奥を盗み見た。
これで最後にしようと思った。
もう最初から見なかった事にしようと思った。
しかし、飛鳥はその扉の向こうから熱く見つめて来る一つの視線にぶつかった。
否、絡め取られてしまった。
性質の悪い蜘蛛の巣より強力に引っ張られる感覚。
飛鳥と目が合ったのは、彼の銀髪の男だった。
飛鳥を捕らえたその男の眼は、怪しくも美しく、確りと此方を見据えていた。
その者の銀の髪は、閉められたカーテンから僅かに漏れる光を受け、奇形にきらきらと煌めいている。
飛鳥は背筋をぞくりと粟立たせた。
金縛りにでも遭ったように身体が緊張した。
男はおいでおいでと手招きし、もう片方の手で抱いている女の尻を撫で上げている。
その指が動く様は、決して女を愛でている風ではなく、ただ妙に淫猥さだけがあった。
女の背中越しににこりと細められる彼の瞳も、飛鳥を捕まえる甘美な罠になった。
あそこに行けば、きっと私は帰れなくなる。
飲み込まれてしまう。
そう虫の知らせがあるものの、飛鳥は誘われるようにその部屋の方へと足を進ませてしまった。
音を立てずに襖を開ければ、男は満足した面妖な笑みを零した。
男は、飛鳥が居ると分かった時点から、こうなる事が分かっていたのかもしれない。
寧ろ、もっと前から予測していたのかもしれない。
そうとは思いたくなかったが、その笑みは確かに余裕めいた含みがあった。
女の方は、未だ飛鳥の存在に気が付いていないようだった。
それが唯一の救いだった。
男は、己の首に巻いていた深紅のリボンを手に取り、女にきつく目隠しをした。
いきなり施された拘束に、女は少し驚いている態を見せたが、打ち付けられる腰に、変わらず甘い声を上げ続けた。
恐らく、一種の遊戯だと思っているのだろう。
銀髪の男は、指を口元に当て、「喋るな」と飛鳥にジェスチャーをしてきた。
にい、と怪しい笑みも浮かばせている様は、まるで希有な人形のようだ。
飛鳥は、男の指図に黙って頷き、後ろ手に扉を静かに閉めた。
それから、その場にゆっくりと腰を下ろし、息を呑んだ。
膝をついて触れた畳は乾燥していて、ちくちくと針を刺すように痛かった。
布団の上に腰を下ろしている銀髪の男には分からない痛みだろう。
それでも、飛鳥は目の前で行われている情交に釘付けだった為、それも然程気にならなかった。
胸は、不自然にも激しく高鳴っていた。
飛鳥とて、このままこの場に居れば、これから起きるだろう事に予想が付かないほど子供ではない。
だからこそ、その未知なる快楽への扉が酷く蠱惑的で、逃れにくかった。
尻は、畳に根付いてしまっていた。
しかし、男と女の繋がっている部分だけは、凝視する事が出来なかった。
女が止まる事無く腰を振っているので、淫らな水音は止む事がない。
それなのに、その音源だけは見る事が出来ない。
別に此処まで来て恥ずかしがるのもどうかと思うが、寧ろ男も見られたところでどうとも思わないのだろうが、何故かそれだけはできなかった。
先程までは、桃色の少女との色事の最中、嬉しくてしつこい程に眺めてしまっていたにも関わらず、だ。
飛鳥は、定まらない視線を、ただ彼方此方に遣りながら様子を窺った。
そうする事しか出来なかった。
今更ながら、無駄な恥じらいをしているなあとさえ思った。
そんな飛鳥に、男は「服を脱いで」と、更なる要求を、音を立てる事なく唇の動きだけで伝えてきた。
飛鳥は、自分まで服を脱げばどうなるか考えるまでもなく分かっていたが、躊躇する事なく素直に承諾した。
するすると流れて落ちていく布は、先刻のように、もう煩わしいものではなくなっていた。
飛鳥自身が二度目の行為に慣れたのか、或いは銀髪の男の業なのかは不明だが、どうやら手元は不思議と落ち着いているらしかった。
飛鳥は、再び姿を現した己自身に嘲笑った。
其処はすでにどくどくと反応しており、身体は何処までいっても正直で、欲の果てなど見当もつかないようだったからだ。
衣服を全て剥ぎ取った飛鳥は、何処も隠す事なく男の前に立った。
つい数分前に精を吐き出した筈の飛鳥自身は、銀髪の男にも負けぬ程に、角度を持って上を向いていた。
その裸体を、男は上から下まで舐め上げるように見詰めた。
中でも、存在を主張している肉芯を見た時には、さも愛しいと言わんばかりに破顔した。
居心地悪い飛鳥は、俯く事しか出来なかった。
TO BE
CONTINUED.
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